「見つめる先」に、俺はいない
「蓮さん、今日のインタビュー、本当に最高でした」
この言葉を、伊織はもう何度言ったかわからない。
蓮は控室の休憩スペースに座り、少し困ったように眉間を揉んだ。
「もう何回も聞いた」
伊織は水を渡しながら、興奮を隠しきれない顔をしていた。
「これは心からの感想です。このあと明里さんが一緒に写真を撮りたいって言ってるんだけど、スタイリストさんに別の衣装を出してもらう?」
「写真を撮るだけだろう」
蓮は水を一口飲んだ。
「着替えるほどのことじゃない」
伊織は、蓮がそういう細かいことを気にしない人間だとわかっているため、それ以上強く言えなかった。
しばらくすると、星野明里が人の間を抜けてこちらへ歩いてきた。さっきまで番組関係者やプロデューサーを相手にしていたはずなのに、まだ余裕を失っていない。
「やあ」
「明里さん」
「収録が終わってまで明里さん? 名前で呼んでくれていいのに」
蓮は笑った。
けれど本当に呼び方を変えることはしなかった。
星野明里も気にしない。彼女は蓮の黒いスーツを見た。
「このあと写真を撮るのに、着替えないの? 最近のこともあるし、今日はけっこういい露出になるわよ」
「服一着で変わるわけでもないですから」
蓮は言った。
「着替えたからって、変身できるわけでもありません」
星野明里は笑った。
「じゃあ、私のところにちょうど一着あるから。伊織君、彼を試着室へ連れて行って」
伊織はすぐに乗った。
「はい。蓮さん、行きましょう。明里さんがこう言ってくれてるんですから」
蓮は二人に押し切られ、試着室へ向かった。
カーテンが開いたとき、蓮はすでに元の黒いジャケットを脱いでいた。身体に合ったシャツが肩の線と腰の細さを浮き立たせ、長い脚と整った比率は、現実の人間とは思えないほどはっきりしている。
伊織が衣装を渡した。
蓮はそれを見て、少し困ったように笑った。
「着替えるにしても、ここまで目立つ必要はある?」
伊織はへらっと笑う。
蓮が着替えて出てくると、星野明里と伊織は同時に彼を見た。
星野明里が軽く口笛を吹く。
「さすが、天性の衣装映えね」
「この服をここまで着こなす人、初めて見たかも」
蓮は鏡を見る。
彼は普段、外ではほとんど黒いスーツばかり着ており、家では楽な服装が多い。こういう明るい色の衣装は、たしかにあまり選ばない。
「どう?」
二人を見る。
「いい。これでいきましょう」
星野明里が即決した。
「写真を撮りに行くわよ」
その時、伊織が何かを思い出したように言った。
「そうだ、蓮さん。会社からいい知らせを伝えるように言われてました。『雲中縁』で、ニューカマー賞の最優秀新人賞と優秀主演男優賞にノミネートされました」
蓮は一瞬、反応できなかった。
「いつ?」
「来週です」
伊織の目は輝いている。
「会社から、この数日はもう隠れるみたいな動きはしなくていいって。少しずつスケジュールを戻していけると思います」
「会社がそう言ったの?」
「はい」
横で聞いていた星野明里も、笑って祝った。
「おめでとう。いいニュースじゃない。安心して。今日、私の番組に来てくれたうえに、あなた人柄も悪くないし、できるだけ応援するわ」
蓮は伊織を見る。
伊織が小さく頷くのを確認してから、星野明里に微笑んだ。
「ありがとうございます、明里さん。また機会があれば、番組にお邪魔します」
今日の収録は、無事に終わった。
帰りの車の中でも、伊織は興奮してほとんど口を閉じなかった。
彼が話しているのは、一週間後の授賞式のことばかりだった。レッドカーペットの動線、メディアエリア、ファンエリア、安全通路、そして事務所が用意する受賞コメントの案。
「蓮さん、その日は朝比奈旭と会うかもしれません」
蓮はバックミラー越しに彼を見た。
清司から聞いたことの一部を、蓮は選んで事務所へ伝えていた。会社が本当に黒鋭の裏の住所まで辿れているかはわからないが、方向性が見えた以上、朝比奈旭側を注視しているはずだった。
「それにしても、不思議なんですよね」
伊織は続けた。
「朝比奈旭、最近ほとんど動きがないんです。公式Xも数日更新されていないし、広告撮影も止まってる。やっと見出しが彼ばかりじゃなくなりました」
蓮はその声の奥の感情に気づいた。
「彼に、ずいぶん思うところがあるみたいだね」
伊織は口が開いたように話し始めた。
「蓮さんはずっと撮影してるから、あの人たちが普段どんな感じか知らないんですよ。朝比奈旭は、人設ほどいい人じゃないです」
蓮は思い出した。
伊織は今の会社に来る前、朝比奈旭の所属事務所に数日だけいたことがあると言っていた。
「前に、あちらの会社で働いていたんだっけ?」
「少しだけです」
伊織の表情は少し曇った。
「数日いただけです。あそこの空気が合わなくて。でも今思えば、離れてよかったです」
「ひどい扱いを受けた?」
「そこまでではないです」
伊織は少し考えた。
「ただ、売れているタレントの態度が大きくて。毎日後ろについていると、坊ちゃんの世話をしているみたいでした」
蓮は軽く笑った。
耳元で、清司の皮肉な声が響く。
「つまり、おまえは気性が穏やかだと言われているのか?」
蓮は横を見る。清司はすでに隣の席に座っていた。
蓮は心の中で返す。
「僕はそういうことはしない」
「おまえの小さなマネージャーの言う通りだ」
清司はだるそうに背もたれへ体を預けた。
「今日、その男が病院でマネージャーに怒鳴っているのを見た」
蓮はつい茶化した。
「君、マネージャーなんて言葉も知ってるんだ」
「馬鹿にするな」
清司は眉をひそめた。
「何も知らないわけじゃない」
途中で、彼はふいに話を変えた。
「今日も朔を探しに行った」
蓮の指がわずかに止まった。
清司は気づかず続ける。
「それに、もうすぐ見つかる気がする」
「そう」
蓮は短く応じた。声はどこか上の空だった。
「いいことじゃない。君は彼を探すためにここへ来たんだろう」
清司は、そのぞんざいな返事に気づいて蓮を見た。
蓮はスマホを見ていた。何を見たのか、口元にはごく淡い笑みが浮かんでいる。
清司はその笑みを見つめ、胸の奥に得体の知れない波紋が広がるのを感じた。
視線を車窓へ戻す。
さっきの一瞬、どうして蓮が自分を適当にあしらったことに不快感を覚えたのだろう。




