すべてが彼の形をしている
夜、蓮は約束どおり清司から送られた住所へ向かった。そこは東京都心の高級住宅街にある独立した邸宅だった。外壁は控えめだが、庭は丁寧に手入れされている。蓮は門の前に立ち、街灯の下で白黒に揺れる木影を見つめながら、言葉にできない思いを抱いた。
清司は、人間の世界にこんな住まいまで持っていたのか。以前の自分は、やはり清司を少し甘く見ていたらしい。
清司はまだ戻っていなかった。蓮は門の前で待つしかない。幸い、そこには街灯があった。もし光すらなければ、色を失った今の目にはもっと見えづらかっただろう。
苦く笑った。遠回りをして、結局清司の元へ戻ってきた。
長く待ったあと、一台の車が門前で止まった。清司は車を降りた瞬間、蓮を見つけた。彼はわざと蓮を少し待たせたのだ。けれどここへ向かう途中、もし蓮が来なかったらどうするのかと、何度も考えてしまっていた。その思考自体が、清司にはひどく馬鹿げて思えた。
「白銀社長、お帰りなさい」
蓮は反射的に一歩近づいた。清司はわざと身をずらし、その動きを避ける。
「佐伯蓮」
「自分の立場を弁えろ」
「お前は今、ただの住み込みの付き人だ」
「付き人には付き人らしい態度がある」
「人に見られたら、どう思われる」
蓮は唇を噛み、目を伏せた。
「分かりました」
「ご指摘、ありがとうございます」
彼が傷ついたのを見て、清司の胸にまた小さな不快感が生まれる。清司は扉を開けた。蓮が中へ足を踏み入れた瞬間、その場で立ち止まる。
この家の造りは、かつて二人が住んでいた家とほとんど同じだった。リビングのソファの位置、食卓の向き、オープンキッチンの設計、玄関の靴箱の高さまで、記憶の中から写し取ったように似ている。
「白銀社長」
蓮の声は小さかった。
「ここの内装は、ご自分で考えたんですか」
清司はネクタイを緩めた。
「だったら何だ」
「違ったら何だ」
「いえ」
蓮は俯く。
「とても、懐かしい感じがしただけです」
清司も室内を見回した。なぜこの家をこんな造りにしたのか、自分でも分からない。ただ、胸の中のどこかに何かを失ったような空白があった。
佐伯蓮がそこに立った瞬間、その空白がほんの少しだけ埋まった気がした。
「お前の部屋は俺の隣だ」
清司は袋を一つ蓮に投げる。
「それから、付き人ならそれらしい服を着ろ」
蓮が袋を開けると、中には明らかに屈辱を含んだ衣装が入っていた。正式な仕事着ではない。テーマカフェで見るような、兎耳のついた可愛すぎる服。布地は少なく、デザインは過剰に甘く、同時に曖昧な色気を持っている。
蓮の顔色が白くなった。
「白銀社長、これは……」
「不満か?」
清司の顔は冷たい。
「着なくてもいい」
「その代わり、法的な手続きに戻る」
「三浦伊織の今後を、自分でよく考えろ」
蓮の指先がかすかに震えた。清司は意地悪をしている。けれど彼に退路はなかった。
「着ます」
清司は近づき、蓮の顎を持ち上げ、低い声で言った。
「正直、着たところは見てみたい」
「佐伯蓮、俺を失望させるな」
蓮は俯いたまま答えた。
「承知しました」
その言葉は、歯を食いしばって絞り出したものだった。清司はただ忘れているだけだ。わざと自分を傷つけているわけではない。蓮は何度もそう言い聞かせた。
けれど、本当の痛みはごまかせなかった。
蓮は二階の部屋へ入った。部屋は簡素で、ベッドとクローゼットがあるだけだった。クローゼットの中には予備の服が並んでいたが、どれも蓮が見たくもないようなものばかりだった。
蓮はベッドに腰を下ろし、片手で顔の半分を覆った。
疲れた。
昔の自分は、ただ清司と一緒にいたかっただけなのに。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「清司……」
本当に、もう自分は捨てられたのだろうか。
クローゼットの奥で、蓮は数着の古い服を見つけた。それは、清司が昔彼に用意してくれたものだった。かつては嫌がった服ばかりだ。けれど今見ると、あの頃の二人にも確かに甘い時間があったのだと思い知らされる。
その甘さを壊したのは、自分だった。
蓮は服を抱き締め、長く声を殺して泣いた。やがて涙を拭い、清司が要求した衣装へ着替える。
鏡に映る自分を見て、頬が熱くなった。蓮の体型は、芸能界でも羨まれるほど整っている。肩から首の線は綺麗で、腰は細く、馬鹿げた衣装でさえ、脆く美しいものにしてしまう。
けれど、彼は男だ。
こんなふうに辱められたくはなかった。
階下へ降りると、清司の視線はほとんど蓮から離れなくなった。口の中が乾く。蓮を丸ごと飲み込みたいような衝動が、理由もなく湧き上がってくる。
「ここを片づけろ」
清司の声は少し掠れていた。
「俺はシャワーを浴びて、少し仕事をする」
「二階へは上がるな」
自分が本当に理性を失いそうだったからだ。蓮は黙って頷き、掃除道具を取りにいった。家はもともと汚れていない。ただ少し整えるだけで十分だった。
キッチンまで片づけた時、冷蔵庫に食材があるのに気づいた。清司が好みそうなものばかりだった。少なくとも、昔の清司なら好きだったはずだ。
蓮はつい、簡単な夕食の支度を始めた。
その背中に、急に体温が重なった。清司が後ろから蓮の腰を抱いていた。
蓮の身体が固まる。
「白銀社長……」
「やめてください」
清司はすぐには離れなかった。自分でも分からない。なぜ下へ降りたのか。なぜキッチンに立つ蓮を見た瞬間、引き寄せられるように歩いてしまったのか。
キッチン、食材、背中。
それらが、記憶の奥で何かにぶつかっていた。蓮の声は次第に弱くなる。
「お願いします。止めてください」
清司はようやく我に返った。自分が蓮を料理台の前に閉じ込めていたことに気づき、火傷したように数歩後退する。彼は自分の手を見下ろした。
何をしている。
なぜ、よく知らない相手にここまで抗えない。
「今後、キッチンには立つな」
清司は冷たく言った。
「別の場所を掃除しろ」
蓮は彼を見上げた。目の奥の光が少しずつ沈む。
「白銀社長」
「一つお願いしてもいいですか」
清司が目を上げる。
「言え」
「僕とは距離を置いてください」
蓮は俯いた。
「お願いできますか」
「いい」
清司の返事は早かった。もともと彼自身もそのつもりだった。けれどその即答を聞いて、蓮の胸はいっそう痛んだ。
「ありがとうございます、白銀社長」
彼は掃除道具を持って別の場所へ向かい、誰にも見えない隅で、とうとう泣き崩れた。
二階の書斎で、清司はパソコンの画面を見ていた。だが一文字も頭に入らない。脳裏に浮かぶのは、さっきの蓮の姿ばかりだった。
くそ。
どうして男のことばかり考えている。
それも、好きでもないはずの男を。




