「他の男を頼るな」:嵐の夜に、独占欲を隠さない神様
佐伯蓮に関する黒い噂は、まるで事前に順番まで決められていたかのように、次から次へと投げつけられてきた。
最初は「旧財閥の隠し子」。次に「母親は銀座の高級クラブでホステスをしていた」。その直後には、人気女優の倉科千景と蓮が一緒に写っている写真まで出回り、二人が以前から秘密裏に交際していたかのように匂わされた。写真はぼやけているのに、角度だけは妙に意味深だった。もともと面白半分で騒ぎを待っていた匿名掲示板や週刊誌系ネットメディアは、血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、いっせいに群がった。
事務所が公式サイトと公式Xで声明を出したのは、一週間後だった。
声明文は慎重だった。ネット上の噂には事実無根の内容が含まれており、悪質な拡散に対しては法的措置も検討する、と書かれていた。けれど問題は、その文面があまりにも定型文に見えたことだった。証拠もない。具体的な説明もない。いちばん重い疑惑に対して、正面から答える言葉もなかった。
ネットは納得しなかった。
「本当に嘘なら、どうして証拠を出さないの?」
「これ、認めてるようなものじゃない?」
「事務所はファンを馬鹿にしてるの?」
世論は収まるどころか、むしろ激しくなっていった。
蓮はもともと、作品で評価されるタイプの俳優だった。流量で押し上げられたというより、役と演技によって突然世間の前へ引きずり出された人間に近い。けれど芸能界の残酷さは、そこにある。俳優は作品で好感を積み上げられる一方、根拠のない噂数本で、わずか数日もしないうちに泥の中へ引きずり込まれる。
仕事は半分以上減った。
ほぼ決まりかけていたブランド撮影は止まり、いくつかのバラエティ番組は「スケジュール調整」を理由に出演時期を先送りした。雑誌取材まで曖昧な返事になり、「状況が落ち着いてから改めて」と言葉を濁した。
蓮は最初、それほど気にしていなかった。
彼はもともと、カメラと話題だけで生きている人間ではない。だが今は違う。露出を維持しなければならなかった。多くの人間が蓮を見れば見るほど、彼のそばにいる、普通の人間には見えない白銀清司の姿が、宵宮朔の目に届く可能性が上がる。
露出が途切れれば、探す速度も落ちる。
そして清司の忍耐は、もう限界に近づいていた。
事務所はすぐ、蓮を呼び戻して会議を開いた。
会議室には、社長、広報責任者、三浦伊織、そしていくつかのプロジェクト担当者が集まっていた。ホワイトボードには、最近出回った黒い噂のスクリーンショットが貼られている。「旧財閥の隠し子」から「地下恋愛」、さらに突然出てきた「隠し婚」「妻への暴力」「父親の力で海外事故をもみ消した」まで、どれもこれも荒唐無稽だった。
会社が最初に確認したのは、もっとも重要な一点だった。
「この中に、少しでも事実はありますか?」
蓮は会議机の端に座り、表情を変えなかった。
「ありません」
答えは早かった。
その瞬間、社長までも数秒沈黙した。
もし一部でも事実があるなら、広報は優先順位をつけ、論点をずらしながら段階的に処理できる。だがすべてが嘘となると、背後に誰かが明確な意思を持って、彼を潰そうとしているということになる。さらに厄介なのは、事務所がこの規模の炎上に慣れていないことだった。
これまで事務所が対応してきたのは、小さな恋愛報道や、現場遅刻のような小さな騒ぎがほとんどだった。蓮のように突然売れ、同時に全方位から黒い噂で囲まれる状況に対して、成熟した危機対応の手順など持っていなかった。
結局、会社は外部のPR会社に相談し、徹夜で一つの対応案をまとめた。
けれど結果は芳しくなかった。
声明は弱く、証拠は少なく、ネット工作員の数は多すぎた。黒い噂を流しているアカウントは、次の一手まで準備していたらしい。事務所が声明を出した直後、また新しい噂が押し上げられた。
今度は、蓮がすでに結婚して子どもまでおり、仕事のストレスで妻に手を上げたことがある、というものだった。
優しく、抑制的で、真面目に芝居をするという蓮のイメージは、一晩で「偽善」「暴力的」「背景で揉み消している」というラベルに塗り替えられた。
蓮はマンションの窓辺に座り、暗くなったり明るくなったりするスマホの画面を見つめていた。
本当は見たくなかった。
けれど、見なければ消えるわけでもない。
苛立ちが限界まで積もったころ、彼はなぜか森崎悠真に電話をかけていた。
呼び出し音は二回で途切れた。
「蓮?」
悠真の声には、明らかな喜びがにじんでいた。
「蓮から電話をくれるの、初めてだよね」
蓮は少し黙った。
悠真が自分に向けている感情に、気づいていないわけではなかった。崇拝、親しみ、そして依存に近い視線。蓮には、見えないふりをしているだけで、本当はちゃんとわかっていた。ただ、蓮にとって悠真は年の離れた弟のような存在であり、まだ本格的に売れる前から自分を真剣に見てくれた、数少ない人間のひとりだった。
それ以上には応えられない。
彼の好意を利用するつもりもなかった。
「うん」
蓮は低く返しただけだった。
電話の向こうが数秒静かになる。
悠真はすぐ、声を柔らかくした。
「蓮、落ち込んでる?」
蓮は答えなかった。
最初の「うん」以外、通話の中には白い沈黙だけが残った。
それでも悠真は、何かを察したようだった。
「最近のこと……見てるよ」
いつもより落ち着いた声だった。
「気にしすぎないで。僕は、あんなの本当じゃないって知ってる。蓮はそういう人じゃない」
蓮は窓の外を見た。
夜の東京は、光で明るすぎるほど明るい。けれどその光は、彼の胸の中までは届かない。黒い噂そのものは、本当の意味で蓮を傷つけたわけではなかった。ただ、自分がもう気軽に後ろへ退ける場所にいないのだと、初めてはっきり思い知らされた。
悠真は続けた。
「蓮、ネットセキュリティに詳しい友達がいるんだ。すごく腕がいい。誰が裏で動いてるのか、調べてもらえると思う」
「いい」
蓮はほとんど即座に断った。
「信じる人は信じる。信じない人は、最初から信じない」
悠真に借りを作りたくなかった。
それに、そういう形で悠真がさらに近づいてくるのも避けたかった。
「大丈夫だよ」
悠真は慌てたように言った。
「あいつ、もともとこういう調査が好きだし、それに――」
通話が突然切れた。
蓮は一瞬固まり、顔を上げた。
スマホは、いつの間にか清司の手の中にあった。
九尾の妖狐は窓台に腰掛け、指先をまだ通話終了の画面に乗せている。月明かりが肩に落ち、もともと人間離れした美貌を、いっそう冷たく見せていた。
「何をしてるんだ」
蓮は眉をひそめた。
「宵宮朔なら、必ず見つける」
その名を聞いた瞬間、清司の顔はかえって険しくなった。
蓮と契約したのは、もともと朔を探すためだった。なのに今は、その名が棘のように胸へ刺さる。自分がなぜこの人間のそばにいるのか、冷たく思い出させるからだ。
清司には、自分がなぜ苛立っているのかもわからなかった。
だからその正体の見えない感情を、蓮へぶつけるしかなかった。
「ちっ」
清司はスマホを指先でくるりと回し、刺すような声で言った。
「その作家がおまえにどういう気持ちを向けているか、わからないのか。あいつは距離を越えている。それなのに、おまえはまだ友達扱いか」
蓮の表情が一瞬で冷えた。
「何を言っている」
「悠真は弟みたいなものだ」
言い終えたあと、蓮自身も、その説明が妙に不自然だと感じた。
どうして清司に説明しているのか。
どうして、この妖狐が自分をどう見るかを気にしているのか。
清司はしばらく蓮を見つめた。
蓮の表情があまりにも真剣だったせいか、それとも「弟」という言葉で胸の苛立ちが少し薄れたせいか、清司はようやく話題を変えた。
「この件には、誰かが裏で手を入れている」
蓮は彼を見る。
清司は窓台に座ったまま、雪のような長い髪を夜風に揺らし、蓮のスマホを手の中で弄んでいた。
「真相は、俺が調べる」
軽く言った。
まるでさっきの刺々しい言葉など、最初からなかったかのように。
蓮は清司を見つめ、胸の奥でなぜか少し呆れた。
この妖狐は、すべてに無関心なわけではないのかもしれない。
ただ、自分でもそれを認めていないだけなのだ。
二人はそれぞれ別のことを考えたまま、その夜は意外にもよく眠れた。
翌朝、伊織が火事でも起きたかのような勢いでドアを叩くまでは。
蓮が立ち上がる前に、鍵が「カチャ」と音を立てて開いた。
伊織が飛び込んできて、足を止めた。
彼は勝手に開いたドアを二秒ほど見つめ、それからぎこちなく笑った。
「蓮、家の鍵、スマートロックに替えた?」
蓮は窓辺に座っている清司を見た。
清司はまぶたすら上げない。
蓮は何食わぬ顔で頷いた。
「うん」
伊織には、ドアのことを追及する余裕などなかった。次の瞬間、彼はスマホを蓮の目の前に差し出した。
「蓮、まずい」
「また新しいのが出た」
蓮は朝食の途中だった。
箸を置き、スマホを受け取る。
今度の見出しは、前よりさらに大げさだった。
「人気俳優・佐伯蓮、ニュージーランドでひき逃げ疑惑。謎の富豪父が警察沙汰を揉み消したか」
下には、いかにも現場写真のような画像が添えられていた。
写真の中には、蓮とほとんど同じ顔をした人物が車のそばに立っている。横には見知らぬ車と見知らぬ人々がいて、背景は海外の街並みに見えた。見出しには「警察に拘束」「父親が保釈」「富裕層の特権」といった言葉まで並んでいる。
伊織は額に汗を浮かべていた。
「ひき逃げは重罪だよ。説明できなかったら、今後の仕事が全部影響を受ける」
蓮は、ふっと笑った。
伊織は今にも倒れそうな顔をした。
「蓮、こんな時にどうして笑えるの?」
「雑すぎるから」
蓮は写真を拡大した。
「顔は確かに似てる。でも車も、人も、場所も、ひとつも見覚えがない」
そう言って、スマホを伊織に返す。
「この写真が合成だと証明できれば、それで終わりだ」
理屈は単純だった。
けれど問題は、事務所がそういう技術鑑定に強くないことだった。さらに、技術的な証拠を世論が納得する形に変換することも得意ではない。相手は明らかに、蓮を完全に潰しに来ている。黒い噂は、深刻で、刺激的でさえあればいい。まず物語を作って投げる。たとえ後で否定されても、傷は残る。
伊織は苛立ちながらXを更新した。
蓮のファンは比較的穏やかで、戦闘力は高くない。業者に流れを作られると、広場はほぼ一方的になっていた。伊織がいらだちを抑えながら事務所アカウントで声明を拡散しようとしたとき、ふと新しい解析投稿がじわじわとトレンドに上がっているのを見つけた。
「蓮、これ見て」
蓮は顔を寄せた。
それは一枚の長い画像だった。
投稿者は、普段から映像解析を行っているアカウントだった。長い画像の中では、いわゆる「ニュージーランドひき逃げ写真」が細かく分析されていた。光源方向が一致しない。車窓の反射がおかしい。人物の輪郭に二次圧縮の痕跡がある。背景の被写界深度と人物の境界が合っていない。さらに、写真の元EXIF情報にも明らかな問題がある。
コメント欄では、蓮のファンたちがようやく救命綱を掴んだように、そのアカウントへ感謝していた。
路人の反応は二つに割れた。
まだ業者に流され、「ファンが推しの炎上を認めたくないだけ」と嘲る者もいる。一方で、この写真は確かにおかしい、蓮がそんなことをするようには見えない、と揺れ始める者もいた。
「すごい」
伊織の目が明るくなった。
「仕事用のアカウントで拡散する」
言い終わる前に、蓮のスマホが鳴った。
非通知だった。
蓮は少し迷い、通話を取った。
「もしもし?」
電話の向こうの声は加工されていて、男女の判別もつかない。
「最初に黒い噂を流したのは、一つのアカウントだ。水軍もかなり買っている。アカウント名は黒鋭」
蓮の目がわずかに動く。
相手は続けた。
「俺が手伝うのはここまでだ。ある人間への借りを返すだけだから、あとは自分たちで調べろ」
電話は切れた。
伊織はすでにXで「黒鋭」と入力していた。
すぐにアカウントページが表示される。
匿名の暴露アカウントだった。アイコンは真っ黒で、プロフィールには「芸能界の真相観察」と書かれている。最近の投稿三十件ほどのうち、二十件以上が蓮に関するものだった。
「こいつだ」
伊織は歯を食いしばった。
「IPさえ辿れれば、誰が裏で動いているかわかる」
だが、事はそう簡単には進まなかった。
黒鋭は仮想IPを使い、いくつもの踏み台を経由していた。事務所が呼んだ技術者が辿れたのは、海外の中継点ばかりだった。追跡は一時、解析で行き詰まった。ネットでの争いはすでに熱を帯びており、会社は外部のセキュリティチームを探しながら、同時に話題の鎮火を進めるしかなかった。
蓮の公開スケジュールは一時的にすべて止まった。
数日間、彼は家にいることしかできなかった。
外に出ない。
反応しない。
姿を見せない。
まるで、まだ戦いが始まる前に、すでに部屋の中へ閉じ込められたようだった。




