無意識に乱れる心音
家の中でただ待っている時間ほど、人を余計な考えに沈ませるものはない。
黒鋭という手がかりは得られた。だが、まだ本当の身元までは突き止められていない。事務所は蓮を調査に関わらせなかった。理由は単純だ。彼は事件の中心人物であり、本人が表に出れば、外の悪意ある言葉はさらにひどくなる。
蓮は書斎机の前に座り、台本の文字を見つめていた。
けれど、半日たっても一ページもめくれない。
「この数日、仕事はないのか?」
耳元で、清司の声がした。
蓮は我に返る。見ると、清司がいつの間にか目の前まで近づいていた。最近、蓮が事務所へ行かず家にいる時間が増えたせいか、清司が話しかけてくる回数も以前より多くなっている。
「会社の処理が終わったら、また仕事に戻る」
蓮は台本を閉じ、彼を見た。
「今は頻繁に表に出ても、僕にとって得にならない。短期間で宵宮朔を見つけられるなら別だけど、そうでないなら危険を増やすだけだ」
口調は真面目だった。
この数日一緒にいて、朔が清司にとってどれほど重要なのか、蓮にも少しわかってきていた。だが状況はよくない。数百年待てたのなら、あと数日くらいは待てるはずだ。
もちろん、清司は蓮がそこまで考えているとは知らない。
彼は大きな態度でベッドの横へ行き、そのまま倒れ込むように寝転がった。朝に整えたばかりのシーツが、すぐに一か所沈んだ。
蓮はその凹みを見て、まぶたをわずかに動かした。
もし自分がただの普通の人間で、あやかしが見えなかったら、今ごろ勝手に凹んだベッドを見て警察を呼んでいたかもしれない。
清司は枕にもたれ、半分だけ目を伏せていた。
しばらく黙ったあと、彼はふいに言った。
「もうすぐ、朔を見つけられる気がする」
蓮は一瞬固まった。
胸の奥で、何かがそっと引っ張られた気がした。
清司がもうすぐ朔を見つける。
それはつまり、彼がもうすぐ自分の生活から去るということではないのか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、蓮は自分でも馬鹿げていると思った。
ずっと清司から解放されたいと思っていたはずだ。
この契約が早く終わればいいと、何度も思っていたはずなのに。
「本当に?」
清司は蓮を見た。表情が少し奇妙だった。
「今のおまえが喜んでいるのか、がっかりしているのか、俺にはわからないな」
彼は蓮の目をじっと見つめた。
「俺が朔を見つけることを、おまえは望んでいるのか?」
蓮は答えなかった。
ただ清司を見ていた。
やがて清司はつまらなそうに眉を上げ、ゆっくりと蓮の視界から溶けるように消えた。
外に出られないなら、蓮は台本を覚え直すしかない。玄関の外に何人の記者が張っているかわからない。一度姿を見せれば、希少動物でも発見されたかのように囲まれるだろう。
「蓮、家にいる?」
ノックの音と同時に、伊織の声がした。
蓮は台本を置き、ドアを開けた。
ドアが開いた瞬間、伊織は風のように飛び込んできて、後ろ手で扉をしっかり閉めた。
「そんなに急いで、また何かあった?」
蓮は念のため、ドアの隙間から外を覗き、胆の据わった週刊誌記者がついてきていないか確認した。
「何かってほどじゃないよ」
伊織は息を整えながら、持っていた大きな袋をテーブルに置いた。
「食べ物を持ってきた。蓮さん、普段から家にお菓子なんて置かないし、冷蔵庫も大したものがないし、忙しいと弁当で済ませるだろ。家で餓死されたら困る」
「そこまで弱くない」
蓮は袋を受け取った。
中にはコンビニのお菓子と、きれいに包装された小さな菓子がいくつも入っていた。蓮は少し見覚えがあると感じ、すぐ思い出した。以前、あるバラエティで司会者がファンからの質問を集め、好きなお菓子を聞いたことがあった。
そこに入っているものは、蓮がその時に何気なく答えた菓子ばかりだった。
「全部、伊織が買ったの?」
伊織は自分で水を一杯注ぎ、一気に飲んでから答えた。
「大きい袋は俺。小さい袋は、ファンが事務所に預けてくれたもの」
「ファンの子たちが会社まで来たんだ。蓮さんのことを心配して。会社で中身を確認して、貴重品でも危険物でもなかったから、俺が持ってきた」
蓮はお菓子を見下ろした。
「何日も前から?」
「うん。黒い噂が出た日から来てた」
伊織は蓮を見て、声を少し柔らかくした。
「蓮さん、本当はXを見たほうがいいよ。今は味方の声がすごく多いわけじゃないけど、それでもファンはちゃんと蓮さんのことを思ってくれてる」
蓮は何か言おうとして、やめた。
スマホを手に取り、通知を開く。
彼に関連する数百件のコメント、リポスト、メンションが一気に表示された。以前なら、蓮はこういうものをほとんど見なかった。
ひとつひとつ指で滑らせていく。
攻撃的な言葉は読み流した。残った言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
「佐伯蓮を信じています」
「浅野真澄を演じた人が、そんな人だとは思えない」
「どんな結果でも、まず説明する機会をあげてほしい」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください。帰ってくるのを待っています」
蓮の指が止まった。
自分は、完全にひとりではない。
そのことに、今さら気づいた。
「蓮さん、もしかして今起きたところ?」
伊織がふいに聞いた。
蓮は一瞬、ベッドのほうを見てしまった。
さっき清司が寝転がっていた場所が、まだ少し凹んでいる。
蓮は軽く咳払いした。
「さっき、そこに寝転がって台本を読んでただけ」
「そっか」
伊織は深く考えなかった。
彼は姿勢を正し、表情を少し迷わせた。
「蓮さん、今はまだ応援してくれるファンもいる。でも、このまま長引くのはよくない」
蓮は彼を見る。
「言いたいことがあるなら、はっきり言って」
「会社は、一対一のインタビューを受けさせるつもりだ」
蓮は眉を寄せた。
「このタイミングで番組に出るほうが、悪くならない?」
「俺も会社にそう言った」
伊織はため息をついた。
「でも、黒鋭という方向は見えたのに、裏の本当のIPはまだ割れていない。相手は誰かに雇われて、蓮さんみたいに出てきたばかりの俳優を狙っている可能性が高い。今日の会議で、上の人たちは蓮さんをかなり重視していると言っていた。いろいろ可能性を並べた結果、誰かの報復の可能性がいちばん高いって」
「報復?」
蓮は薄く笑った。
この業界に入ってから、彼はほとんど自分から誰かを敵に回したことがない。仕事で関わった人には礼儀を尽くし、関係もできるだけ保ってきた。親しいとは言えなくても、決定的にこじれた相手は少ない。
誰が、彼を潰したいほど憎んでいるというのか。
「蓮さんが行きたくないなら、俺から会社に伝える」
蓮はベッドにもたれ、天井を見上げた。
長い沈黙のあと、彼は淡く笑った。
「こういう時に、僕が行きたくないと言っても、あまり意味はないだろう」
目を閉じる。
「会社に任せるよ」




