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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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13/20

「お前が欲しい」

『雲中縁』が放送されると、佐伯蓮は突然売れた。


 少しずつ見つかったのではない。長いあいだ水底に沈んでいた人間が、突然まるごとスポットライトに照らされたようだった。


 Xのフォロワー数は数万から数十万へ増え、すぐに百万を突破した。作品の話題度は高いまま維持され、浅野真澄という役はもともと男三番手に過ぎなかったにもかかわらず、複雑な人物像と蓮の演技によって、全編でもっとも視聴者の心を痛める人物になった。


 前半の彼は、主人公陣営の中にいる。優しく、抑制されていて、誰かを裏切るなどありえないように見える。


 後半で真実が明かされると、視聴者は知る。彼はずっと裏で物語を動かしていた。けれど彼が本当に望んでいたのは破滅ではなく、速水弦を、乱世を変えられる存在にすることだった。


 誰もがそれぞれの居場所へ戻った。


 ただ浅野真澄だけが、主人公が神になることを最も願っていたはずなのに、最後まで生きられなかった。


 最終回が放送された翌朝、蓮のもとに森崎悠真から電話がかかってきた。


 通話がつながるなり、悠真の声は受話器から飛び出してくる勢いだった。


「蓮、演技よすぎたって!」


 興奮で早口になっている。


「浅野真澄、めちゃくちゃ好きになった。でも結末つらすぎるだろ。どうしてあいつだけ死ぬんだよ。昨夜、原稿が手につかなかった」


 蓮は伊織から送られてきたスケジュール表を見た。


 そこはすでに予定で埋まっていた。


 雑誌取材、ネットメディアのインタビュー、ドラマ宣伝、配信番組、ブランド撮影。売れたあとに来るものは、ひとつも漏れなく押し寄せてくる。


 昼に三時間だけ空きがあった。


「今日の昼なら大丈夫」


 蓮は言った。


「そもそも、僕が誘うべきだった。前回は途中で帰ってしまったから」


 交代騒動の日のことを、周囲はもう忘れているかもしれない。けれど蓮は覚えていた。森崎を一人でカフェバーに残したことに、少し申し訳なさがあった。


 ちょうど休息にもなる。


 これからさらに予定は詰まっていく。こんなまとまった空き時間は、もうなかなか取れない。


 出かけるとき、蓮はいつものようにしっかり身を隠した。


 帽子、マスク、目立たない上着。どれも欠かさない。


 清司はついてこなかった。


 彼はソファに寝転び、リモコンを持って、テレビのチャンネルを適当に切り替えていた。画面は朝のニュースからバラエティの再放送へ、さらに料理番組、広告へと変わっていく。


「探しに行かないの?」


 蓮は自分でも、どうしてそんなことを聞いたのかわからなかった。


 以前の彼なら、他人の事情に口を出すことはなかった。まして清司の今の表情を気にすることなど、ありえなかった。


 清司はテレビを見たまま言った。


「時間ならいくらでもある」


 冷笑が混じる。


「今のおまえなら、もっと多くの人間を引き寄せるだろうしな」


 蓮はそれ以上聞かなかった。


 清司を家に残し、ひとりで出かけた。


 悠真はすでに店の前で待っていた。


 蓮を見ると、すぐに興奮したように手を振った。その動きがあまりにも目立ったため、周囲の人がちらちらとこちらを見始める。蓮は急いで近づき、彼を個室へ引っ張り込んだ。


「蓮、ちゃんと調べたんだ」


 悠真は得意げに説明する。


「この店、料理もおいしいし、個室もある。今の蓮はすごく有名だから、ここならバレないと思って」


 蓮は少しだけ困った。


 悠真が店先であんなふうに手を振らなければ、そもそも大して目立たなかったはずだ。


 そこは話題の日料店で、料理の出る速度は思ったより遅かった。すべての料理が出そろうころには、二人ともすでに半分ほど満腹になっていた。


 悠真は腹を押さえ、椅子に半ば倒れるようにもたれた。満足そうな顔だ。


 蓮は相変わらず姿勢よく座り、目の前のジュースをゆっくり飲んでいた。


 個室が少し静かになる。


 悠真が突然、低い声でつぶやいた。


「……欲しい。蓮が、欲しい」


 口にした瞬間、本人が先に固まった。


 心の中をよぎっただけの言葉が、なぜそのまま口から出てしまったのか。


 悠真は不安そうに蓮を見た。


 蓮は何も聞こえなかったように、まだ視線を落としてジュースを飲んでいる。


 悠真はほっと息を吐いた。


 だが次の瞬間、別の考えがまた勝手に浮かんだ。


 蓮が拒まない。


 ということは、自分にもまだ希望があるのではないか。


「蓮……」


 蓮はグラスを置いた。


「午後に仕事があるから、先に行く」


 彼は立ち上がり、個室を出た。


 会計をしようとカウンターへ向かったとき、中学生くらいに見える女の子が、おそるおそる近づいてきた。


 彼女は蓮をじっと見て、小さな声で言った。


「……佐伯蓮さん、ですか?」


 蓮の胸が沈んだ。


 気づかれた。


 すぐに離れようとしたが、近くにいた客が聞きつけた。


「本当に佐伯蓮だ!」


「うそ、テレビよりきれい!」


「蓮君、サインもらえますか?」


 声は水面に投げ込まれた石のように一瞬で広がった。


 人がどんどん増える。


 紙とペンを出す者、スマホを掲げる者、直接撮影を始める者。食事をしていた客まで集まってきて、カウンター周辺はすぐに身動きが取れないほどになった。


 蓮にも心の準備はあった。


 それでも、これほどの状況に直面するのは初めてだった。


 以前は静かに演技をして、静かに帰宅できた。だが今は、彼が公共の場に出るだけで、人に囲まれる。


 好きな感覚ではなかった。


 それでも、これは自分が露出へ踏み出した結果でもあるとわかっていた。


 蓮は最初に気づいた女の子からペンを受け取り、丁寧にサインを書いた。


「応援、ありがとうございます」


 女の子は感激で言葉にならないようだった。


「……実物、本当にきれいです」


 周囲からも悲鳴が上がる。


 外側へ押し出されていた悠真がようやく状況を理解し、急いで声を張った。


「はいはい、蓮は午後も仕事だから。休ませてあげてください!」


 一八〇センチを超える彼の背は人混みの中でも目立つ。


 すぐに彼に気づく人も現れた。


「森崎悠真だ!」


「え、推理作家もいるの?」


「二人で食事してたってこと?」


 店内はさらに混乱した。


 店主は汗だくになり、最後には警察を呼ぶと言い出した。だが外の人々も騒ぎを聞きつけて中へ押し寄せ、状況はさらに制御しづらくなる。


 蓮は人混みに囲まれ、ほとんど動けなかった。


 昨夜読んだ『契約者自衛手札』を思い出す。


 基本術のひとつ。


 借風。


 蓮は目を閉じ、周囲の空気の流れを感じようとした。空調、ドアが開くたびに入る風、人々の呼吸がかき混ぜる微細な気流。それらが、ある瞬間だけはっきりと感じ取れる。


 掌に小さな風を集め、いちばん近い人混みの端へそっと押し出した。


 前にいた女の子が、風に揺らされたように半歩横へよろめく。後ろの人が転ばないように彼女を支えた。


 隙間ができる。


 蓮はすかさず一歩進んだ。


 次に、二歩目。


 三歩目。


 悠真もその機会に気づき、蓮に続いて外へ抜けた。


 ようやく店の入口まで出る。


 蓮は声を低くした。


「走って」


 言い終わるなり、二人は別々の方向へ走り出した。


 人々は一瞬、どちらを追えばいいのかわからなかった。


 気づいたときには、蓮と悠真の姿はすでに街角の向こうへ消えていた。


 この騒動のあと、その店は「佐伯蓮と森崎悠真が一緒に食事をした店」として、むしろさらに客が増えることになる。


 もちろん、それは後の話だった。


 蓮が悠真と合流する前に、伊織から電話がかかってきた。


「蓮、今どこ?」


 電話の向こうで伊織は息を切らしていた。どこかを走ってきたようだった。


「午後の取材、もうすぐ始まる。事前確認もしないと」


 蓮は周囲を見回した。


「商店街。風花ミルクティーの近く」


 人気の少ない角を見つけ、悠真へメッセージを送ってから、壁際にもたれて伊織を待った。


 徐々に、空気が冷えていく。


 通りの足音、車の音、店の音楽が、厚い布で覆われるように遠ざかった。


 蓮は顔を上げた。


 清司が目の前に立っていた。


「清司?」


 その人物は答えなかった。ただ、意味ありげに蓮を見つめている。


 蓮は眉をひそめた。


 相手はゆっくり近づいてくる。


「少し疲れた」


 そう言って、身体を蓮の肩へ預けようとした。


 蓮は避けなかった。


 だが相手が寄りかかった瞬間、彼は勢いよく突き飛ばし、すぐに安全な距離を取った。


「誰だ?」


 目の前の「清司」が首を傾げた。


「騙されないんだな」


 首筋の皮膚に細い裂け目が走る。白銀清司の姿が、皮のようにゆっくり剥がれ落ちた。


 現れたのは、緑色に光る目。


 そして、ゆっくり伸びる蛇の舌。


「蛇か」


 蓮は相手を見据えた。


 蛇妖は笑う。


「見る目がある」


 次の瞬間、奇妙な姿勢で飛びかかってきた。


 蓮は昨夜覚えたばかりの歩法で身をかわした。足元で風が切り替わり、どうにか蛇妖との距離を取る。


「迷影歩まで渡しているのか」


 蛇妖の目に貪欲な光が浮かぶ。


「ずいぶん信用されてるんだな」


 言い終わらないうちに、蛇妖が急襲する。


 冷たい身体が縄のように蓮に絡みつき、蛇の舌が頬の横をなぞった。ぬるりとした感触に、蓮の全身が粟立つ。


「いい匂いだ」


 蛇妖が低く囁いた。


「喰わせろ」


 蓮は吐き気をこらえ、心の中で呪文を唱えた。


 指先に細い雷光が凝り、蛇妖の後頸へ突き刺さる。


 蛇妖は首を傾けて避け、そのまま蓮の口を塞いだ。


「天雷訣も覚えたのか?」


 彼はますます危険に笑う。


「だが、もう遅い」


 蓮が完全に押さえ込まれようとしたとき、横から氷刃が飛び、蛇妖の後頸を貫いた。


 蛇妖は悲鳴を上げて手を放す。


 蓮は一歩よろめき、顔を上げた。


 本物の清司が宙に浮かんでいた。


 白髪が散り、金の瞳は氷のように冷たい。


「死にたいのか?」


「白銀清司!」


 蛇妖は後頸を押さえ、歪んだ笑みを浮かべた。


「そんな重傷で、まだ俺に勝てると思ってるのか?」


 蓮は固まった。


 清司の顔はいつもよりずっと青白い。片手はわずかに胸元を押さえている。呼吸は乱れていないように見えて、蓮の目には逃れようもなくわかった。


「どういうこと?」


 蛇妖は面白いものを見つけたように笑った。


「知らないのか」


 蓮を見て、清司を見る。


「そいつはおまえのために、ひとりで造化神に会いに行ったんだよ」


「造化神?」


 蓮は思わず繰り返した。


 清司の目が一瞬で冷える。


「余計なことを喋るな」


 氷錐が飛ぶ。


 蛇妖は身をひねって避けたが、同時に清司の掌に凝った雷までは逃れられなかった。


 雷光が叩きつけられる。


 蛇妖は正面から一撃を受け、身体を黒い影のように歪ませた。蓮はその隙に、蛇に締めつけられて赤くなった左腕を袖の中へ隠す。


 清司が地面に降りる。


 顔色はさらに悪くなっていた。


 蛇妖は傷口を押さえ、歯を食いしばって清司を見る。


「覚えてろよ、白銀清司」


 言い捨てると、彼は路地の奥へ消えた。


 現実の音が一気に戻ってくる。


 車の音、足音、店の音楽。それらが一瞬で耳へ流れ込んだ。


「蓮!」


 伊織が街角から走ってきた。


「やっと見つけた。なんで電話に出ないんだよ?」


 蓮はスマホを見た。


 不在着信は五件。すべて伊織からだった。最新の着信は一分前。


 彼は袖口を引き下げ、腕の痕を隠した。


「何でもない」


 蓮は車のほうを見る。


「行こう」


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