新刊サイン会
蓮の視線は、無意識に横へ逸れた。
胸の奥に浮かんだ小さな酸っぱさは、あまりにも突然だった。
清司が宵宮朔を見つけることは、蓮がずっと望んできたことのはずだった。だが本当に「朔が近くにいる」と聞かされたとき、想像していたほど楽にはならなかった。
「近くにいると感じるなら、君が探しに行けばいい」
蓮は本を閉じた。声が少し硬い。
「僕は三歳児じゃない。ここで少し本を読んで、自分で帰れる」
清司は彼を見つめた。
「前に何があったか、もう忘れたのか?」
一歩ずつ近づいてくる。
「また怪異に遭ってもいいのか。別の場所へ引きずり込まれても構わないのか」
最後の言葉で、蓮が本を握る手をわずかに震わせた。
清司が怖いわけではない。
ホテルの御札、夢喰い、呪虫。現実の隙間から突然這い出してきたものたちを思い出したのだ。
「わかった」
蓮はようやく立ち上がった。
自分の命を軽んじるつもりはない。
清司の視線が、蓮の手にある本へ落ちる。
「それ、あの作家の本か」
「うん」
「親しいなら、本人に一冊もらえばいいだろう。わざわざ買う必要があるのか」
清司の声には、わかりやすい軽蔑があった。
蓮は顔を上げた。
「僕は、人に手を伸ばす癖がない」
その言葉は容赦がなかった。
清司の顔色がさらに冷える。
書店を出たあと、二人は別れた。
清司は宵宮朔の残り香を追い、蓮は家へ戻ってその本を読むつもりだった。
だが書店の外へ出てすぐ、聞き慣れた興奮混じりの声がした。
「蓮?」
蓮がそちらを見る。
森崎悠真が少し離れた場所に立っていた。
今日の悠真は全身を白でまとめており、清潔感が妙に目立っていた。蓮を見つけると、彼はまず固まり、それから目を輝かせた。蓮の前まで来るころには、頬が隠せないほど赤くなっていた。
「悠真」
蓮は小さく笑った。
悠真は完全に固まった。
蓮がこんなふうに笑いかけてくれることは少ない。
その瞬間、悠真は手をどこへ置けばいいのかすらわからなくなった。
蓮は彼の顔があまりに赤いので、体調が悪いのかと思った。
「顔が赤いけど、大丈夫? 具合が悪い?」
少し近づく。
悠真は慌てて半歩下がった。初めて好きな相手と約束をした青年のように、ぎこちなく言葉を詰まらせる。
「ち、違う。病気じゃない。ここ、少し暑いだけで……」
彼は急いで話題を変えた。
「蓮、どうしてここに?」
蓮は手に持った本を軽く上げた。
「本を見に来た。ちょうど見つけたんだ。新刊?」
悠真の視線が『沈溺』の表紙に落ち、顔はさらに赤くなった。
蓮はその様子に気づく。
「どうかした?」
距離が近づいたせいで、悠真は蓮からかすかな香りを感じた。彼は一瞬ぼうっとし、すぐに首を振った。
「何でもない」
ようやく本来の用事を思い出したように、彼は慌てて言った。
「今日、この書店で新刊サイン会があるんだ。蓮、少し見に来ない?」
「君のサイン会なら、僕が顔を出したら邪魔になるだろう」
「大丈夫!」
悠真はすぐに言った。
「今の蓮が人前に出づらいのは知ってる。来る読者はほとんど小説のファンで、芸能人を追っているわけじゃない。帽子もサングラスも外さなくていい。ただ隣で本を渡してくれるだけでいいから」
言い終えると、彼は期待に満ちた目で蓮を見た。
蓮は断る言葉を失った。
今、自分はここに残るべきではない。
それはわかっていた。
けれど、悠真があまりにも嬉しそうだった。
「……わかった」
悠真はすぐに笑顔になった。
「ありがとう、蓮」
蓮は悠真と一緒に書店へ戻った。
そこで初めて、サイン会が三階のイベントスペースで行われていることを知る。そこでは出版社合同のブックフェアが開かれており、悠真だけでなく、複数の作家がサイン会を行っていた。いくつかの列は長く、読者たちは本を抱え、応援カードや付箋を手にしていた。
悠真が再び読者の前に姿を見せると、その隣には黒い私服に帽子とサングラスをかけた男がいた。
もともとざわついていた列が、すぐにさらに騒がしくなる。
「あの人、誰? 森崎先生の彼氏?」
「先生は白で、あの人は黒って、完全にペアじゃない?」
「リアルCP感がすごい」
「高冷な感じで、全然しゃべらないのもいい」
蓮は眉をわずかに動かした。
どうやら、自分は軽い仕事を引き受けたつもりで、面倒な場所に座ってしまったらしい。
サイン会は整然と進んだ。
悠真の読者は若い女性が多く、少数ながら男性もいた。蓮は隣に座り、読者から本を受け取り、悠真へ渡す。悠真がサインを書いたら、蓮がまた本を読者へ返した。
「森崎先生、こんにちは! 『案情』からのファンです。今日会えて本当に嬉しいです」
学生らしい女の子が、声を震わせていた。
悠真は蓮から本を受け取り、笑うと小さな八重歯が見えた。
「ずっと読んでくれてありがとう」
女の子の顔は一気に赤くなった。
彼女はサイン本を抱え、勇気を振り絞って聞いた。
「あの、隣の方は先生の恋人ですか?」
悠真は固まった。
反射的に蓮を見る。
蓮はサングラスをかけているため、目元はわからない。だが悠真には、この場で頷けば、蓮がさらに遠ざかるとわかっていた。
だから笑って言った。
「違うよ」
女の子は少し残念そうな顔をした。
悠真は一瞬だけ間を置き、付け加えた。
「僕たちは、とても大切な友達です」
肯定はしていない。
だが、完全に距離を切ったわけでもない。
女の子は「わかりました」とでも言いたげな表情をした。
次の読者が、すでに本を蓮の手元へ差し出している。
蓮は本を受け取り、悠真へ渡す時、意図的に彼の目を避けた。
聞こえていた。
悠真が認めなかったことは、当然だった。
だが、はっきり否定もしなかった。
蓮は東京で一人で暮らしてきた。友人と呼べる人は多くない。悠真はその数少ない一人だった。必要がない限り、蓮は他人を悪く考えたくなかった。
サイン会は午後いっぱい続いた。
終わるころには、書店の外はすっかり暗くなっていた。




