もう知らない人として
「仕事の時間に、そうやって雑談をするものなのか?」
背後から、聞き慣れた声がした。蓮の身体がわずかに震える。その声を、夢の中で何度聞いただろう。彼はゆっくりと振り返った。
白銀清司が少し離れた場所に立っていた。仕立てのいいスーツを着て、姿勢はまっすぐで、表情は冷淡だった。瞳の中には、かつて蓮に向けられていた温もりが一欠片もない。
彼は本当に戻ってきた。
生きて、目の前に立っている。
「清司……」
蓮はほとんど反射で、その名を呼んでいた。清司は眉をひそめる。自分とこの男は、そんなに親しいのか。現場の人間がいる前で呼び捨てにすることが、どんな面倒を呼ぶかも分からないのか。
「お前、名前は?」
清司は冷たく見下ろした。
「俺たちは、知り合いか?」
蓮の胸に、重い針が刺さったような痛みが走った。それでも彼は首を振り、無理に笑う。
「……いえ。知り合いではありません」
よかった。
彼は戻ってきた。
覚えていなくても、戻ってきた。
清司は蓮の視線に、妙な苛立ちを覚えた。この男は、まるで自分にひどく傷つけられたことがあるような顔で、同時に失くしたものを取り戻したような目で見てくる。そんなふうに見られるのは不快だった。
「話があるなら普通に話せ」
「被害者みたいな顔をするな」
「それに、お前はどこの組の人間だ? そんな状態なら、弁当をもらって帰ったほうがいい」
蓮は固まった。
弁当をもらって帰れ。
清司が自分に、そんなことを言う日が来るとは思わなかった。伊織は一瞬で怒りを爆発させる。
「白銀社長、蓮さんはあなたが直々に呼んで戻した俳優です」
「何もしていないのに帰れというのは、さすがにおかしいでしょう」
数日前まで蓮を庇っていた男が、今はまるで別人になっている。清司は伊織を見たが、その目もまた見知らぬものを見る冷たさだった。
「蓮さん?」
「あれが佐伯蓮か」
彼は改めて蓮を見回し、声をさらに冷やした。
「高慢だが芝居はできると聞いていた」
「今のあれのどこが、プロジェクトに価値を生む俳優に見える?」
言葉の一つひとつが針のように胸へ刺さる。蓮は奥歯を噛み締めた。
「分かりました」
「弁当をもらって帰ります」
伊織が慌てて彼を引き止めた。
「蓮さん!」
蓮は振り返り、浅く笑った。
もういい。
これ以上言っても意味がない。
清司は、もう蓮だけを守ってくれた清司ではない。孟婆湯を飲んだ彼は、とうに蓮を忘れている。
清司は蓮が背を向けるのを見て、胸の奥に細い痛みを覚えた。ごく小さな痛みなのに、無視できない。
なぜだ。
自分はこの男を知らないはずなのに。
「やめろ」
清司が冷たく言った。
「今回は警告だけにしておく」
「次は、こんなに甘く済ませない」
そう言って彼は去った。蓮はその背中を見送る。胸の中は空っぽだった。
戻ってきただけでいい。
これはきっと、自分への罰だ。目の前にいる人を大切にしなかった、自分への罰なのだ。
伊織は怒りが収まらない。
「蓮さん、あの人、あまりにもひどいです」
「大丈夫」
蓮は首を振った。
「叱られただけだよ」
「僕と白銀社長は、もともとそんなに親しい関係じゃない」
伊織はそれ以上聞けなかった。もしかすると、これが出資者と俳優の距離なのかもしれない。社長を友人だと思う者が、最後には損をする。
午後の撮影が始まった。蓮と天羽莉央の対手シーンだった。莉央が演じる小さな主人がヴェドへ飛び込み、蓮は照明が切り替わる瞬間に彼女を受け止め、壊れた機械の心臓を見る。難しい場面ではないはずだった。
けれど蓮には色が見えない。道具班は危険区域に赤、黄、青の印を貼っていたが、蓮には判別できず、濃淡で推測するしかなかった。照明が切り替わると、白黒の世界はさらに乱れる。
彼は二度、立ち位置を間違えた。三度目には、危うく莉央の手にぶつかりかけた。
「カット!」
遠藤の怒声が飛ぶ。
「佐伯君、いったいどういうつもりだ?」
「調子が悪いにしても、これはひどすぎる」
「わざと現場を壊すつもりか?」
蓮が最初に見たのは莉央だった。
「莉央ちゃん、痛くなかった?」
莉央は首を振り、むしろ真剣に蓮を慰めた。
「蓮お兄ちゃん、最近すごく疲れているんでしょ」
「大丈夫。莉央、分かるよ」
喉が詰まった。子どもにまで気遣われている。自分に、諦める資格などあるのだろうか。
伊織がそっと寄ってきた。
「蓮さん、やっぱり無理してます」
「駄目そうなら、一度休みましょう」
「大丈夫」
蓮は首を振った。色が見えないとは言えない。言えば、現場は彼の身体条件がこの役に向かないと判断するだろう。
その時、清司の声が横から降ってきた。
「駄目なら、役者を替えればいい」
蓮が顔を上げると、清司の隣に水瀬琴音がいた。黒いキャミソールワンピースは短すぎるほど短く、数歩離れていても強い香水の匂いが分かる。彼女は清司の腕を取り、まるで自分が彼の隣に立つ女だと周囲へ見せつけていた。
二人が並ぶ姿を見て、蓮の胸は裂けるように痛んだ。
けれど、これは彼自身が選んだ結果だ。自分の手で清司に孟婆湯を飲ませた。その報いは、自分で受け止めるしかない。
「役者を替える?」
遠藤が戸惑う。
「白銀社長、今すぐ代わりを見つけるのは難しいです」
清司は蓮を見た。声は冷たい。
「俺が金を出すのは、価値のある作品を作るためだ」
「今の彼に、その価値があると思うのか」
蓮は背を向けた。清司を責めたくなかった。清司は忘れているだけだ。ただ、忘れているだけなのだ。
「遠藤監督」
「白銀社長がそうおっしゃるなら、替えてください」
「この役は、そこまで難しい役ではありません」
そこへ天羽玲子が歩み寄った。彼女は蓮を見てから、清司へ視線を向ける。
「白銀社長。佐伯君は、あなたがかなり手を尽くして招いた役者だったはずです」
「それを今、不要だと言い切るのですね」
「今後、あなたが他の俳優に声をかけても、その人たちは一言で切り捨てられるかもしれないと不安になるでしょうね」
穏やかな口調だったが、的確に核心を突いていた。蓮を庇いながら、清司にも出資者として軽率な否定をするべきではないと警告している。
莉央は玲子の手を握り、小さな声で言った。
「ママ、帰りたい」
「いいわ。帰りましょう」
清司は蓮と遠藤を見比べた。
「なら、あと数日は置いておけ」
琴音は納得できなかった。
「白銀社長、こんなにひどい演技でも残れるなら、誰でも居座れてしまいます」
「佐伯さんは、もう芸能界に向いていないのかもしれません」
伊織の拳が白くなるほど握り込まれた。自分はどれほど見る目がなかったのだろう。この女を本気で好きだった過去が、今では恥ずかしい。
「水瀬」
伊織は歯を食いしばった。
「蓮さんが昔、どれだけお前を助けたか、本当に忘れたのか」
「恩知らずにもほどがある」
琴音はすぐに清司の背へ隠れ、目に涙を浮かべた。
「白銀社長、見ましたか」
「私、あんなことを言われています」




