あと少しで出会えたのに
村落に到着した日、空はよく晴れていた。
遠くには山があり、近くには青く色づき始めた田んぼが広がっている。番組スタッフは古い民家を借り、収録用の小屋へ改装していた。木の梁と畳部屋はそのまま残され、キッチンだけが撮影しやすい現代的な設備に変えられている。
固定出演者は芸能界の先輩二人だった。
佐野恭一は料理が得意で、柳田慎介は場を盛り上げる担当だ。二人とも後輩に優しく、蓮が到着すると、すぐに野菜洗いと食器の整理を任された。
屋内に蓮ひとりだけになったとき、彼はようやく清司を見る。
「探している人って、結局誰なの? 年齢は?」
こうした忙しい生活も、以前なら充実していると思えたかもしれない。
けれど今は、すべての仕事が人探しの手段になっている。毎日カメラ、ファン、取材、イベントと向き合いながら、心の中ではいつ終わるのかばかり考えていた。
「宵宮朔」
清司は今回、意外にも答えた。
「俺と同じ、守護妖だ」
蓮はもう部屋を出ようとしていたが、その言葉で足を止めた。
同類。
それなら余計に見つけにくい。
さらに聞こうとしたところで、外からスタッフの声がした。
「最初のゲスト、到着しました」
門が開き、若い男が笑顔で入ってくる。
「こんにちは、早乙女律です。律って呼んでください」
蓮の動きが止まった。
その顔を知っている。
国立競技場の日に見た、あのアスリートだ。
律はここ数年、日本の中長距離で最も期待されている選手の一人だった。年は若いが、国際大会でもすでにかなりの成績を残している。番組が彼を呼べたのは、近くで招待レースに参加しており、半日だけ収録に時間を割けたからだ。
固定出演者たちがすぐに彼を迎える。
「律君、今回は五時間だけって聞いたけど?」
「はい」
律は明るく笑った。
「午後にはトレーニング施設へ戻らないといけないんです」
カメラの前の彼は礼儀正しく、爽やかで、何の異変もないように見えた。
けれど清司は突然彼の前まで歩き、じっとその目を見つめた。
蓮の胸が緊張する。
「どうしたの?」
清司は視線を外さなかった。
「こいつから、朔の匂いがする」
この人なのか。
蓮には確信できなかった。
食材を準備するふりをして律へ近づき、彼のそばに見えない霊がいるか確認しようとした。だが、どれだけ見ても異変はない。
律は清司にもまったく反応しなかった。
本当に朔が見えるのなら、なぜ清司は見えないのか。
「律君」
蓮は機会を見つけて声をかけた。
「僕と一緒に麦を刈りに行かない?」
カメラの向こうで、ディレクターの目が光った。
これは番組側がちょうど欲しがっていた画だ。
律はすぐに頷いた。
「いいですね。そういうの、今までやったことないです」
二人は日焼け対策をして、道具を持って麦畑へ向かった。
律は運動能力が非常に高そうに見えるのに、実際に腰をかがめて麦を刈ると、意外とぎこちなかった。ほんの少しずつ刈り取り、国際大会を走るときのように真剣な顔をしている。
カメラは彼を撮り、それから蓮に向いた。
蓮の動きは意外なほど慣れていた。
農家出身ではない。だが役作りのために、さまざまな雑事を学んだことがある。麦刈りの姿勢は専門的とは言えないが、一般的な芸能人よりずっと手際がよかった。
「律君は、普段ひとり暮らし?」
蓮は探るように聞いた。
直接、霊の話を出せば、頭がおかしいと思われるかもしれない。
律の動きが少し止まった。
「まあ、そんな感じです。練習時間が不規則なので、誰かに迷惑をかけたくなくて」
実際、彼が今一番気にしているのは朔のことだった。
朔は今日、ついてきていない。
練習施設のほうで急な用事があり、朔はそこに残っている。律は表面上は番組に協力しているが、心はずっとそこにあった。
「ひとりだと寂しくない?」
蓮は続ける。
「誰かにそばにいてほしいと思ったことは?」
律は手首の時計を見た。
「もう昼ですね。戻りましょう」
突き放すほどではない。
けれど十分に明確な拒絶だった。
これ以上話す気はない。
蓮はそこで引くしかなかった。
二人が小屋へ戻るころには、昼食の準備ができていた。律は非常に手早く食事を済ませた。ほとんど時間を無駄にしない。食後、彼は練習を理由にすぐ離れることになった。
蓮と先輩二人は、彼を門まで見送った。
清司は本来、ついていこうとした。
だが蓮から離れようとした瞬間、身体が見えない糸に引き戻されたように止まった。
血契の制限はまだ残っている。
今の霊力では、清司は蓮から五十メートル以上離れられない。
律は番組側の車に乗り、去っていった。
清司は門のそばに立ち、車が消えた方向を見つめている。その顔は恐ろしいほど冷たかった。
昼食後、それぞれが休憩に入った。
畳の部屋は静かだった。蓮は布団に横になり、しばらく迷ったあと、口を開いた。
「彼が朔の契約者?」
清司は梁の上に座っていた。
「ああ」
蓮は寝返りを打ち、窓の外を見た。
契約者は見つけた。
それなのに、まだ朔には会えない。
その人は、あまりにも上手く隠れている。
夕方、蓮は佐野に起こされて夕飯を食べた。
窓の外はもう暗くなっていた。柳田が作った料理が食卓に並び、椀から湯気がゆっくり上がっている。蓮は自分が昼間の麦刈りで疲れただけだと思い、深く考えなかった。
だが夕食後、食器をいくつか洗っているうちに、また眠気が押し寄せてきた。
佐野が柳田と一緒にボードゲームをしようと誘ったが、蓮は断って部屋へ戻った。
枕に触れた瞬間、意識は完全に落ちた。
清司がベッドのそばに立ち、目を冷やした。
「本当に、一瞬も大人しくしていないな」
闇。
蓮が目を開けたとき、周囲には光がまったくなかった。
普通の夜ではない。自分の身体すら見えないほどの闇だった。五里霧中という表現には意味がない。なぜなら、自分の手の感覚すらないからだ。
蓮は前へ歩き出した。
足元には道も音もない。どれほど歩いても、同じ場所にいるようだった。
心拍が速くなる。
蓮は自分に冷静になれと言い聞かせるが、その混乱は自分では制御できなかった。
これは普通ではない。
普段の自分なら、こうはならない。
ここはいったいどこだ。
次の瞬間、足元が抜けた。
何かが下から蓮をつかみ、深い場所へ引きずり込もうとする。蓮は必死に身体を保ち、落ちまいとした。
「小蓮、疲れた?」
闇の奥から、優しい声が響いた。
蓮ははっと顔を上げた。
遠くに光がある。
その光の中に、一人の女が立っていた。
赤いワンピースを着ている。母が生前もっとも気に入っていた服だ。彼女は蓮を見つめ、何年も前の午後のように優しい目をしていた。
「母さん?」
蓮はおかしいとわかっていた。
それでも、その光はあまりにも温かかった。
闇の中で、そこだけが家のように見えた。
「小蓮」
母が手を差し出す。
「疲れたなら、もう諦めてもいいのよ」
蓮の胸の奥から、抵抗しがたい疲労が湧き上がった。
抑え込んできた痛み、孤独、不満、うんざりする気持ちが、すべて闇によって掘り返されていく。下からの吸引力はますます強くなり、彼は今にも手を離しそうだった。
「もういいの」
母の声は柔らかい。
「お母さんと一緒にいてくれる?」
母と一緒に。
そう思った瞬間、蓮の手が少しずつ緩んだ。
そのほうが、きっと楽だ。
もう芝居をしなくていい。
カメラの前に立たなくていい。
妖狐に脅されなくていい。
会ったこともない妖怪を探し続けなくていい。
「目を覚ませ」
別の声が、闇の果てから届いた。
冷たく、硬く、命令そのものの声。
「佐伯蓮、目を覚ませ」
白い光が闇を裂いた。
その光が触れた場所に、黄色い小さな花が一面に咲く。風が吹き、花がそっと揺れた。見たことがないはずなのに、なぜか懐かしい場所だった。
蓮の指先に鋭い痛みが走る。
針で刺されたようだった。
彼は一気に意識を取り戻した。
自分は崖の縁に立っていた。
あと一歩進めば、下へ落ちる。
「これは……」
蓮は半歩下がる。背中に冷汗が滲んだ。
少し離れた場所で、清司が黒い蝙蝠のような怪物と戦っていた。相手の動きは非常に速く、黒い霧が翻るたび、夢そのものが裂けそうになる。
「夢喰いだ」
清司は冷たく言った。
「人間の奥底にある苦痛を覗き込むものだ」
蓮は軽く息を吸った。
原来、忘れていたわけではなかった。
ただ、自分が気にしていないふりをしていただけだ。
「危ない!」
夢喰いが墨色の液体を吐き出した。
蓮は手を上げ、掌に雷光を凝らしてそれを防ぐ。
清司は一瞬だけ彼を見た。
「こいつはかなりの精魄を吸っている。面倒だ」
そう言って、再び飛び込んでいく。
夢喰いは厄介だった。
蓮は二者の戦いを見ながら、『契約者自衛手札』の最後の数ページを思い出した。
清司は学ぶなと言っていた。
けれど今、迷っている時間はない。
蓮は呪文を唱え、ほんの一瞬だけ造化神の力を呼び出した。
その力が降りた瞬間、夢全体が白光に切り裂かれたようになった。夢喰いは鋭い悲鳴を上げ、そのまま魂ごと砕け散る。
蓮がまだ反応しきらないうちに、清司が目の前に現れた。
冷たい指が蓮の首を掴む。
「何を……」
清司の目には温度がなかった。
指が少しずつ締まる。
蓮は本気で思った。
彼は本当に、自分を殺すかもしれない。
「おまえ、あれを学んだのか?」
清司の声は低く抑えられていた。
激怒している声だった。
「死にたいのか?」
蓮は息ができなくなり、視界が暗くなっていく。
もう少しで耐えられなくなるというとき、清司は突然手を離した。
次の瞬間、彼は夢の中から消えた。
蓮は首を押さえ、その場に立ち尽くした。しばらくの間、清司がなぜそこまで怒ったのか理解できなかった。
あの術は実用的だった。
造化神の力を一瞬しか使えないとしても、夢喰いを倒すには十分だった。
次に目を覚ましたときには、翌朝だった。
蓮は珍しく早起きし、皆の朝食を手伝おうとした。
だがキッチンへ行くと、佐野がすでにすべて準備していた。彼は蓮が起きてきたのを見て、真面目だねと笑って褒めた。のちに番組終了後のインタビューでも、佐野は何度も蓮は礼儀正しく、働き者で、静かに仕事をする人だと話した。
ただ、二人はずいぶん待っても柳田が来ないことに気づいた。
蓮ができる家事をほとんど終えたころ、ようやく柳田が部屋から出てきた。
顔色は少し白く、動きも鈍い。
蓮と佐野は入口で顔を見合わせた。最後には蓮が先に反応した。
「柳田さん、先に何か食べてください」
そのとき、清司が口を開いた。
「妙だな」
蓮は彼を見る。
「何が?」
清司は答えなかった。
彼は蓮をすり抜けるようにして、柳田の後を追った。
蓮は清司がずっと柳田と同じ場所へ行くのを見て、心の中で注意しておくことにした。
だが、異変は思っていたより早く起きた。




