山葉さん、翌朝の様子
窓の外からさす光で、意識が浮上した。
重たい瞼を開けると、古い和室の障子が、暴力的なまでの夏の朝日に白く透けている。
昨夜、この宿を打ち据えていた暴風雨の轟音はすっかり消え失せていた。台風は夜のうちに通り過ぎ、あるいは消滅して、嘘みたいな快晴を連れてきたらしい。
身体を少し動かそうとして、右腕が重いことに気づく。
視線を落とすと、そこには、白いシーツにくるまった山葉さんが、俺の腕を抱き枕のようにして静かな寝息を立てていた。
シーツの隙間から、無防備な首筋と、滑らかな肩のラインが露わになっている。アッシュの髪が乱れて白い肌にかかり、昨夜の石鹸の匂いと、果物のような残り香が、鼻先をかすめた。あとシンプルに寝顔がちょっとびっくりするくらい整っている。
艶めかしくて、でも、ふわりと嬉しさが湧き上がってくる幸福な光景だった。
俺は少しだけ照れくさくなって、彼女の額にかかった前髪にそっと指先で触れた。
サラリとした髪の感触。起きる気配はない。
起こしてしまうのがもったいなくて、俺は起き上がるのをやめ、とりあえずもう一度目を閉じて、この甘い状況をどうやって終わらせるべきか考えることにした。
数分後。
隣で、シーツの擦れる微かな音がした。
山葉さんの規則的だった寝息のリズムが変わり、んう、と小さな寝言のような声が漏れる。あ、多分これ目が覚めたんだな、とわかる。
俺は反射的に、深く寝息を立てているフリをした。今目を開けてバッチリ目が合ったら、お互いどういう顔をしていいかわからず、猛烈に気まずい気がしたからだ。
目を閉じたまま、全神経を隣の気配に集中させる。
彼女がモゾモゾと身じろぎする気配。俺の顔を覗き込んでいるのか、しばらくの間、じっと見つめられているような視線を感じる。
――次の瞬間。
シーツの擦れる音とともに、柔らかくてスベスベした質量が、俺の脇腹にすり寄ってきた。
「……ん」
微かな甘い声とともに、山葉さんの腕が俺の胸元に回され、きゅっと抱き着いてくる。素肌と素肌がシーツの下で触れ合い、彼女の高い体温が直接伝わってきた。
俺は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪え、石のように固まった。
やばい。これは、なんというか、やばい。
さらに、彼女の顔が俺の首元に近づいてくるのがわかった。
温かい吐息が、耳の下あたりに吹きかかる。
そして、ちゅっ、と。
昨日何度も交わした、あの柔らかくて湿った感触が、俺の首筋にそっと押し当てられた。子猫がそうするように、顔をこすりつけてくる。
「んー」
小さくそう声を上げて、匂いを嗅いだり、なんかスリスリされる。
寝ているはずの俺に対する、誰にもバレないはずの、彼女としては秘密の接触。
俺が起きていたら、さすがにこんなことはしないと思う。
必死に寝たふりを貫こうとした俺だったが、あまりのむず痒さと恥ずかしさに、腹筋のあたりが限界を迎えた。
「……っ」
ぷるぷる、と。声こそ出さなかったものの、俺の身体が微かに痙攣するように震えてしまった。
ピタリ、と。
首筋に押し当てられていた唇が離れる。
抱き着いていた腕の力が、スッと抜けた。
恐る恐る、薄く目を開ける。
至近距離で、山葉さんがいつものタレ目をまんまるにして、俺を見下ろしていた。数秒の空白の後。
彼女の白い顔が、首の根元から耳の先まで、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていった。
「……起きてんの?」
絶望感を感じさせるような、低い声。
彼女はバッと俺から離れると、器用にシーツをグルグルと巻き付け、ミノムシのように自分の身体を隠した。ジトッとした目で非難するように見つめてくる。
「あ、いや……今起きたっていうか……」
「嘘だ……あ~~……もう………あー……」
シーツの端を口元まで引き上げ、真っ赤な顔で睨んでくる。
「すみません、でも、」
「殴ったら記憶なくなるかな……」
「やめてください」
「いいからもう。あっち向いてて。着替えるから」
飛んできた枕を顔面で受け止めて。俺は布団に残る二人分の体温の上に顔をうずめた。
※※
一時間後。
俺たちは宿の女将さんに礼を言い、古いSUVに乗り込んだ。
「お世話になりました。台風、何ともなくて良かったです」
「ええ、気をつけて帰ってね。お若い二人さん」
意味ありげに微笑む女将さんに、山葉さんはまた少しだけ顔を赤くして、そそくさと助手席に逃げ込んだ。
車を走らせ、国道に出る。
窓を全開にすると、台風一過の突き抜けるような青空の下、海風が車内に勢いよく流れ込んできた。昨夜の重苦しい湿気は完全に消え去り、夏の輪郭がくっきりと浮かび上がっている。
「あー、めっちゃ晴れたね」
山葉さんが、風に髪を揺らされながら助手席で大きく背伸びをした。
駅のロータリーで再会した時の疲労感も、先ほどの猛烈な照れも、夏の陽射しに溶けてしまったかのように、その横顔はすっきりと晴れやかだった。
「ですね。これなら湘南まであっという間ですよ」
カーステレオからは、夏を思わせる緩めな曲が流れている。
「これ誰だっけ」
「ああ、シンプル・プランですよ。カナダ人だったかな?」
「あー。なんかいいね。適度にエモいし、かつ緩くて」
帰りの道中は、行きのような静かな緊張感は欠片もなかった。
互いのちょっとした失敗を笑い合い、くだらない冗談を言い合う。シフトレバーを操作する俺の左手と、彼女がコンソールボックスの上に置いた右手が、時折ごく自然に触れ合う。
その度に、お互いに視線を合わせて小さく微笑む。あの暗闇の和室で重ねた吐息が、二人の間にあった曖昧な境界線を、また一つ溶かしてしまったのかもしれない。
湘南の海沿いまで戻ってきた頃には、時計は昼を少し回っていた。
「あ」
スマホを弄っていた山葉さんが、不意に気の抜けた声を上げた。
「どうしたんですか?」
「今日行くはずだった夏祭り、中止だって」
「えっ、マジですか? こんなに晴れてるのに?」
「台風は消滅したらしいんだけど、昨日の夜の時点で危ないからって中止決定して、もう会場の提灯とかばらしちゃったんだって。市のホームページに出てる」
山葉さんはスマホの画面をこちらに向けて、残念そうに肩を落とした。
俺は前方の青々とした海を見ながら、小さく息を吐いた。
「まじかー。せっかく晴れたのに、拍子抜けですね」
「結構マジで残念かも。あたしさー、そういうお祭りってちゃんと行ったことないんだよね。焼き鳥とか焼きそばとか食べたかった」
「食ってばっかりじゃないですか」
「いいでしょ別に」
「まあ残念は残念です。祭りは浴衣とか見られるのがいいんですけどね」
「……ふーん」
少しだけ唇を尖らせて窓の外を見る山葉さん。
だけど、数秒後。再度スマホをいじりだす。
「あ、打ち上げ花火はやるらしいよ」
彼女はくるりとこちらを向き、コンソールボックスに置かれていた俺の左手の上に、自分の手をそっと重ねてきた。
悪戯を思いついたような、あのタレ目を三日月の形に細めた、いつもより少し幼い表情。
「じゃあさ。今日の夜」
俺を見つめる瞳が、夏の陽射しを反射してキラキラと光っている。
「うちのベランダから花火見ない? 遠いし、ちょっと隠れるけど、見えるよ」
「いいですね」
俺は即答した後、あれ、そういえば山葉さんのほうの部屋に行くのは初めてだな、と言うことに気付いた。
「っていうかお腹すいたね」
「そういえばそうですね。帰ったらソーメン茹でて食いましょう」
「お。いいねぇ」
いつもの日常、少し変わった日常。車内に満ちる潮風の匂いが、まるでそれを祝福してくれているように思えた。
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