消えた命と逃げ場のない責任
水瀬琴音が恩を仇で返していることは、現場の多くが見ていた。蓮は伊織の腕をつかみ、これ以上言わせなかった。
「伊織、ここで彼女と揉めないで」
「僕たちに得はない」
琴音はそれを聞き、かえって得意そうに笑った。彼女は伊織のその表情が気に入らない。かつて彼女が伊織を利用したのは、その時の伊織にまだ価値があったからだ。今の伊織と蓮がここまで弱っているなら、過去の不都合な関わりなど、すべて切り捨ててしまいたかった。
蓮を芸能界から追い出せるなら、それでいいではないか。
遠藤もこの騒ぎに頭を抱えていた。
「佐伯君」
「君も、少し空気を読んだほうがいい」
「本当に降ろされてからでは、体裁がもっと悪くなる」
「遠藤監督」
横から黒沢明彦が現れた。
「白銀社長は、さっき佐伯さんを数日残すと言いました」
「監督は今、何をおっしゃっているんですか」
遠藤は言葉に詰まった。明彦は清司を一瞥する。清司が突然変わったことに、彼はそれほど驚いていなかった。むしろ、ある意味では好都合ですらある。
清司が本当に蓮を忘れたなら、自分はようやく堂々と蓮のそばへ近づけるのではないか。
清司は琴音を見て、蓮と伊織を見た。この数人の間に過去の因縁があることは分かる。特に水瀬琴音は、見た目ほど単純な女ではない。だが今の清司は、そこまで深く掘る気になれなかった。
「残すと言った以上、数日は残す」
そう言って、清司は琴音とともに去った。琴音は彼の腕に自分の腕を絡め、二人は外から見ると恋人同士のように見えた。伊織はその背を、歯を食いしばって見送る。
遠藤は冷たい顔で蓮を見た。
「ちゃんとやれ」
「次に同じことをしたら、ただでは済まない」
蓮はもう、遠藤の現実的な態度に慣れていた。遠藤は完全に自分を嫌っているわけではない。現場の圧力が大きく、出資者の顔色を見ているだけだ。けれど琴音が掻き回したせいで、蓮は監督にとって分かりやすい火種になっていた。
明彦がそっと蓮の肩を叩いた。
「俺は、君ならできると思っている」
「ありがとうございます」
蓮は薄く笑う。明彦の胸は痛んだ。以前は、白銀清司がどれほど蓮を大切にしているかと思っていた。だが今の清司を見る限り、蓮もただ利益を生む道具でしかないのだろうか。
その夜、蓮は家に戻った。リビングのソファに座り、炭酸水の入ったグラスを両手で包みながら、窓の外の灯を眺める。どの灯にも色はない。そこにあるのは明暗の差だけだった。
清司が料理をしてくれたこと。眠っている蓮に毛布をかけてくれたこと。転びそうになった蓮を抱き寄せてくれたこと。思い出すほど、胸の奥が痛んだ。
清司は、もう二度と自分を思い出さないのだろうか。
これは自分が招いたことだ。
誰を恨めるというのだろう。
「清司……」
蓮は目を閉じた。涙が一滴、音もなく頬を滑り落ちる。
冥府では、夜刀姫が軟榻に斜めに座り、水晶球の中の光景を眺めていた。たった一日で、もうそんなに泣くのか。彼女は杯の酒を揺らし、傍らに跪く孟婆へ問いかける。
「妾を残酷だと思うか?」
孟婆は頭を下げたまま答えた。
「思いません」
「あなた様は、白銀清司をすでにお許しになりました」
「世のすべてには代価が必要です」
「佐伯蓮が今受けているものなど、まだ軽いほうでしょう」
夜刀姫は笑った。
「そうだな」
「妾も、自分はずいぶん慈悲深いと思っている」
数千年前もそうだった。
今も、きっとそうなのだ。
翌朝、陽光が蓮の顔に落ちた。目を開けても、世界はやはり白黒だった。まだ慣れない。だが、なるべく早く慣れなければならなかった。
身支度を終えると、蓮は現場へ向かった。萌奈は彼をメイク室へ引き込み、丁寧にメイクを直す。そこへ莉央が駆け寄り、蓮の掌に小さな飴を置いた。
「蓮お兄ちゃん、今日も一緒に頑張ろうね」
蓮は笑って頷いた。もちろん頑張る。頑張らなければ、清司は本当に自分を現場から追い出してしまうかもしれない。
伊織が入ってきた。
「蓮さん、向こうの準備ができました。行きましょう」
蓮が立とうとした時、メイク室の扉が開いた。水瀬琴音が入ってくる。昨日よりさらに派手な服装で、むせるほど強い香水をまとっていた。鏡の前に座る蓮を見て、彼女の口元に悪意の笑みが浮かぶ。
「へえ」
「まだここにいるんだ」
「佐伯さんって、こんなに図々しい人だったんですね」
蓮は相手にしようとせず立ち上がったが、琴音がその手首を掴んだ。
「逃げるんですか?」
「もっと堂々としていればいいのに」
伊織の怒りが爆発した。彼は琴音の手をつかみ、扉の方へ押しやる。
「水瀬、ここで気持ち悪いことをするな」
「俺は、三浦伊織は、お前という人間をようやく見切った」
「本当に、気分が悪い女だ」
琴音が手を上げる。伊織は反射的にそれを払った。思っていたより力が入ったらしく、琴音の背中が壁にぶつかり、彼女は腹を押さえて屈み込んだ。
伊織も凍りつく。傷つけるつもりなどなかった。蓮は慌てて一歩前に出る。
「伊織、やめて」
「彼女は女の子なんだから」
伊織は歯を噛んだ。蓮がいつも優しすぎるから、琴音は何度も蓮を踏みつけるのだ。
その時、萌奈の顔色が変わった。
「……血」
琴音が俯く。スカートの裾に赤い滲みが広がっていた。彼女の顔から血の気が引く。
「私の子……」
「私の子……!」
メイク室は一瞬で騒然となった。萌奈がすぐ119番へ電話し、スタッフが場務と遠藤へ知らせに走る。準備していた撮影は完全に止まった。
病院の廊下で、伊織と蓮は手術室の前に座っていた。ランプは点いたまま消えない。伊織の顔は真っ白だった。自分はいったい何をしてしまったのか。蓮も俯き、指先は冷たくなっていた。
まもなく清司が来た。彼は蓮を見ようとせず、まるで蓮が知らない人間であるかのようにそこに立つ。
産婦人科医が出てきた。表情は厳しい。
「ご同行の方はどなたですか」
伊織が立ち上がった。
「以前の交際相手です」
清司が冷たく口を挟む。
「彼女は今、俺の恋人です」
医師は二人を見比べ、さらに厳しい声になった。
「患者さんは流産しました」
「身体の状態も悪く、既往歴を見る限り、過去にも流産があった可能性があります。今後、詳しい検査が必要です」
「将来的な妊娠リスクも高くなります」
「ご家族がどなたか、責任の所在がどこにあるのか、病院、警察、弁護士と後日確認してください」
伊織の顔はさらに白くなった。清司は蓮を見る。その視線が冷たすぎて、蓮の胸がきゅっと縮む。
そこへ飛鳥も駆けつけた。清司を見た瞬間、複雑な表情が一瞬だけ浮かび、すぐに押し隠される。




