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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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15/40

あと少しで出会えたのに

村落に到着した日、空はよく晴れていた。


 遠くには山があり、近くには青く色づき始めた田んぼが広がっている。番組スタッフは古い民家を借り、収録用の小屋へ改装していた。木の梁と畳部屋はそのまま残され、キッチンだけが撮影しやすい現代的な設備に変えられている。


 固定出演者は芸能界の先輩二人だった。


 佐野恭一は料理が得意で、柳田慎介は場を盛り上げる担当だ。二人とも後輩に優しく、蓮が到着すると、すぐに野菜洗いと食器の整理を任された。


 屋内に蓮ひとりだけになったとき、彼はようやく清司を見る。


「探している人って、結局誰なの? 年齢は?」


 こうした忙しい生活も、以前なら充実していると思えたかもしれない。


 けれど今は、すべての仕事が人探しの手段になっている。毎日カメラ、ファン、取材、イベントと向き合いながら、心の中ではいつ終わるのかばかり考えていた。


「宵宮朔」


 清司は今回、意外にも答えた。


「俺と同じ、守護妖だ」


 蓮はもう部屋を出ようとしていたが、その言葉で足を止めた。


 同類。


 それなら余計に見つけにくい。


 さらに聞こうとしたところで、外からスタッフの声がした。


「最初のゲスト、到着しました」


 門が開き、若い男が笑顔で入ってくる。


「こんにちは、早乙女律です。律って呼んでください」


 蓮の動きが止まった。


 その顔を知っている。


 国立競技場の日に見た、あのアスリートだ。


 律はここ数年、日本の中長距離で最も期待されている選手の一人だった。年は若いが、国際大会でもすでにかなりの成績を残している。番組が彼を呼べたのは、近くで招待レースに参加しており、半日だけ収録に時間を割けたからだ。


 固定出演者たちがすぐに彼を迎える。


「律君、今回は五時間だけって聞いたけど?」


「はい」


 律は明るく笑った。


「午後にはトレーニング施設へ戻らないといけないんです」


 カメラの前の彼は礼儀正しく、爽やかで、何の異変もないように見えた。


 けれど清司は突然彼の前まで歩き、じっとその目を見つめた。


 蓮の胸が緊張する。


「どうしたの?」


 清司は視線を外さなかった。


「こいつから、朔の匂いがする」


 この人なのか。


 蓮には確信できなかった。


 食材を準備するふりをして律へ近づき、彼のそばに見えない霊がいるか確認しようとした。だが、どれだけ見ても異変はない。


 律は清司にもまったく反応しなかった。


 本当に朔が見えるのなら、なぜ清司は見えないのか。


「律君」


 蓮は機会を見つけて声をかけた。


「僕と一緒に麦を刈りに行かない?」


 カメラの向こうで、ディレクターの目が光った。


 これは番組側がちょうど欲しがっていた画だ。


 律はすぐに頷いた。


「いいですね。そういうの、今までやったことないです」


 二人は日焼け対策をして、道具を持って麦畑へ向かった。


 律は運動能力が非常に高そうに見えるのに、実際に腰をかがめて麦を刈ると、意外とぎこちなかった。ほんの少しずつ刈り取り、国際大会を走るときのように真剣な顔をしている。


 カメラは彼を撮り、それから蓮に向いた。


 蓮の動きは意外なほど慣れていた。


 農家出身ではない。だが役作りのために、さまざまな雑事を学んだことがある。麦刈りの姿勢は専門的とは言えないが、一般的な芸能人よりずっと手際がよかった。


「律君は、普段ひとり暮らし?」


 蓮は探るように聞いた。


 直接、霊の話を出せば、頭がおかしいと思われるかもしれない。


 律の動きが少し止まった。


「まあ、そんな感じです。練習時間が不規則なので、誰かに迷惑をかけたくなくて」


 実際、彼が今一番気にしているのは朔のことだった。


 朔は今日、ついてきていない。


 練習施設のほうで急な用事があり、朔はそこに残っている。律は表面上は番組に協力しているが、心はずっとそこにあった。


「ひとりだと寂しくない?」


 蓮は続ける。


「誰かにそばにいてほしいと思ったことは?」


 律は手首の時計を見た。


「もう昼ですね。戻りましょう」


 突き放すほどではない。


 けれど十分に明確な拒絶だった。


 これ以上話す気はない。


 蓮はそこで引くしかなかった。


 二人が小屋へ戻るころには、昼食の準備ができていた。律は非常に手早く食事を済ませた。ほとんど時間を無駄にしない。食後、彼は練習を理由にすぐ離れることになった。


 蓮と先輩二人は、彼を門まで見送った。


 清司は本来、ついていこうとした。


 だが蓮から離れようとした瞬間、身体が見えない糸に引き戻されたように止まった。


 血契の制限はまだ残っている。


 今の霊力では、清司は蓮から五十メートル以上離れられない。


 律は番組側の車に乗り、去っていった。


 清司は門のそばに立ち、車が消えた方向を見つめている。その顔は恐ろしいほど冷たかった。


 昼食後、それぞれが休憩に入った。


 畳の部屋は静かだった。蓮は布団に横になり、しばらく迷ったあと、口を開いた。


「彼が朔の契約者?」


 清司は梁の上に座っていた。


「ああ」


 蓮は寝返りを打ち、窓の外を見た。


 契約者は見つけた。


 それなのに、まだ朔には会えない。


 その人は、あまりにも上手く隠れている。


 夕方、蓮は佐野に起こされて夕飯を食べた。


 窓の外はもう暗くなっていた。柳田が作った料理が食卓に並び、椀から湯気がゆっくり上がっている。蓮は自分が昼間の麦刈りで疲れただけだと思い、深く考えなかった。


 だが夕食後、食器をいくつか洗っているうちに、また眠気が押し寄せてきた。


 佐野が柳田と一緒にボードゲームをしようと誘ったが、蓮は断って部屋へ戻った。


 枕に触れた瞬間、意識は完全に落ちた。


 清司がベッドのそばに立ち、目を冷やした。


「本当に、一瞬も大人しくしていないな」


 闇。


 蓮が目を開けたとき、周囲には光がまったくなかった。


 普通の夜ではない。自分の身体すら見えないほどの闇だった。五里霧中という表現には意味がない。なぜなら、自分の手の感覚すらないからだ。


 蓮は前へ歩き出した。


 足元には道も音もない。どれほど歩いても、同じ場所にいるようだった。


 心拍が速くなる。


 蓮は自分に冷静になれと言い聞かせるが、その混乱は自分では制御できなかった。


 これは普通ではない。


 普段の自分なら、こうはならない。


 ここはいったいどこだ。


 次の瞬間、足元が抜けた。


 何かが下から蓮をつかみ、深い場所へ引きずり込もうとする。蓮は必死に身体を保ち、落ちまいとした。


「小蓮、疲れた?」


 闇の奥から、優しい声が響いた。


 蓮ははっと顔を上げた。


 遠くに光がある。


 その光の中に、一人の女が立っていた。


 赤いワンピースを着ている。母が生前もっとも気に入っていた服だ。彼女は蓮を見つめ、何年も前の午後のように優しい目をしていた。


「母さん?」


 蓮はおかしいとわかっていた。


 それでも、その光はあまりにも温かかった。


 闇の中で、そこだけが家のように見えた。


「小蓮」


 母が手を差し出す。


「疲れたなら、もう諦めてもいいのよ」


 蓮の胸の奥から、抵抗しがたい疲労が湧き上がった。


 抑え込んできた痛み、孤独、不満、うんざりする気持ちが、すべて闇によって掘り返されていく。下からの吸引力はますます強くなり、彼は今にも手を離しそうだった。


「もういいの」


 母の声は柔らかい。


「お母さんと一緒にいてくれる?」


 母と一緒に。


 そう思った瞬間、蓮の手が少しずつ緩んだ。


 そのほうが、きっと楽だ。


 もう芝居をしなくていい。


 カメラの前に立たなくていい。


 妖狐に脅されなくていい。


 会ったこともない妖怪を探し続けなくていい。


「目を覚ませ」


 別の声が、闇の果てから届いた。


 冷たく、硬く、命令そのものの声。


「佐伯蓮、目を覚ませ」


 白い光が闇を裂いた。


 その光が触れた場所に、黄色い小さな花が一面に咲く。風が吹き、花がそっと揺れた。見たことがないはずなのに、なぜか懐かしい場所だった。


 蓮の指先に鋭い痛みが走る。


 針で刺されたようだった。


 彼は一気に意識を取り戻した。


 自分は崖の縁に立っていた。


 あと一歩進めば、下へ落ちる。


「これは……」


 蓮は半歩下がる。背中に冷汗が滲んだ。


 少し離れた場所で、清司が黒い蝙蝠のような怪物と戦っていた。相手の動きは非常に速く、黒い霧が翻るたび、夢そのものが裂けそうになる。


「夢喰いだ」


 清司は冷たく言った。


「人間の奥底にある苦痛を覗き込むものだ」


 蓮は軽く息を吸った。


 原来、忘れていたわけではなかった。


 ただ、自分が気にしていないふりをしていただけだ。


「危ない!」


 夢喰いが墨色の液体を吐き出した。


 蓮は手を上げ、掌に雷光を凝らしてそれを防ぐ。


 清司は一瞬だけ彼を見た。


「こいつはかなりの精魄を吸っている。面倒だ」


 そう言って、再び飛び込んでいく。


 夢喰いは厄介だった。


 蓮は二者の戦いを見ながら、『契約者自衛手札』の最後の数ページを思い出した。


 清司は学ぶなと言っていた。


 けれど今、迷っている時間はない。


 蓮は呪文を唱え、ほんの一瞬だけ造化神の力を呼び出した。


 その力が降りた瞬間、夢全体が白光に切り裂かれたようになった。夢喰いは鋭い悲鳴を上げ、そのまま魂ごと砕け散る。


 蓮がまだ反応しきらないうちに、清司が目の前に現れた。


 冷たい指が蓮の首を掴む。


「何を……」


 清司の目には温度がなかった。


 指が少しずつ締まる。


 蓮は本気で思った。


 彼は本当に、自分を殺すかもしれない。


「おまえ、あれを学んだのか?」


 清司の声は低く抑えられていた。


 激怒している声だった。


「死にたいのか?」


 蓮は息ができなくなり、視界が暗くなっていく。


 もう少しで耐えられなくなるというとき、清司は突然手を離した。


 次の瞬間、彼は夢の中から消えた。


 蓮は首を押さえ、その場に立ち尽くした。しばらくの間、清司がなぜそこまで怒ったのか理解できなかった。


 あの術は実用的だった。


 造化神の力を一瞬しか使えないとしても、夢喰いを倒すには十分だった。


 次に目を覚ましたときには、翌朝だった。


 蓮は珍しく早起きし、皆の朝食を手伝おうとした。


 だがキッチンへ行くと、佐野がすでにすべて準備していた。彼は蓮が起きてきたのを見て、真面目だねと笑って褒めた。のちに番組終了後のインタビューでも、佐野は何度も蓮は礼儀正しく、働き者で、静かに仕事をする人だと話した。


 ただ、二人はずいぶん待っても柳田が来ないことに気づいた。


 蓮ができる家事をほとんど終えたころ、ようやく柳田が部屋から出てきた。


 顔色は少し白く、動きも鈍い。


 蓮と佐野は入口で顔を見合わせた。最後には蓮が先に反応した。


「柳田さん、先に何か食べてください」


 そのとき、清司が口を開いた。


「妙だな」


 蓮は彼を見る。


「何が?」


 清司は答えなかった。


 彼は蓮をすり抜けるようにして、柳田の後を追った。


 蓮は清司がずっと柳田と同じ場所へ行くのを見て、心の中で注意しておくことにした。


 だが、異変は思っていたより早く起きた。


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