おねえさん、振り返る
西湘バイパスを抜け、東名高速道路へ合流する頃には、湘南の海沿いを覆っていた鉛色の雲が、さらに重たさを増して空を圧迫していた。
窓を少しだけ開けると、生ぬるくて湿った強い風が車内に流れ込んでくる。雨はまだ降っていないが、遠くの空の境界線がじわりと滲み始めているのが見えた。
店長から借りた古いSUVは、見た目の無骨さに反して、アクセルを踏み込めば力強いエンジン音を響かせて西へ西へとアスファルトを蹴っていく。
カーステレオに繋いだスマホのBluetoothは、プレイリストからランダム再生を繰り返している。
今流れ出したのは、チェット・ベイカー。最初に山葉さんと話したとき、ベランダで聞いていた曲だ。音楽なのに静かな気がする不思議な旋律、哀しくもないのに泣きたくなってしまいそうな声。それらが古い車の匂いと混ざり合って、あの夜のことを思い出す。そういえばあの時の山葉さんは、なんか今よりもうちょっとクールな雰囲気があった。少しずつ、変わっていったんだな、なんてことを思う。
御殿場を過ぎ、沼津の長い直線に入ると、周囲の景色は完全に夜の闇へと沈み込んだ。等間隔に続くオレンジ色の街灯が、フロントガラスを滑るように流れていく。
音楽がロバート・ジョンソンに変わった。
ヘッドライトが照らし出す単調な中央線を見つめながら、俺はふと、助手席に転がしたままの自分のバッグに視線を向けた。
あのバッグの中には、先日完成したばかりの、手作りの薄いZINEが入っている。
『背伸びしてるうちに、足の筋肉ついてきたんじゃん?』
夕暮れのカフェで、ストローを咥えた彼女が言ってくれた言葉が、ギターの音色に乗って脳裏に蘇る。
あのZINEの最後のページには、たった一文だけ、俺自身が考えたフレーズを記してある。
この数ヶ月、薄い曇りガラスで仕切られた隣の部屋からやってくる彼女と、ただ無為に、だらだらと消費してきた夜の空気の中から絞り出した、ひどく個人的で、嘘はない、でもやっぱりカッコつけてスカしてる俺っぽい言葉。
そのページを印刷した時のことを思い出すだけで、今でも少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
あの言葉を読んだら、彼女はまた「鈴木くんっぽ」と笑うだろうか。それとも、あの夕暮れの店先で見せたような、少し潤んだような柔らかい顔をしてくれるだろうか。
アクセルを踏み込む右足に、自然と力がこもる。
ただ、電車が止まって困っている隣人を、車で迎えに行くだけだ。それなのに、どうして俺はこんなに感傷的になっているのだろう。
自分でも呆れてしまうけど、俺はただ、山葉さんに早く会いたいだけなのかもしれない。――ただ真っ直ぐに夜の高速道路を走り続けた。
静岡インターチェンジを降りて市街地に入った頃には、時計の針はすっかり夜の深い時間帯を指していた。
赤信号で車を停め、俺はスマホの画面を開く。
『今、インター降りました。駅のどのあたりですか?』
メッセージを送信すると、すぐに既読がつき、返信が返ってきた。
『……ホントに来たんだ。今、ロータリーの方に向かうね』
『了解です。そっちに車回します』
スマホをダッシュボードに戻し、ウインカーを出して駅の方向へとハンドルを切る。
静岡駅のロータリーは、夜遅くにもかかわらず異様な喧騒に包まれていた。台風の影響で新幹線が止まり、足止めを食らった旅行客や帰省客が、行く宛もなくスマホを片手に右往左往している。タクシー乗り場には絶望的な長さの列ができ、行き交う人々の顔には一様に濃い疲労の色が浮かんでいた。
ハザードランプを点滅させながら、徐行でロータリーの端を進む。
人混みの中、目を凝らすまでもなく、その姿はすぐに見つかった。
肩が少し落ちたドレープ感のある黒のグラフィックシャツに、チェック柄のスカート。首元には冷たいシルバーのチョーカーが光っている。
だが、その強気な装いの足元には、不釣り合いなほど大きなキャリーケースが置かれている。彼女は周囲の喧騒から切り離されたように、ただぽつんと街灯の下に立ち尽くしていた。肩を丸め、少しだけ俯いた、細く頼りない背中。
俺は少し離れた場所に車を寄せ、パーキングブレーキを踏み込んだ。
重たいドアを押し開け、生ぬるい夜風の中へ足を踏み出す。
行き交う人々の間を縫い、彼女の背後へと近づいていく。足音が届くほどの距離まで詰め、俺は立ち止まった。
「山葉さん」
人混みのノイズに負けないよう、少しだけ声を張る。
ビクッ、と。華奢な肩が大きく跳ねた。
彼女はゆっくりと、こちらを振り返る。
無造作に下ろされたアッシュの髪から覗くブルーのインナーカラーが、夜風に揺れた。跳ね上げたアイラインの奥、少し疲労の滲むタレ目が、俺の姿を捉えた瞬間、大きく見開かれる。
瞬きを二度、三度。
やがて、その瞳の縁にじわりと水膜が張ったかと思うと、彼女はきゅっと唇を噛み締めた。そして、無理やり引っ張り上げるようにして、不格好に唇の端を吊り上げた。
それは、今にもこぼれ落ちそうなものを必死に堪えているような笑顔だった。
彼女はキャリーケースの持ち手から、ゆっくりと手を離した。
何も言わず、ただ真っ直ぐに俺の目を見つめたまま、一歩、また一歩と、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくる。
サンダルがアスファルトを踏む音が近づき、周囲の音が消えていく気がした。
俺の目の前で立ち止まると、彼女はふっと身体から力を抜き、そのままゆっくりと身を傾けてきた。
こつん、と。
俺の胸元に、彼女の額が押し当てられる。
俺が反射的に息を呑むと、彼女は俺のシャツの胸ぐらを両手できゅっと力強く掴んだ。
胸元に押し当てられた額から、少しだけ高い体温が直接伝わってくる。微かに震えている彼女の肩越しに、駅前の雑踏がどこか遠くの出来事のように霞んでいった。
「……ほんとに来るとか」
胸に顔を埋めたまま、くぐもった声が響く。
「バカじゃないの……」
悪態をつくような言葉とは裏腹に、俺のシャツを握りしめる彼女の指先は白くなるほど力がこもっていた。
俺は、どこにやっていいかわからず宙を彷徨っていた両手を、少しだけ迷った末に、そっと彼女の背中へと回した。
「俺はバカなんですよ。知ってたでしょ」
俺がなるべく平坦な声でそう応えると、胸元で彼女が「だね」と、息を吐き出すように小さく笑う音がした。




