忘却の朝、戻るべき場所
「蓮、腹は減っていないか? 何か食べるか?」
飛鳥が扉を開けて入ってきた。蓮は身体を起こそうとしたが、四肢にまるで力が入らなかった。長く眠りすぎたせいで、骨まで言うことを聞かないようだった。
飛鳥は彼の戸惑いに気づき、盆を枕元へ置いた。
「三日、眠っていた」
「その間、俺が妖力でお前の身体を支えていた」
「目覚めてすぐ力が入らないのは、当たり前だ」
三日。蓮はしばらく言葉を失った。そんなにも眠っていたのかと思うと、胸が重くなる。飛鳥には病院の仕事も、自分の生活もある。自分はもう、彼に十分すぎるほど借りを作っていた。
「飛鳥」
蓮は身体を支えながら、何とか起き上がろうとした。
「この間、本当にありがとう」
「でも、君には病院の仕事がある。僕がいつまでも邪魔をするわけにはいかない」
飛鳥は首を振った。
「邪魔じゃない」
「俺がそうしたくてやっている」
その言葉が柔らかいほど、蓮の胸は余計に痛んだ。
「ありがとう」
蒼白い顔で蓮が笑うと、飛鳥はそっとベッドのそばへ寄り、彼を軽く抱き寄せた。その抱擁に押しつけがましさはなかった。愛する人が苦しんでいるのに何もできない者が、最後に差し出せる慰めだけがそこにあった。
「蓮」
飛鳥は彼の耳元で、低い声で告げた。
「これから何があっても、必ず強くいてくれ」
蓮は頷いた。強くならなければならない。清司は生きている。たとえ清司が、もう蓮を覚えていなくても。
少し食事を取ったあと、蓮は伊織に電話をかけた。三浦伊織はこの数日、ずっと蓮からの連絡を待っていたらしい。通話がつながった瞬間、抑え込んでいた声が飛び出してきた。
「蓮さん? 戻ってくるんですか?」
その声には、何日も堪えていた期待が隠しきれないほど滲んでいた。
「うん」
蓮は窓の外の、白黒に沈んだ光を見つめた。
「簡単でいいから、準備しておいて」
「劇組に戻って、みんなに謝りたい」
彼は自分の感情で現場を離れ、今度は自分の都合で戻ろうとしている。遠藤監督が受け入れるか、スタッフがわがままだと思うか、蓮には分からなかった。それでも、戻らなければならなかった。
清司は、蓮に演技を諦めてほしくないと願っていた。清司が戻ってきたのなら、その命を自分の逃げ道にしてはいけない。
電話の向こうで、伊織が一瞬黙った。次の声は少し鼻にかかっていた。
「蓮さん、俺、みんなに言ってました」
「みんな、あなたを待ってます」
「俺たちは誰も、あなたを諦めてません」
「だから、蓮さんも自分を諦めないでください」
蓮はスマホを握り締めた。
「ごめん」
その謝罪は小さく、けれどとても重かった。伊織は強く鼻をすすった。
「そういうのはいいです」
「早く戻ってきてください」
「俺たちには、蓮さんが必要なんです」
電話を切ると、飛鳥はいくつかの薬剤を紙袋へ入れた。
「俺が送る」
「この薬は説明どおりに飲め。身体の回復に役立つ」
「辨色の力のことは……今は言いたくないなら、言わなくていい」
蓮はその薬剤を見下ろした。色が見えない今、瓶に貼られたシールの質感や位置でしか判別できない。これからの生活は、きっと面倒になる。
それでも、この道は自分で選んだ。
「ありがとう」
飛鳥は車で蓮を『浮遊面』の撮影現場まで送った。車が止まると、伊織が真っ先に駆け寄り、蓮を強く抱き締めた。
「蓮さん、やっと戻ってきてくれた」
その腕は痛いほど強かった。蓮は彼の背中を軽く叩く。
「今度は、もう逃げない」
森田萌奈もそばに立っていた。目は赤く、けれど一生懸命笑っている。
「蓮さん、お帰りなさい」
「私、本当は辞めようと思っていました」
「でも三浦さんから、蓮さんが戻るって聞いて……ずっと待っていました」
蓮は彼女を見た。世界から色は消えても、彼女の真心だけは分かった。目頭が熱くなり、彼は一歩下がって、現場にいる全員へ深く頭を下げた。
「皆さん、申し訳ありませんでした」
「この数日、私情を仕事に持ち込んで、現場にご迷惑をおかけしました」
天羽玲子が奥から出てきた。穏やかな笑みを浮かべている。
「いいのよ」
「戻ったなら、きちんとやりなさい」
「若い人は、たまに一番苦しいことばかり考えすぎるの。あなたの周りにはこんなに人がいる。ひとりじゃないわ」
「ありがとうございます、天羽さん」
玲子は彼の肩を軽く叩いた。
「誰にだって壁はあるわ」
「私にもあった」
「抜け出せたなら、それでいいの」
その笑みには、少しだけ苦味が混じっていた。蓮は知っている。彼女は一番輝いていた時期に結婚と出産を選び、復帰後には役が減り、若い女優に取って代わられる時期も経験していた。だからその言葉は、軽い慰めではなかった。
少し離れたところで、遠藤輝彦が不機嫌そうに立っていた。
「佐伯君」
「君の役は残してある」
「幸い、離れていた期間は長くない」
「今後はこんなわがままをするな。自分の立場を忘れないように」
天羽玲子が振り返って睨むと、遠藤は咳払いをして口をつぐんだ。現場の多くは、蓮の復帰を喜んでいた。撮影は続けられる。遠藤も口は悪かったが、内心では明らかに安堵している。
ただ、出資者は変わらず白銀社長だと聞いた瞬間、蓮の眼差しはわずかに沈んだ。
清司は今どうしているだろう。
新しい身体に慣れているだろうか。
どこか不調はないだろうか。
飛鳥は薬の袋を蓮に渡した。
「考えすぎるな」
「薬の飲み方は全部書いておいた」
彼は蓮の髪に触れようとして、途中で手を止めた。これから先は長い。彼はまだ、この危うい子を守らなければならない。蓮は素直すぎて、痛みを全部自分のせいにしすぎる。もしまた誰かに騙されたら、どうするのだろう。
「飛鳥、この間、本当にありがとう」
蓮が真剣に言うと、飛鳥は笑った。
「そういう言い方はよせ」
「他人行儀に聞こえる」
「お前が元気でいれば、それで俺は満足だ」
「病院があるから、そろそろ行く」
蓮は飛鳥の車が見えなくなるまで見送った。飛鳥は気づいていたが、振り返らなかった。振り返ったら、きっと離れがたくなる。毎朝目を覚ました時、隣に蓮がいる未来を、どれほど願っても、その夢は彼のものではない。
伊織が蓮の横へ来て、声を潜めた。
「蓮さん、ちょっと変な話をしていいですか」
「何?」
蓮はまた業界で何か起きたのかと思った。伊織は頭をかきながら言う。
「白銀社長、戻ってからすごく変なんです」
「前より冷たいし、人を寄せつけない感じで」
「俺が話しかけたら、誰だって聞かれました」
「蓮さん、人って、ほんの短い時間で誰かを忘れられるものなんですかね」
忘れる。
蓮は目を伏せた。
できる。清司は孟婆湯を飲んだ。妖ですら抗えないものだ。もし自分がそれを飲んでいたら、きっとすべてを忘れていただろう。
「忘れると決めた人なら、一分あれば足りる」
蓮は笑った。
「でも、忘れたくない人なら、一生忘れない」
伊織は分かったような、分からないような顔をした。けれど蓮にはもう分かっていた。
清司は、本当に彼らをすべて忘れてしまったのだ。




