おねえさん、このあと滅茶苦茶ーー?
人混みの中でどれくらいそうしていただろうか。
やがて山葉さんは、小さく鼻をすする音を立てて、ゆっくりと俺の胸から身体を離した。
「……なんか、ごめん。ちょっと疲れてたのかも」
少しだけ赤くなった目元を指先で乱暴に拭い、彼女はいつもの気怠げな、だけどどこか照れ隠しを含んだような笑みを浮かべた。
「いえ。俺の方こそ、汗臭かったらすみません」
「んーん。別に汗臭くはないけど。……鈴木くんの匂いはした」
「……どんな匂いですか」
「鈴木くんの匂いだよ」
意味のわからないやりとりをしつつ、俺は彼女の足元にあった大きなキャリーケースを持ち上げた。見た目に反してずっしりと重い。
「車、あっちです」
「……ん」
行き交う人々の波を抜け、ハザードランプを点滅させているくすんだグリーンのSUVへと向かう。トランクに荷物を積み込み、助手席のドアを開けると、山葉さんは「お邪魔しまーす」と気の抜けた声を上げてシートに滑り込んだ。
俺も運転席に乗り込み、ドアを閉める。
分厚いドアが閉まった瞬間、駅前の喧騒が嘘のように遠のき、車内はエアコンの微かな作動音と、カーステレオから流れる静かなジャズの音色だけに満たされた。
シフトレバーを動かし、ゆっくりと車を発進させる。
静岡の市街地を抜け、再び東の方向――湘南へと向かうバイパスに乗る。
助手席の山葉さんは、サンダルを脱いでシートの上で軽く膝を抱えるような、いつものソファで見せるような無防備な姿勢になっていた。
「……これって店長さんの車だよね」
流れる街灯のオレンジ色の光が、一定のリズムで彼女の顔を照らしては影を落とす。車貸してくれたんだね、いい人だね、お礼言いに行かなきゃ、と小さく口にする山葉さん。
「そうなんですよ。ぶつけたら殺されそうなので、安全運転します」
そう言って軽口を叩く。地元で運転してた時よりずっと安全に気を配って運転しているのは本当だが、それは山葉さんが乗っているからだ。
「運転上手なんだね。意外とスムーズだし」
「そりゃどうも。去年、免許合宿でしこたま怒られながら補習受けた甲斐がありました」
「教官に泣かされてそう」
「泣いてませんよ」
そんな他愛のない会話が、薄暗い車内にぽつりぽつりと落ちていく。
無理に言葉を繋ぐ必要のない、心地よい沈黙。それは、あの薄い曇りガラスで仕切られた隣同士の部屋から、俺の狭いワンルームで夜を消費していた時の空気と、まったく同じだった。
俺は前方を向いたまま、彼女に対して実家での出来事や、どうしてあんなに駅のロータリーで思い詰めたような顔をしていたのかを、あえて聞こうとはしなかった。
彼女が話したくなれば話すだろうし、話したくないなら、ただこの静かな空間を共有していればそれでいいと思ったからだ。
窓の外の暗闇を、ただぼんやりと見つめていた山葉さんが、やがて小さく、ほう、と息を吐き出した。
「……あのさ」
カーステレオの音楽に溶けるような、静かな声。
「はい?」
「……完全に、ってわけじゃないんだけどね」
山葉さんは窓ガラスに額をこつんと当てたまま、ぽつりとこぼした。
「なんか、前より少しだけ、息がしやすくなったよ」
その言葉の裏にある、彼女が実家で過ごした数日間の重力。親戚の集まり、完璧な『いい子』を演じてきた過去の自分との対峙。そこで彼女が、ほんの少しだけ自分の輪郭を取り戻そうともがいた不器用な結果が、その短い一言に詰まっている気がした。
俺はウインカーを出し、車線変更をしながら、ゆっくりと頷いた。
「……良かったです」
余計な言葉は付け足さなかった。ただ、心からそう思った。
山葉さんは俺の方を振り返ることはなかったが、窓ガラスに薄っすらと反射した彼女の口元が、ほんの少しだけ柔らかく緩んだのが見えた。
バイパスを降り、海沿いの国道へと合流したあたりで、フロントガラスにポツン、と水滴が落ちた。
パラ、パラパラ。
雨音は次第に数を増し、数分のうちにザーッという激しい音に変わった。
ワイパーの速度を上げる。黒い海の方から吹き付ける風が強まり、重たいはずのSUVの車体が時折ぐらりと揺さぶられるようになった。
「……なんか、天気怪しくなってきたね」
助手席の山葉さんが、不安そうに暗い窓の外を覗き込む。
俺は信号待ちの間にスマホの雨雲レーダーを確認した。九州にいたはずの台風の速度が急激に上がり、この周辺も強風域に入りつつあるようだった。さらに、この先の前線には真っ赤な雨雲の帯がかかっている。
進めないほどではない。俺一人なら、少し無理をしてでもこのまま湘南まで車を走らせただろう。
だが、隣には山葉さんがいる。それに、彼女は度重なる予定変更と人混みで、確実に疲労しているはずだ。これ以上、見えない恐怖とストレスに付き合わせるわけにはいかない。
「……山葉さん」
俺はスマホをダッシュボードに置き、なるべく落ち着いたトーンを心掛けてで声をかけた。
「今日は、この辺の道中で宿をとって、一泊しましょう」
「え」
山葉さんが驚いたように目を丸くする。
「いや、でも……」
「台風の速度が上がってて、この先もっと荒れそうです。無理して事故でも起こしたら、それこそ取り返しがつきません。……明日になれば雨雲も抜けるみたいだし、明るくなってからゆっくり帰りましょう」
俺が言い切ると、山葉さんは少しだけ躊躇うように視線を泳がせた後、「……ん」と小さく頷いた。
「でも、こんな時間から泊まれるとこなんてあるかな。ビジネスホテルとか、駅前じゃないと……」
「スマホで、この国道の道沿いになんか無いか調べてみてもらえますか。古くても、雨風が凌げればどこでもいいんで」
「うん、ちょっと待って」
山葉さんはすぐに自分のスマホを取り出し、検索を始めた。画面の青白い光が、彼女の真剣な横顔を照らし出す。
「あ……ここから車で十分くらいのところに、民宿がある。口コミは少ないけど、今も営業してるみたい」
「電話、繋がりますか?」
山葉さんが画面をタップし、耳にスマホを当てる。数回のコールの後、話し声が聞こえた。
「あ、すみません。夜分遅くに。あの、大人二人なんですけど、今から泊まれるお部屋って……」
彼女は何度か相槌を打ち、電話を切った。
「……空いてるって。気をつけて来なさいって言ってくれた」
「よし、行きましょう。ナビ設定お願いします」
雨はさらに勢いを増し、ワイパーは最高速度でフロントガラスの水を拭い飛ばしている。
教えられたナビの通りに細い脇道へと入り、しばらく走ると、激しい雨の向こうに『民宿・かもめ』という古びた電飾看板がぼんやりと浮かび上がった。
砂利敷きの駐車場に車を停め、俺たちはキャリーケースを抱えて、古めかしい引き戸の玄関へと駆け込んだ。
ほんの数秒雨に降られただけだが、肩や髪はすっかり濡れてしまった。
「いらっしゃい。いやあ、えらい天気になったねぇ」
土間の奥から、カーディガンを羽織った初老の女将さんが小走りで出てきた。タオルの束を渡してくれる。
「遅くにすみません。助かりました」
「いいのよいいのよ。ただねぇ……」
女将さんは申し訳なさそうに眉を下げ、俺と山葉さんを交互に見比べた。
「さっきお電話でもお伝えしたんだけどね、今日、お部屋が一つしか空いてないんですよ」
「……えっ?」
俺は顔についた水滴をタオルで拭き取る手を止め、間抜けな声を漏らした。
「一部屋、ですか?」
「そうなの。お盆前でね、工事関係の人たちが長期で入ってて。だから、お二人で一部屋になっちゃうんだけど……ご兄妹、じゃないわよね?」
「いや、俺たちは……」
俺は慌てて山葉さんの方を振り返った。
てっきり二部屋取れたものだとばかり思っていた。男女が、いくら隣人とはいえ、同じ部屋で一泊する。しかもこんな古びた民宿の、おそらく和室で。
いくらなんでも、山葉さんにそれは申し訳ないし、何より俺の感情的に大丈夫じゃないかもしれない。
「じゃあ、山葉さんはここで。俺は他をあたって……」
そう言いかけた瞬間。
くいっ、と。
俺の濡れたシャツの裾が、後ろから軽く引っ張られる。
振り返ると、山葉さんが少しだけうつむき加減で立っていた。
彼女は、女将さんには見えない角度で俺のシャツの裾を握りしめ、上目遣いでこちらを見つめていた。
「……いいじゃん、別に」
声は、いつもの気怠げなトーンだった。
だが、俺の服の裾を握る指先は微かに震えていて、何より、濡れた前髪の隙間から見える彼女の頬は、少しだけ赤かった。
「一緒に寝たこと、あるでしょ」
ぼそりと、俺にしか聞こえないほどの小さな声で付け足される。
言葉の挑発的な響きとは裏腹に、その視線は恥ずかしそうに足元を泳ぎ、濡れたキャリーケースの持ち手をもう片方の手で意味もなく弄っている。
電話の時点で、彼女はこの事実を知っていたのだ。
知っていて、俺に「空いている」とだけ伝えた。
その事実が意味することを理解した瞬間、俺の頭の中で、カッとした熱が弾けた。
外の激しい雨音や、女将さんの戸惑ったような顔が、急激に意識の外へと遠のいていく。
「……ここで、お願いします」
気がつけば、俺の口は勝手にそう告げていた。
「あ、そう? よかった。それじゃあ、お部屋に案内するわね」
安堵したように笑う女将さんの背中を追いながら、俺はドクン、ドクンと早鐘を打つ心臓の音を必死に抑え込んでいた。
背後からは、濡れたサンダルが廊下の板張りを歩く、パタ、パタという小さな足音がついてくる。
雨の夜。古い和室が俺たちを待っていた。




