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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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甘さに狂う忘却の狐

朝の光が窓から部屋に差し込んだ。蓮は早く目を覚まし、身支度をしてから下へ降り、朝食を用意した。清司も早く起きていたが、蓮を見るなり不自然に目を逸らす。


 昨夜のことを思い出すだけで、彼は蓮をまともに見られなかった。どうして男に反応したのか。この男はただ一時的に置いている付き人にすぎない。そもそも、自分がなぜ彼を手元に置きたいのかすら分からない。


「朝食の準備ができました」


 蓮は食器を置いた。


「白銀社長、どうぞ」


 昨夜よりは普通に近い服装だったが、それでもどこか過度に作られた奉仕感が残っていた。清司は一瞥しただけで、胸がざわつく。


「今後、そういう服は着るな」


「自分の服に戻せ」


 蓮は一瞬呆け、衣服の裾を軽く引いた。確かに自分らしくない。普通に戻したほうがいい。


 清司はカップを手に取り、ふいに尋ねた。


「佐伯蓮」


「男を好きになったことはあるのか」


 蓮の動きが止まった。


 好きになったこと。


 清司を含めていいなら、もちろんある。


 清司は蓮の困った表情を見て、おおよその答えを察した。芸能人が男を好きでも、本来は自分に関係ないはずだ。なのに、なぜ胸の奥が不快になるのか。


「好きなのは、あの医者か」


 何気ない口調を装っているが、指先はカップの縁を何度も叩いていた。蓮はすぐ首を振る。


「違います」


 飛鳥は優しかった。多くのことをしてくれた。けれど感謝は感謝であって、恋ではない。


 その答えを聞いた瞬間、清司は自分でも分かるほど安堵した。すぐに眉を寄せる。


 何を考えている。


 自分は普通の男だ。佐伯蓮が鷹宮飛鳥を好きではないと聞いて、なぜ喜ぶ。


 蓮は二階へ戻り、自分の服に着替えた。鏡の中の自分は、青白く疲れた顔をしている。彼自身も、少しずつ変わっている気がした。


 清司に近づくたび、また彼を欲しくなる。けれど清司はもう自分のものではない。


 階下へ降りると、リビングには見慣れた人物がいた。水瀬琴音が清司の膝の上に座り、楽しそうに話しかけている。清司の手は、穏やかに彼女の髪を撫でていた。


 その仕草は、かつて蓮だけのものだった。


 今は別の人間に与えられている。それも、蓮が一番見たくない相手に。


 蓮は顔を伏せた。自分はいったい何を期待していたのだろう。清司に孟婆湯を飲ませたのは自分だ。その結果は、全部自分が受け止めるべきなのだ。


 琴音は蓮を見るなり、顔色を変えた。


「どうしてあなたがここにいるの?」


「白銀社長、どうして彼を家に入れているんですか」


 蓮は静かに答えた。


「今、白銀社長のところで手伝いをしています」


「白銀社長とは、以前から面識があります」


「水瀬さんが気にすることではありません」


 清司が頷いたので、琴音の表情は少しだけ和らいだ。彼女は蓮も伊織も嫌いだった。二人は、彼女の過去の悪夢の名残のような存在だ。見るだけで、自分が歩いてきた不格好な道を思い出す。


「でも、白銀社長」


 琴音は清司に凭れかかり、甘えた声を出した。


「彼は私から子どもを奪った人です」


「そんな人を、どうしてあなたの家に置くんですか」


 清司は笑い、問いをそのまま返す。


「彼は今、俺たちが関わるプロジェクトの俳優だ」


「簡単に切れば、いろいろ面倒が起きる」


「そう思わないか?」


 琴音は眉を寄せる。


「彼があなたの会社の人間になったなんて、聞いていません」


「契約やプロジェクト管理は、人事と法務と制作の管轄だ」


「すべてお前に知らせる必要はない」


 琴音は不満を飲み込んだ。彼女はまだ清司のそばに立ったばかりだ。これから蓮を痛めつける機会はいくらでもある。今ここで、わがままだと思われる必要はなかった。


「分かりました」


「白銀社長の顔を立てて、今は我慢します」


 彼女は蓮を警戒するように見た。


「でも、佐伯さんは油断できる人じゃありません」


「白銀社長も、ちゃんと見極めてくださいね」


 蓮は争う気になれなかった。あの流産の件について、彼にはまだ強い罪悪感がある。


「水瀬さん」


「これから現場へ行きます。あなたも一緒に行きますか」


「もちろん行くわ」


 琴音は蓮を睨む。


「私がいない間に、あなたが白銀社長を誘惑したら困るもの」


 清司の眉がわずかに動いた。この言い方は何だ。琴音も、自分が男に誘惑されるような者だと思っているのか。


 琴音は言い過ぎたことに気づき、慌てて言葉を継いだ。


「白銀社長、違うんです」


「あなたは知らないでしょうけど、佐伯さんは男も女も関係ないんです」


「相手が誰でも、近づいていく人なんです」


 蓮は拳を握った。どうしてそこまで自分を貶めるのか。まるで自分が、人を選ばず媚びるだけの存在だと言っているようだった。


 清司の目が細くなる。本人すら気づかないうちに、瞳の奥に殺気が滲んでいた。


「へえ」


「なら、誰を誘惑したのか言ってみろ」


 琴音は清司が蓮を嫌い始めたのだと思い、すぐに口を開いた。


「病院の鷹宮先生」


「それに、現場の男優やカメラマン」


「少し優しくされると、すぐ相手に寄りかかるんです」


「そうか」


 清司は蓮を見た。蓮が否定することを望んでいた。蓮が違うと言えば、自分はきっと信じる。けれど蓮は何も言わなかった。


 ただ、目を逸らした。


 清司の胸が苦しくなる。彼はテーブルの水の入ったグラスを取り、蓮の前に立つと、そのまま頭から水をかけた。


 水が髪先から頬へ、襟元へと伝っていく。蓮は目を閉じ、一言も発しなかった。心は痛みすぎて、もう感覚が遠くなっている。


「もういい」


 彼は低く言った。


 清司は眉をひそめる。


「もういい?」


「佐伯蓮、俺は何か間違ったことを言ったか」


「そんなに男が好きか」


 蓮がぱっと目を開いた。その目は氷のように冷たく、清司の胸を震わせた。


「もういいです、白銀社長」


「お願いです。これ以上、僕を侮辱しないでください」


「僕はあなたに何も借りていません」


 清司は固まった。


 この目。


 どこかで見たことがある。


 どこだった。


 なぜ、思い出せない。


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