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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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忘れても惹かれる唇


 翌朝、蓮はまた病院へ行った。水瀬琴音が自分を恨んでいることは分かっている。それでも、処置を終えたばかりの彼女を完全に放っておくことはできなかった。


 術後でも口にできる薄味のスープを買い、店員に温度まで確認してから病室へ持っていく。琴音は遠くから蓮を見るなり、目に敵意を浮かべた。


「水瀬さん」


 蓮は保温袋をベッドサイドへ置いた。


「少し飲んでください。あとで僕が――」


 言い終える前に、琴音は椀を掴み、蓮へ向けて投げつけるようにぶちまけた。沸騰してはいなかったが、それでも十分熱い。蓮は避けきれず、胸元と腕が赤くなる。痛みに眉を寄せたが、声は出さなかった。


「こうやって私を害するつもりだったの?」


 琴音の声は尖っていた。


「こんなに熱いもの、自分で飲んでみればいいじゃない」


 病室の扉が開き、飛鳥が早足で入ってきた。彼は真っ先に蓮の火傷を確認し、掌に淡い妖力を浮かべて、傷の熱をそっと吸い取る。


 琴音は冷笑した。


「佐伯蓮って、本当にすごいわね」


「男も女も選ばないんだ」


 飛鳥の目が冷えた。


「黙れ」


 声は大きくないのに、呼吸を奪うほどの圧がある。


「もう一言でもくだらないことを言えば、後悔させる」


 琴音はその視線に怯え、顔色を白くした。蓮は飛鳥の腕を押さえる。


「大丈夫」


 飛鳥は蓮を見た。優しすぎる。だから水瀬琴音は、こうして何度でも蓮を傷つけられるのだ。


「もう、こういうことはするな」


「お前は彼女の世話係じゃない」


 蓮は首を振った。


「彼女がこうなったことには、僕と伊織にも責任がある」


 飛鳥はそれ以上言い争わなかった。蓮の中に重い罪悪感があるのを知っていたからだ。いくつか注意だけして、彼は病室を出ていった。


 蓮は床にこぼれたスープと割れた椀を片づける。琴音はその背中を睨みつけていた。


「私の前で善人ぶらないで」


「あなたみたいな人が、一番嫌い」


「佐伯蓮、私はあなたのことを誰よりも分かっている」


 蓮の手が止まった。


「水瀬さん」


「僕たちは長く知り合いでした」


「僕は、どこであなたを傷つけましたか」


「本当に何かしたなら、言ってください」


 琴音は笑った。まるで冗談を聞いたように。


「どこで傷つけた?」


「佐伯蓮、あなたにも欠点はたくさんあるのに、どうして周りはいつもあなたを許すの?」


「どうして私は、自分の力だけで一段ずつ這い上がらなければならなかったの?」


「どうして少しのチャンスを得るだけで、私は身体まで差し出さなきゃいけなかったの?」


 彼女の中にある恨みは濃かった。一日や二日で生まれたものではない。長い嫉妬、怨み、不公平感が積もって作られた毒だった。


 蓮には答えが見つからなかった。自分もまた代償を払ってきたのだと、言えばよかったのか。けれどこの世には、何の代価もなく手に入るものなどない。


 清司を救うために、蓮は辨色の力を失った。清司は彼のために魂核を砕いた。自分が当たり前だと思っていた幸せには、すべて値段が付いていた。


「この世界に、何の代価もなく得られるものはありません」


 蓮の声は軽かった。


「あなたも、僕も、同じです」


 琴音は顔を上げ、涙が出るほど笑った。


「代価?」


「これが代価だっていうの?」


「私はこれから子どもを産めないかもしれないのよ!」


 かつて彼女は、子どもをそこまで大切なものだと思っていなかった。けれど本当に失ってみれば、その痛みは本物だった。


 蓮は俯いた。


「ごめんなさい」


 琴音は枕を掴み、蓮へ投げつけた。


「出ていって」


「今すぐ消えて!」


 蓮は病室を出て、廊下で深く息を吸った。するとすぐ横から、清司の声が落ちてくる。


「その程度で耐えられないのか」


 蓮は顔を上げた。彼の世界は白黒になっていたが、それでも清司は美しかった。痛いほど、美しかった。


「白銀社長」


「どうしてここに?」


「水瀬さんの状態が落ち着いたら、こちらから伺うと言いました」


「急がなくても大丈夫です」


 清司は一歩ずつ近づいてくる。蓮は無意識に後退し、やがて背中が壁に当たった。逃げ場はない。傷ついた小鹿のように睫毛を震わせ、逃げたいのに、それでも清司から目を離せない。


 清司は急に喉が渇くのを感じた。彼は蓮の顎を持ち上げ、唇を重ねる。


 蓮の身体が固まった。理性では、突き飛ばすべきだと分かっている。けれど身体は、先にこの男の気配を思い出してしまった。清司の腕、清司の口づけ、清司の体温を、あまりにもよく知っていた。


 だからその瞬間、彼はすぐには拒めなかった。清司がようやく離れた時、二人とも息が乱れていた。


 清司自身も呆然としていた。なぜ佐伯蓮に対して、こんなにも自制がきかないのか。この男はただの人間で、しかも男なのに。


「清司……」


 蓮は思わずその名を呼んだ。口にしてから、すぐに我に返る。今の二人は、もう以前の関係ではない。そんなふうに呼んではいけない。


 彼は顔を伏せた。


「白銀社長」


「今は水瀬さんのところへ行かないほうがいいと思います」


「彼女は、まだ情緒が不安定です」


 清司は喉を鳴らした。自分はきっとおかしくなっている。


「分かった」


「そうする」


「今夜、直接俺のところへ来い」


 蓮は固まった。清司は顔を逸らし、彼を見ようとしない。


「付き人をやると約束したなら、引き延ばすな」


「分かりました」


 蓮は低く答え、その場を離れた。清司は彼の背を見つめ、指先で自分の唇に触れる。まだ、蓮の味が残っていた。


 甘い。


 泉水のように。


 どうして、こんなに甘いのだろう。


 冥府では、夜刀姫が水晶球を見つめたまま、横の岩を一掌で砕いた。


「孟婆湯はなぜ効かない」


「白銀清司はなぜ、まだあの者に心を動かす」


 孟婆は下で跪き、静かに答えた。


「黄泉御前」


「孟婆湯は記憶を消します」


「けれど、心が動くことまでは支配できません」


「記憶は消えても、感情の本能までは死なないことがあります」


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