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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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泉水の味、壊れた理性

 琴音が歩み寄り、蓮を叩こうと手を上げた。蓮はその手首を掴む。もう耐えたくなかった。これはただの口論ではない。自分の尊厳を踏みにじられている。


「まだ逆らう気なの?」


 琴音は信じられないという顔をした。蓮は彼女の手を放し、視線を冷たくする。


「白銀社長、水瀬さん」


「僕にも尊厳があります」


「今後、好き勝手に僕を侮辱しないでください」


「僕はいつまでも、情に流されるわけではありません」


 琴音は数歩後退し、足元を崩して床に座り込んだ。清司は手を伸ばそうと思えば伸ばせたのに、動かなかった。


 琴音は彼を見上げ、目に失望を浮かべる。彼女は本当は分かっていた。清司は自分を好きではない。最初は清司を利用するつもりだった。けれど次第に、本当にこの男に惹かれ、彼の視線が欲しくなってしまった。


 間違っていた。


 清司は最初から、彼女を見ていない。記憶を失っていても、彼の目はやはり佐伯蓮へ落ちる。


 なぜなのか。


 どうして蓮は、いつも彼女が欲しいものを奪っていくのか。


 清司は一歩ずつ蓮に近づいた。その声には悪意があり、同時に本人にも分からない苛立ちがあった。


「ずいぶん気が強くなったな」


「男が好きだというだけだろう」


「好みの男がいるなら、探してやってもいい」


 蓮は目を閉じた。こんなことを清司と言い争いたくない。何の意味もない。


「清司」


 それでも、その名前を呼ばずにはいられなかった。


「僕は一時的にあなたの付き人をしているだけです」


「あなたの奴隷ではありません」


「これ以上、僕の名誉を傷つけるなら、弁護士を通すこともできます」


 彼は苦く笑った。


「僕が救い戻したのは、もう僕が愛した清司ではないのかもしれません」


 もういい。


 これ以上、時間を無駄にする必要はない。


 清司の胸がきゅっと締まった。なぜ自分は蓮に申し訳ないと感じるのか。もしかすると、かつて自分はこの男を知っていたのか。あるいは、自分の中で欠けたままの部分こそ、目の前の彼なのか。


 蓮は二階へ行き、荷物をまとめ始めた。清司はその背中を見つめて立ち尽くす。琴音は強く指を握り締めた。


 その目だ。


 彼女がずっと羨んでいたのは、清司が蓮を見る時のその目だった。


「白銀社長」


 琴音は柔らかな声を作った。


「私が何か間違えて、蓮さんに誤解させてしまったんでしょうか」


「もし本当に彼のことが気になるなら、私に遠慮しなくていいんですよ」


「彼を引き止めてもいいと思います」


 彼女はどこまでも清司を思いやっているように振る舞った。清司は彼女を見下ろし、ふいに顔を近づけた。


 そして、彼女に口づけた。


 清司が琴音にキスをしたのは初めてだった。琴音はすぐにその状況へ馴染んだ。けれど清司はすぐ眉をひそめる。


 何も感じない。


 蓮に触れた時とはまるで違う。


 むしろ、胸の奥に説明しがたい嫌悪感すら湧く。


 清司は琴音を押し離した。琴音はまだ先ほどの口づけに酔ったように、彼を見上げている。清司は立ち上がった。


「先に帰れ」


「用がある」


 琴音は何も聞けず、頷いて出ていった。


 蓮が荷物をまとめて階下へ戻ってきた。顔には揺るがない決意がある。清司は彼を見て、胸に妙な喪失感を覚えた。


「本気か」


「三浦伊織の将来を捨てるのか」


 蓮の足が止まった。髪はまだ濡れ、襟元も水で湿っている。清司はその姿を見て、急に後悔した。ほんの小さなことを、自分がここまで壊してしまった。


 彼は蓮の手を掴む。


「そんなにここにいたくないのか」


 蓮の胸が微かに震えた。どうして、彼は蓮が諦めようとするたび、ほんの少しの希望を与えるのだろう。


「白銀社長」


「僕にはこの仕事は向いていないのかもしれません」


「あなたは――」


 言い終える前に、清司は蓮をベッドへ押し倒した。蓮は必死に抵抗したが、力では敵わない。


 清司はこの数日、欲望を抑え続けていた。蓮が近づき、また遠ざかるたび、胸の火を何度も点けられているようだった。もう制御しきれなくなっていた。


「白銀社長、これはよくありません」


 蓮の声は震えていた。


「あなたには恋人がいます」


「少なくとも、彼女を尊重するべきです」


 清司は低く言った。


「触れていない」


 蓮は固まった。触れていない。なぜそれを自分に言うのだろう。清司は思い出したのか。


 違う。もし本当に思い出していたなら、こんなふうに自分を扱うはずがない。


「白銀社長」


 蓮の目に涙が滲む。


「やめてください」


「自分が何をしているか分かっていますか」


「これはもう、強要です」


 清司はようやく少し冷静になった。下にいる蓮は、目尻に涙を浮かべ、全身を震わせている。清司が涙を拭おうと伸ばした手は、蓮に払いのけられた。


「これからは、僕と距離を置いてください」


 蓮は涙を含んだ声で言った。清司の顔が沈む。


「駄目だ」


「お前が他の男といるところは見たくない」


「佐伯蓮、お前は俺のものだ」


 蓮は必死に首を振った。彼は清司のものではない。今の清司には恋人がいて、二人の過去も覚えていない。そんな清司が、蓮にこんなふうに触れるべきではなかった。


 頭から水をかけられたあの瞬間に、目を覚ますべきだった。もう夢を見てはいけない。


「どうして」


 蓮の声は壊れそうだった。


「今のあなたの生活は、それで十分じゃないですか」


「どうして僕を放っておいてくれないんですか」


「清司」


「お願いだから、僕を解放して」


 泣き出しそうな蓮を見て、清司はようやく少し慌てた。感情は強制できない。そんなことは分かっている。けれど蓮と距離を置くことだけは、どうしてもできなかった。


「俺のそばにいればいいだけだ」


「それとも、本当にあの医者が好きなのか」


「あの医者のどこがいい」


 清司の指が蓮の髪を撫でる。蓮はぞっとして、思わず身を引いた。清司は一歩ずつ近づく。まるで闇の中から迫る影のようだった。


「清司、落ち着いて」


 蓮は壁際まで追い詰められた。清司の指先が、頬から唇へと彼の輪郭をなぞる。


 清司は、さっき琴音に触れた感覚を思い出した。空っぽで、気持ち悪くて、何の意味もなかった。


 けれど蓮は違う。


 蓮には、泉水のような味がある。澄んでいて、冷たく、なのに癖になる。


 それは清司が今まで知らなかった感覚だった。


 もっと知りたい。


 佐伯蓮という人間がどんな存在なのか、深く知りたい。


 もしかすると、自分で確かめなければ分からないのかもしれなかった。



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