鈴木くんとおねえさん、なにする
案内されたのは、二階の突き当たりにある六畳の和室だった。
年季の入った畳の匂いと、床の間に飾られた古ぼけた掛け軸。窓の外では、いよいよ勢いを増した雨粒が、古いガラス戸に容赦なく叩きつけられている。
共同の浴場から先に戻っていた俺は、宿に備え付けの糊の効いた浴衣に袖を通し、座布団の上に胡座をかいていた。
木造の古い建物は、風が吹くたびにミシリと心細い音を立てる。だが、それ以上に俺を落ち着かせないのは、廊下の向こうから聞こえてくるパタパタというスリッパの足音だった。
襖が、静かに開く。
「お待たせー……って、うわ、外すごい音だね。風も」
バスタオルで髪の毛の水分を拭き取りながら、山葉さんが部屋に入ってきた。
俺は、無意識のうちに息を呑んでいた。
彼女もまた、宿の紺白の浴衣姿だった。
ただ、少しサイズが大きいのか、華奢な肩のラインに沿って生地がわずかに余り、胸元が普段のダル着の時よりも無防備に緩んでいる。アップにまとめきれず零れ落ちた濡れ髪が、透き通るような白いうなじに張り付き、そこから立ち上る石鹸の香りが、湯上がりの熱気とともに部屋の空気を満たした。
薄化粧すら完全に落としたすっぴんの顔は、お湯の熱でほんのりと桜色に上気している。
「……どうかした?」
タオルから顔を出した山葉さんが、俺の視線に気づいて小首を傾げた。
「あ、いや。……浴衣、似合ってますね」
慌てて視線を逸らし、誤魔化すようにそう口にする。
「そう? なんか糊がパリパリしてて、ちょっと動きにくいかも」
山葉さんは少しだけ照れくさそうに笑い、俺とローテーブルを挟んだ向かい側の座布団に、ちょこんと膝を揃えて座った。
浴衣の裾から覗く素足の白さが、古い畳の上でやけに眩しい。
密室に二人きり。それも、お互いに風呂上がりの浴衣姿。
いつもの俺の部屋とは勝手が違うシチュエーションに、妙な固さと緊張感が漂う。山葉さんも同じように感じているのか、少しだけ所在なさげに、濡れた髪の毛先を指で弄っていた。
「……えっと、台風のニュースでも見ますか。進路、どうなってるかわからないし」
沈黙を誤魔化すように、俺は部屋の隅にある小さな液晶テレビのリモコンに手を伸ばした。
「あ、うん。そうだね。明日帰れるかどうか――」
カッ。
山葉さんが頷いた瞬間、窓の外で強烈な光が閃いた。
一秒遅れて、地響きのような凄まじい雷鳴が建物を揺らす。
バチンッ、という無機質な音とともに、部屋の蛍光灯も、点けたばかりのテレビの画面も、すべてが唐突にブラックアウトした。
「えっ」
「うわっ!?」
完全な暗闇。窓の外の暴風雨の音だけが、一気に鼓膜に押し寄せてくる。
「停電……?」
暗闇の中で、山葉さんの少しだけ怯えたような声がした。
「みたいですね。大丈夫ですか、山葉さん」
「う、うん。びっくりしただけ」
俺がスマホのライトを点けようと手探りしていると、廊下からバタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「お客さん、大丈夫ですか!」
襖越しに女将さんの声がする。
「はい、大丈夫です!」
俺が答えると、スッと襖が開き、オレンジ色の温かい光が差し込んだ。
「ご迷惑をおかけします。この辺り一帯、落ちちゃったみたいで……。復旧まで、こんなものしかなくて申し訳ないんだけど」
女将さんはそう言って、乾電池式の古いランタンをテーブルの真ん中に置き、頭を下げて去っていった。
襖が閉まると、部屋は再び二人きりの空間に戻った。
ただし今度は、部屋の中央に置かれたランタンの、柔らかなオレンジ色の光だけが頼りだ。
外の暴風雨の轟音は相変わらず響いている。だが、薄暗い部屋の中でランタンの光に照らされた半径一メートルほどの空間だけが、まるで世界から切り離されたシェルターのように、異様なほどの静寂と温かさを保っていた。
向かい合って座っていた俺たちは、どちらからともなく、ランタンの光が届く距離まで……つまり、互いの肩が触れ合いそうな距離まで、自然と身体を寄せていた。敷いた布団のうえで、並んで座る。
「……なんか、すごい状況になっちゃったね」
山葉さんが、膝を抱え込むようにしてポツリとこぼした。彼女の大きな目が、小さなランタンの灯りを映し出している。
「そうですね。でも、俺は沖縄出身なんで、実はこういう台風にはけっこう慣れてるんですよ。実家でも、よくこうやってロウソクやランタン点けて、家族でやり過ごしてましたし」
俺が努めて明るく言うと、山葉さんは少しだけホッとしたように口角を緩めた。
「へえ、そっか。なんか頼もしいじゃん。沖縄ボーイ」
「ボーイって年じゃないですけどね。……でも、これ」
俺は、壁に揺れる二人の影を見つめながら、ぽつりと口にした。
「なんか、懐かしいです」
「懐かしい?」
「前に俺、言ったじゃないですか。部屋の押し入れを秘密基地にして、隠れてるのが好きだったって」
あの夜、波の音を聞きながら、何気なくした昔話。
「あー、言ってたね」
「今、まさにそんな感じだなと思って。外は嵐で、中はランタンだけの狭い空間で」
「そうだね」
山葉さんは小さく笑い、それから、ふっと息をついた。
「うん。たしかに、落ち着くかも」
そして、テーブルの上に投げ出されていた俺の手の横に、自分の手をそっと滑らせてきた。
小指と小指が、触れ合う。
風呂上がりの温かさと、微かな震え。
俺が息を呑むより早く、彼女の細い指が、俺の指の隙間へと滑り込み、ゆっくりと、だけど確かな力を込めて握り合わされた。
「あたしさ」
繋いだ手を見つめたまま、山葉さんが静かに口を開いた。
「駅で待ってた時。ほんとに、心細かった」
ポツリ、ポツリと落ちる言葉は、実家で無理をして張っていた糸が切れたような、どうしようもなく無防備なものだった。
「周りはみんなイライラしてるし、ホントなら帰れたはずなのに、って。今夜帰ってから隣の部屋に行けば、会えたはずなのに、って」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
「だから……鈴木くんが来てくれて、本当にうれしかった。泣いちゃいそうなくらい、嬉しかったよ」
ランタンの光に照らされたその瞳は、俺だけを映していた。薄暗くてはっきりと見えないけど、それでも、彼女はとても綺麗だった。
握りしめられた手から、彼女の帯びた微熱が伝わってくる。
「……俺の方こそ」
俺は、彼女の冷えかけた手を両手で包み込むようにして、言葉を返した。
「駅のロータリーで、山葉さんが待っていてくれて。振り返って顔が見られた時、びっくりするくらい嬉しかったですよ。ご褒美を使いきっちゃったのは、まあ……今考えると、ちょっとだけもったいなかった気もしますけど」
後半はあえてふざけて見せた俺の言葉を聞いて、山葉さん今度こそ泣き出しそうな、だけど底抜けに安心したような笑顔を見せた。
「……ここは、いつもの鈴木くんの部屋じゃない古い民宿だし、外は台風で、停電までしてるけど」
山葉さんは、繋いだ手を引き寄せるようにして、俺との距離をさらに縮めた。
微かな石鹸の匂いと、彼女自身の甘い体臭が混ざり合って、俺の理性をぐらぐらと揺さぶる。
「鈴木くんがいれば、どこだって⋯⋯あたしにとっての秘密基地だよ」
囁くようなその言葉が、完全に、俺のなかの何かを決壊させた。
視線が絡み合う。
あの熱帯夜のように、アルコールに酔って理性を少しだけ手放しているわけじゃない。
互いに完全に素面で。外の暴風雨が遠く感じてしまうような不思議な静寂のなかで、
確かな意思を持って、どちらからともなくーー、いや違う。俺から、顔を近づけた。そして、彼女はそれに応えてくれた。
ランタンのオレンジ色の光が、ゆっくりと目を閉じる彼女の長い睫毛の影を落とす。
重なった唇は、ひどく熱くて、柔らかかった。
ちゅっ、と微かな水音が鳴るたびに、浴衣越しに伝わる互いの体温がじわりと上昇していくのがわかる。
俺の手が、彼女の浴衣の帯にそっと触れる。
拒絶は、ない。むしろ、山葉さんは俺の首に腕を絡め、自らその熱の奥へと身を委ねてくるように、さらに深く唇を押し当ててきた。
「……鈴木くん……」
吐息に混じって漏れた甘い鼻声が、俺の背筋に痺れるような電流を走らせる。
古い畳の上に、彼女のしなやかな身体をそっと押し倒す。
はだけた浴衣の襟元から覗く、ランタンの光を弾くような白い肌。艶やかに浮き出た鎖骨。その滑らかな肩口に顔を埋めて吸い付くと、彼女は小さく背中を反らし、俺の髪に指先を深く絡めて強く梳いた。
外の世界では荒れ狂う台風が、この部屋の壁を打ち据えている。
だが、このオレンジ色の光の中だけは、ただ二人の吐息と、衣擦れの音、そして肌が擦れ合う熱だけがすべてだった。
互いの体温と存在を、ただ切実に確かめ合うための、本当の意味での秘密基地。
俺たちは、吹き荒れる嵐のノイズに守られるようにして、朝まで静かに、深く、その熱を重ね合い続けた。
……我ながら、えっち星人が過ぎた行為をいろいろやってしまった。でも山葉さんもわりとえっち星人だと思う。




