表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/50

無意識に乱れる心音

家の中でただ待っている時間ほど、人を余計な考えに沈ませるものはない。


 黒鋭という手がかりは得られた。だが、まだ本当の身元までは突き止められていない。事務所は蓮を調査に関わらせなかった。理由は単純だ。彼は事件の中心人物であり、本人が表に出れば、外の悪意ある言葉はさらにひどくなる。


 蓮は書斎机の前に座り、台本の文字を見つめていた。


 けれど、半日たっても一ページもめくれない。


「この数日、仕事はないのか?」


 耳元で、清司の声がした。


 蓮は我に返る。見ると、清司がいつの間にか目の前まで近づいていた。最近、蓮が事務所へ行かず家にいる時間が増えたせいか、清司が話しかけてくる回数も以前より多くなっている。


「会社の処理が終わったら、また仕事に戻る」


 蓮は台本を閉じ、彼を見た。


「今は頻繁に表に出ても、僕にとって得にならない。短期間で宵宮朔を見つけられるなら別だけど、そうでないなら危険を増やすだけだ」


 口調は真面目だった。


 この数日一緒にいて、朔が清司にとってどれほど重要なのか、蓮にも少しわかってきていた。だが状況はよくない。数百年待てたのなら、あと数日くらいは待てるはずだ。


 もちろん、清司は蓮がそこまで考えているとは知らない。


 彼は大きな態度でベッドの横へ行き、そのまま倒れ込むように寝転がった。朝に整えたばかりのシーツが、すぐに一か所沈んだ。


 蓮はその凹みを見て、まぶたをわずかに動かした。


 もし自分がただの普通の人間で、あやかしが見えなかったら、今ごろ勝手に凹んだベッドを見て警察を呼んでいたかもしれない。


 清司は枕にもたれ、半分だけ目を伏せていた。


 しばらく黙ったあと、彼はふいに言った。


「もうすぐ、朔を見つけられる気がする」


 蓮は一瞬固まった。


 胸の奥で、何かがそっと引っ張られた気がした。


 清司がもうすぐ朔を見つける。


 それはつまり、彼がもうすぐ自分の生活から去るということではないのか。


 そんな考えが浮かんだ瞬間、蓮は自分でも馬鹿げていると思った。


 ずっと清司から解放されたいと思っていたはずだ。


 この契約が早く終わればいいと、何度も思っていたはずなのに。


「本当に?」


 清司は蓮を見た。表情が少し奇妙だった。


「今のおまえが喜んでいるのか、がっかりしているのか、俺にはわからないな」


 彼は蓮の目をじっと見つめた。


「俺が朔を見つけることを、おまえは望んでいるのか?」


 蓮は答えなかった。


 ただ清司を見ていた。


 やがて清司はつまらなそうに眉を上げ、ゆっくりと蓮の視界から溶けるように消えた。


 外に出られないなら、蓮は台本を覚え直すしかない。玄関の外に何人の記者が張っているかわからない。一度姿を見せれば、希少動物でも発見されたかのように囲まれるだろう。


「蓮、家にいる?」


 ノックの音と同時に、伊織の声がした。


 蓮は台本を置き、ドアを開けた。


 ドアが開いた瞬間、伊織は風のように飛び込んできて、後ろ手で扉をしっかり閉めた。


「そんなに急いで、また何かあった?」


 蓮は念のため、ドアの隙間から外を覗き、胆の据わった週刊誌記者がついてきていないか確認した。


「何かってほどじゃないよ」


 伊織は息を整えながら、持っていた大きな袋をテーブルに置いた。


「食べ物を持ってきた。蓮さん、普段から家にお菓子なんて置かないし、冷蔵庫も大したものがないし、忙しいと弁当で済ませるだろ。家で餓死されたら困る」


「そこまで弱くない」


 蓮は袋を受け取った。


 中にはコンビニのお菓子と、きれいに包装された小さな菓子がいくつも入っていた。蓮は少し見覚えがあると感じ、すぐ思い出した。以前、あるバラエティで司会者がファンからの質問を集め、好きなお菓子を聞いたことがあった。


 そこに入っているものは、蓮がその時に何気なく答えた菓子ばかりだった。


「全部、伊織が買ったの?」


 伊織は自分で水を一杯注ぎ、一気に飲んでから答えた。


「大きい袋は俺。小さい袋は、ファンが事務所に預けてくれたもの」


「ファンの子たちが会社まで来たんだ。蓮さんのことを心配して。会社で中身を確認して、貴重品でも危険物でもなかったから、俺が持ってきた」


 蓮はお菓子を見下ろした。


「何日も前から?」


「うん。黒い噂が出た日から来てた」


 伊織は蓮を見て、声を少し柔らかくした。


「蓮さん、本当はXを見たほうがいいよ。今は味方の声がすごく多いわけじゃないけど、それでもファンはちゃんと蓮さんのことを思ってくれてる」


 蓮は何か言おうとして、やめた。


 スマホを手に取り、通知を開く。


 彼に関連する数百件のコメント、リポスト、メンションが一気に表示された。以前なら、蓮はこういうものをほとんど見なかった。


 ひとつひとつ指で滑らせていく。


 攻撃的な言葉は読み流した。残った言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。


「佐伯蓮を信じています」


「浅野真澄を演じた人が、そんな人だとは思えない」


「どんな結果でも、まず説明する機会をあげてほしい」


「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください。帰ってくるのを待っています」


 蓮の指が止まった。


 自分は、完全にひとりではない。


 そのことに、今さら気づいた。


「蓮さん、もしかして今起きたところ?」


 伊織がふいに聞いた。


 蓮は一瞬、ベッドのほうを見てしまった。


 さっき清司が寝転がっていた場所が、まだ少し凹んでいる。


 蓮は軽く咳払いした。


「さっき、そこに寝転がって台本を読んでただけ」


「そっか」


 伊織は深く考えなかった。


 彼は姿勢を正し、表情を少し迷わせた。


「蓮さん、今はまだ応援してくれるファンもいる。でも、このまま長引くのはよくない」


 蓮は彼を見る。


「言いたいことがあるなら、はっきり言って」


「会社は、一対一のインタビューを受けさせるつもりだ」


 蓮は眉を寄せた。


「このタイミングで番組に出るほうが、悪くならない?」


「俺も会社にそう言った」


 伊織はため息をついた。


「でも、黒鋭という方向は見えたのに、裏の本当のIPはまだ割れていない。相手は誰かに雇われて、蓮さんみたいに出てきたばかりの俳優を狙っている可能性が高い。今日の会議で、上の人たちは蓮さんをかなり重視していると言っていた。いろいろ可能性を並べた結果、誰かの報復の可能性がいちばん高いって」


「報復?」


 蓮は薄く笑った。


 この業界に入ってから、彼はほとんど自分から誰かを敵に回したことがない。仕事で関わった人には礼儀を尽くし、関係もできるだけ保ってきた。親しいとは言えなくても、決定的にこじれた相手は少ない。


 誰が、彼を潰したいほど憎んでいるというのか。


「蓮さんが行きたくないなら、俺から会社に伝える」


 蓮はベッドにもたれ、天井を見上げた。


 長い沈黙のあと、彼は淡く笑った。


「こういう時に、僕が行きたくないと言っても、あまり意味はないだろう」


 目を閉じる。


「会社に任せるよ」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ