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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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色を失っても、君を取り戻す

夜刀姫は蓮を一瞥し、それから彼のそばに立つ鷹宮飛鳥へ視線を移した。鬼窟の奥から吹きつける冥府の風は、湿った死の匂いを含んでいる。蓮は肉霊芝を抱えたまま立っていたが、彼の目に映る世界はすでに色を失っていた。夜刀姫の紅い衣も、飛鳥の瞳も、遠くに沈む冥府の宮殿の幽光も、すべて濃淡の違う灰色にしか見えない。


 それでも、後悔はなかった。清司が戻ってくるなら、自分が少し色を失うことくらい、どうということはない。夜刀姫はそんな蓮を見て、喉の奥で小さく笑った。


「佐伯蓮。妾は、大鵬も悪くないと思うがな」


 彼女の視線は飛鳥に落ちた。冗談めいた口調なのに、その言葉はわざと人の心臓を刺しにくる。


「その男も、なかなか情が深い。そちらを恋人にする気は、本当にないのか?」


 飛鳥は睫毛を伏せたまま、何も言わなかった。蓮は夜刀姫を見上げ、迷いのない声で答えた。


「ありがとうございます、冥王」


「でも、僕はやっぱり清司を待ちたいんです」


「人の海のどこかで、もう一度あいつに会えるかもしれませんから」


 夜刀姫は笑うだけで、何も返さなかった。飛鳥の瞳の奥では、光がわずかに沈む。彼は最初から分かっていた。白銀清司が蓮を忘れても、蓮を傷つけても、蓮の心の中にあるその場所は、飛鳥が代わって座れるものではなかった。


 夜刀姫は気だるげに片手を上げた。


「さあ。二人とも、もうぐずぐずするな」


「妾が最後にもう一度だけ手を貸してやる」


「佐伯蓮。これは妾への借りだ。いつか、必ず返せ」


 蓮は肉霊芝を抱き締め、真剣に頷いた。


「必ず返します」


 夜刀姫が袖を一振りすると、眠ったままの清司の残魂がその袖の中へ吸い込まれた。彼女は竹筏へ踏み出し、飛鳥は蓮を支えてその後ろに座らせる。竹筏は黒い水を裂くように進んだ。


 生魂を食らおうとしていた悪鬼たちは、水面の下に伏したまま頭を上げようともしない。夜刀姫は冥府の主であり、ただ視線を落とすだけで万鬼を黙らせる威圧を持っている。蓮はもう、それほど怖いとは思わなかった。


 ここ数日の間に、亡魂、悪鬼、黄泉兵とあまりにも多くのものを見すぎたせいかもしれない。あるいは、清司を失うことに比べれば、この世にそれ以上恐ろしいものなどないと、心のどこかで知ってしまったせいかもしれなかった。


 やがて彼らは黄泉の入口へ戻った。孟婆は、夜刀姫が二つの生魂を連れて現れたのを見て、明らかに顔色を変え、その場に跪く。


「黄泉御前に拝謁いたします」


 周囲の黄泉兵も次々と膝をついた。夜刀姫は竹筏の上で片膝に肘をつき、柔らかく笑っている。けれどその圧は、四方から空気そのものを押し潰すようだった。


「孟婆。お前の忘れ宿は、これからもっとよく見張っておけ」


「生魂を気軽に冥府まで通すな」


「妾は、毎回ここまで機嫌がいいわけではないぞ」


 孟婆は頭を低く垂れたまま、反論しなかった。蓮は申し訳なさそうに彼女を見る。今回の件で、確かに彼は多くの者に迷惑をかけていた。


 夜刀姫が道を開いたおかげで、現世へ戻るのは来た時よりずっと早かった。飛鳥の魂が肉体へ戻り、蓮も自分の身体へ戻る。その瞬間、氷水を全身に流し込まれたような重さが四肢に広がり、蓮はしばらく動けなかった。


 最初に駆け寄ってきたのは朔だった。


「清司は?」


 けれど夜刀姫を見た瞬間、朔の足が止まった。この女の身には、普通の妖でも黄泉兵でもない、死の秩序を司る者だけが持つ果てしない死気がある。


 飛鳥が低く説明した。


「黄泉御前だ」


 朔の目が微かに変わった。夜刀姫は清司のことにはすぐ触れず、ゆっくりと室内を見回し、それから朔に視線を据える。


 彼女が冥府を離れるのは久しぶりだった。現世はすっかり見知らぬ世界になっている。照明、家具、家電、窓の外に並ぶ高層ビル。そのすべてが彼女の記憶にある世とは違っていた。けれどその異物の中に、彼女にとってひどく不快な気配が混じっている。


 魔。


 濃すぎる魔の気配。


 夜刀姫は一歩ずつ朔に近づいた。朔は本能的に半歩下がり、警戒を隠せない。


「黄泉御前、これは……」


 夜刀姫は彼の肩に手を置き、唇の笑みを深くした。


「まさか、この兎の中に魔が封じられているとはな」


「しかも、もう目を覚ましている」


 朔の顔色が変わるより早く、夜刀姫の指先が彼の眉間に触れた。黒金の冥府の呪紋が蜘蛛の巣のように広がり、一瞬で朔の体内へ沈む。朔は低く呻き、身体を揺らした。


 次に顔を上げた時、彼の目から赤は消え、そこには茫然とした弱さだけが残っていた。


「蓮、これは……どういうこと?」


 蓮にも答えようがなかった。夜刀姫は手を戻し、億劫そうに告げる。


「妾が今、仮の封印を重ねただけだ」


「長くはもたない」


「お前の中のものは、お前が思っているより早く起きている。よく考えろ。誰かを傷つけてから後悔しても遅い」


 朔の顔は白くなった。数千年前、隠り世と魔界の戦で、その魔は彼の内に封じられた。長く静かだった封印は、清司が彼に精気を渡したことで目を覚まし始めたのだ。


 彼が真っ先に思い浮かべたのは律だった。もしあの魔が自分の意識を奪い、律を傷つけたら。朔は弾かれたように振り向く。


「律は?」


 蓮は首を振った。彼自身も戻ったばかりで、早乙女律がどこにいるかなど分からない。朔はそれ以上尋ねず、すぐに外へ飛び出した。律だけは傷つけたくなかった。


 飛鳥は朔の背を見送りながら声を落とした。


「中の魔が早乙女を傷つけるのを恐れているんだろうな」


 蓮は頷いた。その恐怖は分かる。もし自分の体の中に、清司を傷つける何かがいたなら、きっと自分も正気ではいられない。


 その間に、夜刀姫は客間の中央へ黒い結界を張っていた。外界から完全に切り離された空間で、彼女は目を閉じ、掌に肉霊芝を浮かべる。その霊芝はゆっくりと溶け、血肉となり、骨となり、経絡となり、やがて人の形を取り始めた。


 蓮は結界の外に立ち、息をするのも忘れていた。


 清司だった。


 輪郭が少しずつ定まり、長い髪が流れ落ち、見慣れた五官が戻ってくる。冥府に留められていた残魂を夜刀姫が袖から摘み出し、新たに生まれた身体の中へ押し込んだ。魂と肉体が結びついた瞬間、部屋全体がかすかに震える。


 蓮の瞳に、ようやく幸福の色が浮かんだ。


 清司が戻ってくる。


 本当に戻ってくる。


 けれど次の瞬間、夜刀姫が手を払った。蓮の視界は暗くなり、身体が力を失って崩れ落ちる。飛鳥が慌てて彼を受け止めた。


「黄泉御前、何をするつもりですか」


 夜刀姫は結界から出ると、蓮の蒼白い頬を指先でなぞった。その顔は、ずっと昔の一人を思い出させる。


 羽。


 屍の山と血の海から自分を救い出し、そして情け容赦なく拒み、裏切った男。


「昔と変わらない顔をしている」


 夜刀姫は低く笑った。


「妾は確かに彼を成全してやった。だが、佐伯蓮を許すと言った覚えはない」


 飛鳥の眉が寄る。


「どういう意味です」


 夜刀姫の表情が少しずつ歪んだ。


「あれはかつて妾のものだった」


「だが、裏切った」


「転生してなお、別の者を愛すとはな。それも、あれほど死に物狂いに」


 飛鳥は反射的に蓮を背に庇った。その動きを見て、夜刀姫の笑みはいっそう冷たくなる。


「安心しろ。妾が本当に潰すつもりなら、あの顔を見た時点で彼は消えていた」


「ただ、もっと面白い罰を思いついただけだ」


 飛鳥の胸に重いものが落ちた。彼は理解してしまった。夜刀姫はただ蓮を助けたのではない。清司を復活させ、清司に蓮を忘れさせ、蓮自身に、自分が救い戻した相手から傷つけられる苦しみを味わわせるつもりなのだ。


 この人間は夜刀姫を恩人だと思っている。けれど彼女は最初から、蓮を新しい苦痛へ突き落とすつもりだった。


 夜刀姫が去ったあと、清司は静かにベッドで眠っていた。飛鳥は清司を隣室へ移し、それから蓮を別のベッドに寝かせる。蒼白い顔を見下ろしていると、胸が痛んで言葉にならなかった。


 蓮が望んだのは、ただささやかな幸福だった。


 どうして、それすらこんなにも難しいのだろう。


 翌朝、陽光が蓮の顔に落ちた。睫毛が震え、彼はゆっくりと目を開ける。世界は相変わらず白と黒だけだった。


 蓮は苦い笑みを浮かべた。


 清司は、もう目を覚ましただろうか。


 それならいい。


 少し色を失っただけで清司の命を取り戻せたのなら、十分すぎる。


 それは、価値のある代償だった。


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