彼の瞳になる約束
遠くに清司の姿が見えた時、蓮は足を止めた。
清司は冥府宮殿の前に立っていた。けれど蓮にはもう、彼の色が分からなかった。あの髪が白なのか、別の色なのか。衣の暗い紋がどんな光を帯びているのか。何一つ分からない。
見えるのは輪郭だけだった。
見慣れた、心臓が痛むほど懐かしい顔だけだった。
夜刀姫は彼のそばに立っている。蓮は低く言った。
「夜刀姫」
「僕が辨色の力を失ったこと、彼らには言わないでください」
夜刀姫は彼を見た。
「どうして?」
「清司を悲しませたくないからです」
「飛鳥にも、自分を責めてほしくない」
夜刀姫はくすりと笑った。
「こんな時まで、他人のことばかり考えるのね」
そうしているうちに、清司と飛鳥が二人を見つけた。清司はほとんど反射的に走ってきた。
彼は蓮を強く抱きしめる。
「蓮!」
その声には、失ったものを再び得た震えが混じっていた。
蓮は息が詰まるほど抱きしめられたが、抵抗しなかった。顔を清司の胸に埋める。この瞬間、ようやく確信できた。
清司はまだいる。
「僕は大丈夫」
蓮は低く言った。
「あなたが見えるなら、それで大丈夫です」
清司は怒りで目を赤くした。
「どうしてそんなに馬鹿なんだ」
「一人で冥府に来るなんて、正気か」
彼がどれほど怖かったか。もう一度蓮を失うかもしれない恐怖を、どれほど味わったか。
飛鳥はそばに立ち、指を強く握りしめた。夜刀姫は三人の関係を見て取り、飛鳥のそばへ歩き、肩を軽く叩いた。
「愛しているなら、もう少し積極的になればいいのに」
「自分から動かないものは、本当に手に入らないわよ」
飛鳥は苦笑した。彼にできる唯一のことは、蓮の幸せを見守ることだ。今の形で、よかったのではないか。
「冥王に感謝します」
彼は頭を下げた。
蓮は固まった。
冥王。
夜刀姫はそこでようやく面を外した。面の下の顔は、妖しいほど美しかった。
清司と飛鳥が同時に跪く。
「黄泉御前」
蓮はようやく知った。ここまで一緒に来て、自分を救い、肉霊芝を取らせてくれた夜刀姫こそ、冥府の主だったのだ。
夜刀姫は飛鳥を淡く見下ろした。
「鷹宮飛鳥」
「なかなか度胸がある」
「生魂を連れて冥府へ入るとは」
蓮はすぐ前に出た。
「僕のせいです」
「僕が彼に頼みました」
夜刀姫は蓮を見て、急に笑った。
「本王は、あなたほど情の深い人間を見たことがない」
「惜しいことに、あなたが選んだのは本王が最も気に入っていた上座役なのだけれど」
清司は蓮を強く抱いた。
「彼はあなたのものではない」
声にははっきりと敵意があった。夜刀姫は怒らなかった。ただ蓮を見る。
「彼を蘇らせたいのでしょう」
「本王は、あなたたちを成就させてもいい」
彼女はそこで言葉を切り、邪気のある笑みを浮かべた。蓮はその笑みを見ただけで、彼女が何かを仕掛けるつもりだと分かった。
それでも受け入れるつもりだった。清司が生きていてくれればいい。そうすれば、自分の胸にある罪悪感も少しは薄れる。
夜刀姫が手を上げた。黒いのに澄んだ一碗の湯が、蓮の前に現れる。
「これは孟婆湯」
「忘却の湯とも言う」
「飲めば、清司はあなたを完全に忘れる」
蓮は震える指でその碗を受け取った。
忘れるのか。
つまり今度こそ、清司は本当に自分を忘れるのだ。
蓮は清司を見た。目には涙が浮かんでいる。
「清司」
「飲んでください」
「これを飲めば、あなたは復活できます」
「そして、僕のことも完全に忘れられます」
「そうすれば、もう恋の苦しみに縛られません」
清司は孟婆湯を見つめ、目に強い拒絶を浮かべた。
彼らには、あれほど美しい記憶があった。どうしてそれを泡のように消せるのか。どうして冥王は、ここまで二人を苦しめるのか。
「蓮」
清司の声は震えた。
「俺はお前を忘れたくない」
「蘇らなくてもいい」
「お前と一緒にここにいる」
「分かるか」
彼は蓮の手を握った。
「お前がいるから、俺の毎日に色がある」
蓮の胸は鋭く刺されたように痛んだ。けれど、ここで心を緩めるわけにはいかない。
「だめです」
蓮は湯を清司の前へ差し出した。
「朔が待っています」
「隠り世にもあなたが必要です」
「あなたは帰らなければいけない」
「これを飲めば、僕を忘れられます」
「痛みもなくなる」
清司は一歩ずつ後ずさった。そしてその碗を払いのける。
「飲まない」
「お前を忘れたら、もう戻れない」
「それなら蘇らないほうがいい」
「朔も、隠り世もいらない」
蓮は奥歯を噛みしめた。
「清司」
「僕は、あなたに生きていてほしい」
彼は飛鳥を見た。
「飛鳥、彼を押さえてください」
飛鳥は蓮と清司を見比べた。清司が忘れることは、たしかに一つの救いかもしれない。蓮にとっても、自分にとっても。
だが実際に動く時、胸はやはり痛んだ。
飛鳥は清司の腕をつかみ、その動きを封じた。清司は抜け出せない。
蓮は自分で孟婆湯を一口含んだ。そして清司の顔を両手で包み、口づけた。
苦い湯が唇と歯の間を伝い、清司の口の中へ流れ込む。清司は抗おうとした。飛鳥が彼のツボを封じる。清司は、その一口を飲み込まざるを得なかった。
蓮の目尻から涙が滑り落ちた。その雫は清司の唇に落ち、冥府の奥を吹く風のように苦かった。
清司は目を閉じた。両目から涙が流れる。
なぜ蓮は、自分に忘れさせようとするのか。
忘却こそ、いちばん苦しいことなのに。
意識が少しずつ沈んでいく。
夜刀姫は手を叩いた。
「よくやったわ」
「本当に彼を生かしたいのね」
「彼は本来、本王が最も見込んでいた上座役だった」
「今は連れていっていい」
蓮は夜刀姫がわざとそうしたのだと分かっていた。二人の感情がどこまで深いのか、見たかったのだろう。
それでも蓮は信じていた。清司が自分を忘れても、きっと人の海の中でまた自分を見つけてくれる。
蓮は清司の髪をそっと撫でた。
「清司」
「あなたはきっと長く生きてください」
「きっと……」
飛鳥が蓮の腕を支え、自分の胸へ抱き寄せた。
「もういい」
「この後、君はどうするつもり?」
夜刀姫は袖から肉霊芝を取り出し、飛鳥へ渡した。
「彼は辨色の力を失った」
「これからの生活はきっと難しくなる」
「これは肉霊芝」
「彼が自分の辨色の力と引き換えに得たものよ」
飛鳥は肉霊芝を見て、それから蓮を見た。胸が痛すぎて言葉にならない。
なんて愚かな子だろう。
どうしてここまで愚かでいられるのか。
これほど馬鹿な人を、飛鳥は見たことがなかった。
飛鳥は手を伸ばし、蓮の目元をそっと撫でた。蓮はまだ彼を見ている。だが、もう飛鳥の色は見えていない。
蓮にとって世界は、この瞬間から黒と白と灰だけになった。
飛鳥の声は掠れていた。
「色が見えなくても大丈夫」
「これからは、僕が君の目になる」
けれど蓮の瞳には清司だけが映っていた。
飛鳥はそこにいなかった。
それでもいい。
蓮は生きている。
それだけで十分だった。




