首筋に触れた殺意
「今日は本当にありがとう、蓮」
悠真は整理した本とサインペンを抱え、書店の入口に立っていた。声にはまだ興奮が残っている。
「こちらこそ」
蓮は一午後立ちっぱなしだったため、肩も首も腰も重かった。本音を言えば、すぐにタクシーを呼んで帰りたかった。
悠真は手をこすり合わせた。
「よかったら、夕飯をごちそうさせて。近くに新しくできた店があって、味もいいんだ」
蓮が断ろうとした瞬間、清司の声が耳元で響いた。
「こんな時間になっても帰らないとは、昼間の俺の話をまったく聞いていないようだな」
蓮は突然現れた清司を見る。
「急用があったんだ」
心の中で返す。
清司の顔色はよくなかった。
「どこへ行くつもりだ」
「見ればわかるだろう。食事だ」
本当は、蓮は家へ帰るつもりだった。
けれど清司の不機嫌そうな顔を見た瞬間、胸の奥に小さな反発が生まれた。ここ数日、命令され続けたからかもしれない。あるいは、「最後まで見つからなければ、おまえにとってもいい結末にはならない」という言葉がまだ胸に残っていたからかもしれない。とにかく、蓮は急に清司の言う通りにしたくなくなった。
「その男と食事に行くのか」
清司の目が冷える。
「見ればわかるだろう。あいつは――」
「いいよ」
蓮は清司の言葉を遮り、悠真を見た。
「その店に行こう」
悠真の目が輝いた。
「うん。すぐ近くだよ。行こう」
清司はその場に立ち、蓮が自分に背を向けるのを見た。顔色は完全に沈んだ。
次の瞬間、彼は蓮の隣に現れ、手首を掴んで反対方向へ引いた。
「何をするんだ」
蓮は思わず怒鳴りかけた。
口に出した瞬間、ここが街中だということを思い出す。
周囲の人がすでにこちらを見ていた。
普通の人間には、蓮が空気に向かって怒っているようにしか見えない。
「蓮?」
悠真が不思議そうに見ている。
清司は蓮の手首を握ったまま、低く言った。
「帰るぞ」
蓮は怒りを抑え込む。
「何をしている」
「帰ると言っている」
清司の目は、命令に近いほど冷たかった。
「佐伯蓮、勘違いするな。俺は頼んでいるわけじゃない。告げているだけだ」
「蓮?」
周囲の視線が増えていく。
この世界には、野次馬が尽きない。まして蓮は今、世論の風口に立っている。どれほど顔を隠していても、誰かに気づかれる可能性はゼロではない。
蓮は深く息を吸い、悠真へ向き直った。
どうにか笑みを作る。
「ごめん。急に用事を思い出した。今日はやめておく」
悠真は固まった。
蓮が何かを堪えていることはわかる。だが、何が起きているのかはわからない。
「大丈夫?」
「大丈夫」
蓮はできるだけ声を平らにした。
「今日は一緒に食べられない。今度、僕が誘う」
「送ろうか?」
答えが否であることはわかっていても、悠真はそう聞いた。
「いい」
蓮は頷いた。
「また」
清司はすでに蓮を人混みの中から引き出していた。
マンションへ戻ると、蓮はようやく清司の手を振り払った。
「何がそんなに言えないことなんだ? どうして無理やり連れ戻す必要がある?」
清司は蓮を見つめ、唇を固く結んでいる。
「おまえは毎日、何をしている」
「今でもあの作家とデート気分で夕飯を食べに行く余裕があるのか」
蓮は一気に怒った。
「何を言っている」
「いつ僕が悠真とデートした?」
彼は清司を睨みつけ、声を抑えきれなかった。
「それに、君に何の関係がある?」
その言葉は、何かを直接切り裂いた。
清司は手を伸ばし、蓮の首元を掴んだ。
指は冷たく、力も強い。金色の瞳には怒りが押し込められ、ようやく牙をむいた獣のようだった。
「俺に何の関係がある?」
彼は歯の間から絞り出すように言った。
「佐伯蓮、よく理解しろ。今は俺が頼んでいるのではない。俺がその気になれば、今ここでおまえを殺せる」
蓮は彼を見た。
この数日、抑え込んでいた不安、疲労、委屈、怒りが一気に押し寄せる。
清司が彼の生活に現れてから、すべてが軌道を外れた。
いつどんな怪異に狙われるのかわからない。いつ夢の中へ引きずり込まれるのかわからない。この契約がいつ終わるのかも、自分が清司にとって何なのかもわからない。
「君は僕を殺すために僕を探したのか」
蓮の声は冷たかった。
「いいよ」
顎を上げ、清司をまっすぐ見る。
「殺せばいい」
どちらも先に頭を下げる性格ではない。
空気は、今にも切れそうな糸のように張り詰めていた。
清司の指は一瞬だけ締まり、それから突然緩んだ。
彼は背を向け、冷たく言う。
「おまえの周りにいる連中は、役に立たない者ばかりだ」
蓮は首を押さえ、軽く咳をした。
清司は続ける。
「無駄な数字を追い回しているだけで、最後には何も出てこない。おまえを狙っている奴は、過去に何の関係もない見知らぬ人間なんかじゃない」
蓮の動きが止まった。
もう清司と意地の張り合いをしている場合ではない。
「どういう意味? 君は誰かわかっているの?」
清司の顔には、わずかな侮りが浮かんだ。
「おまえが助けた男だ」
蓮はほとんど反射的に名前を出した。
「朝比奈旭?」
その名前が出た瞬間、自分でも馬鹿げていると思った。
だが、以前の現場での落水、打ち上げでの酒、そして最近の旭の不自然な態度を思い返すと、蓮の表情は少しずつ沈んでいく。
「思い出したか」
清司は冷笑した。
「助けたからといって、相手が感謝するとは限らない」
蓮は冷静さを取り戻した。
「どうしてわかった?」
清司は答えない。
「どうやって知ったかなど、話す必要はない」
彼はわずかに顎を上げた。
「感謝してもいい。少しだけ懲らしめておいた」
蓮の顔色が変わった。
「懲らしめた?」
「何だ」
蓮は眉をきつく寄せた。
朝比奈旭は無名の新人ではない。今も広告、ドラマ、賞、ブランド仕事を抱えている。たとえ彼が本当に黒幕だとしても、清司が軽率に手を出せば、事態はもっと複雑になる。
「何をした?」
清司の声はさらに冷える。
「あいつはおまえの秘密の恋人でもあるまい。なぜそんなに気にする?」
蓮は怒りで笑いそうになった。
「正気か?」
「彼が今どれだけ仕事を抱えているか、君は知っているのか。もし彼に何かあれば、真っ先に僕が疑われる」
「黒い噂を流したのが本当に彼なら、怪我をしたあと僕の立場は余計に悪くなる」
清司も怒りを露わにした。
「俺はおまえを助けている」
「その俺に大声を上げるのか」
「佐伯蓮、おまえは自分を高く見積もりすぎだ」
蓮は怒りを抑えた。
「君がわからないことには、手を出さないでくれ。この件は、いずれ落ち着く」
「おまえの周囲の者たちの速度でか?」
清司は嘲るように見た。
「今すぐ電話して聞いてみればいい。どこまで調べられたのか。あいつらは、誰が動いているかすらわかっていない」
言葉はひどい。
だが、事実でもあった。
蓮はすでに何日も家にいる。
インタビューの手配以外、事務所から大きな進展はない。このままでは、本当に仕事を止められ、市場から忘れられるかもしれない。
芸能界は、入るのも去るのもあまりに簡単だ。
けれど、そんなふうに去るつもりはない。
意味もなく汚名を着せられたまま黙るのは、佐伯蓮のやり方ではなかった。
彼はゆっくり息を吐いた。
「この件は、僕が何とかする」
清司を見る。
「でも約束して。次から勝手に手を出さないで」




