おねえさん、を、迎えに行く
ガタッ、と。
外の突風が、店のガラス戸を強く叩いた。
「……帰れない?」
無意識に声が出ていた。俺はすぐに通話ボタンをタップし、スマホを耳に押し当てた。
数回のコールの後、少し躊躇うような間のあとに通話が繋がる。
『……もしもし』
「山葉さん? どうしたんですか、何かあったんですか。帰れないって……」
俺がなるべくゆっくりと話していると、スピーカーの向こうから、ざわざわとした人の話し声と、駅のホームで流れるような無機質なアナウンスが微かに聞こえてきた。
『あー……うん。ごめん。ちょっと今、静岡の駅で足止め食らっててさー』
いつものダルそうな、いや落ち着いた感じを取り繕っているようだったが、その声は普段よりワントーン高く、少しだけ上ずっているように聞こえた。
「静岡? 新幹線、止まってるんですか?」
『そ。ニュース見てる? 九州の方に台風いるじゃん。あれの影響でダイヤがめちゃくちゃ乱れてて、さっきここで運転見合わせになっちゃったの』
俺は店の入り口越しに、外の空模様を見た。鉛色の雲はどんよりと垂れ込めているが、雨は降っていない。風が時折強く吹く程度だ。台風本体はまだ遠く離れた九州にあるはずだった。
『で、なんかね、明日には西日本の方まで台風が来そうだからって、もともと明日乗る予定だった人たちが今日のうちに移動しようとしてるらしくて。事前振替? っていうの? そのせいで後続便も指定席は全部満席だし、自由席ももう乗れる状態じゃなさげ』
「じゃあ、今日は静岡で一泊するんですか?」
『それがさぁ……』
電話の向こうで、山葉さんが小さく、本当に小さく息を吐き出す音がした。
『ホテル、どこも空いてないんだよね。夏休みだし、私みたいに足止め食らった人たちがいっせいに予約入れちゃったみたいで。駅の周り、キャリーケース持った人たちで溢れかえっててさ。あはは、どうしよ、ウケるね』
全然ウケてないはずだ。
神戸ではそれなりに気を張ることもあったはずだろうし、そもそも移動は疲れる。こっちの部屋では限界までだらけている山葉さんなのだから、かなりしんどい展開だろう。
『そういうわけだからさ。駅のベンチで夜明かして、明日動いたら帰るー。だから……』
一拍、沈黙が落ちた。
『明日の夏祭り、行けないや。ごめん』
気怠げに、さもなんでもないことのように装った声。
だが、その言葉の端っこが微かに震えていたのを、俺は聞き逃さなかった。
強がっているのだ。本当は疲労困憊で、ホテルも見つからず、見知らぬ駅の喧騒の中で途方に暮れているはずなのに。俺に心配をかけまいと、お姉さんぶっている。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「……待っててください」
俺の口から、思考よりも先に言葉がこぼれ落ちていた。
『え?』
「俺が、車で迎えに行きます」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。沖縄の高校生は、基本卒業したら即運転免許を取る。浪人時代の去年、とっておいてよかったと強く思った。
「は……?」
電話の向こうの喧騒が、一瞬だけ止んだような気がした。
『何言ってんの。鈴木くん、車持ってないじゃん』
「レンタカー借ります。今からなら、台風がこっちに来る前に静岡まで行って、山葉さんを乗せて関東まで戻ってこられるはずです。まだこっちもそっちも、全然天気は悪くないですから」
頭の中で、湘南から静岡までのルートと所要時間を弾き出す。高速を使えば、片道二時間弱といったところか。
『いやいや、レンタカーって。今から湘南から静岡往復って、ちょっと無茶じゃない? だって、もし途中で雨とかひどくなったら……』
山葉さんの声には、明らかな戸惑いと、それ以上に「申し訳ない」という遠慮が滲んでいた。
俺は少しだけ言葉を探した。
どう言えば、彼女のその重たい遠慮を取り払えるのか。
実家の空気の中で、彼女が変わろうとしていたこと。それは時折送られてくるメッセージから、その不器用な頑張りは十分に伝わってきていた。
だからこそ、人のごった返す冷たい駅のベンチなんかで夜を明かさせてはいけない。
「無茶じゃないです。それに……」
俺はカウンターに手をつき、言葉に熱を込めた。
「俺が、行きたいんです」
『……っ』
「山葉さんを迎えに行って、明日の夏祭り、一緒に行きたいから。俺のわがままです」
『でも、わる……』
山葉さんが名をも何か言いかけたので、俺はそれを遮った。ほとんど、反射的だったと思う。
「いつかの『ご褒美』……。なんでも、お願いを聞いてくれるんですよね? ……待っててください。俺を」
言い切る。
電話越しに、彼女が小さく息を呑む気配がした。
数秒の、長い沈黙。
やがて、スピーカーの向こうから、鼻をすするような微かな水音が聞こえた。
『……バカじゃないの』
掠れた声。いつもの気怠さも、強がりの余裕も完全に剥がれ落ちた、震える音。
『……じゃあ、待ってる。けど……』
彼女は言葉を詰まらせ、ゆっくりと言い聞かせるように続けた。
『しんどくなったり、少しでも天気が悪くなったりしたら、途中で引き返しても全然いいから。絶対に、無理しないで』
「わかってます。安全第一で行きますよ。着いたら連絡します」
『うん。気をつけてね』
通話が切れる。
俺はスマホをエプロンのポケットにねじ込み、大きく一つ深呼吸をした。
さて、レンタカーだ。夏休み真っ只中で、しかも夕方のこの時間に空いている車があるかどうか。最悪、カーシェアのアプリを片っ端から当たるしかない。
俺がカウンターの下でスマホを再び取り出そうとした、その時だった。
「おい、鈴木」
背後から、低い声が降ってきた。
振り返ると、店長が文庫本を伏せ、電子タバコの煙をふぅと吐き出しているところだった。
「……店長、すみません。さっき言ってたみたいに、やっぱり今日のシフト、ここで上がらせてもらえませんか。ちょっと、静岡まで……」
「ああ、聞こえてたよ。駅のベンチで夜明かすよりはマシだな。なかなかいいじゃねぇか。70年代の青春映画みてぇでよ」
店長はカウンターの奥から立ち上がると、無造作にポケットを探り、ジャラリと音を立てて何かをテーブルに放り投げた。
銀色のキーホルダーがついた、車のスマートキーだった。
「……え?」
「レンタカーなんて探してる暇ねえだろ。夏休みでどこも空いてねえよ」
店長はボサボサの頭を掻きながら、面倒くさそうに顎をしゃくった。
「乗ってけ。店の裏に駐めてある。混んだり、天気が荒れたりする前に、さっさと迎えて帰ってこい」
「店長……」
俺は目の前に置かれたキーと、店長の顔を交互に見比べた。
「いいんですか? これ、大事に乗ってるやつですよね……」
「馬鹿言え。ただの鉄の塊だ。それに……」
店長はニヤリと、それこそ小説の中の悪巧みをするキャラクターのような、意地悪な笑みを浮かべた。
「その代わり、後でこの一部始終、俺の小説のネタにさせろよ。若いヤツのそういう衝動的な行動ってのは、いいスパイスになるからな。……あ、車だけはマジでぶつけんなよ。カミさんに殺される」
大人の余裕と、不器用な優しさ。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じながら、エプロンを勢いよく外し、カウンターの上に置いた。
「ありがとうございます……絶対、無傷で返します」
車のキーをしっかりと握りしめる。
「おう。気をつけて行け。明日の店番は俺がやっといてやる。つかめんどくせぇし台風きそうだからもう閉めるわ」
店長の背中に向かって深く頭を下げ、俺は店の裏口へと駆け出した。
外に出ると、生ぬるい風が少しだけ強さを増していた。
空は相変わらず鉛色だが、雨の気配はない。
店の裏手に駐められた、くすんだグリーンの古い外国製SUV。俺はリモコンキーのボタンを押し、重たいドアを開けて運転席に滑り込んだ。
エンジンをかけると、低い排気音とともに車体が微かに震える。
カーナビの目的地を静岡駅に設定する。
ハンドルを握る手に、じわりと汗が滲んだ。
「……たしかにティーンムービーみたいだな……」
なんて自嘲する。令和のサブカル雰囲気イケメンっぽくはない。ちょっと泥臭いし、なんかどんくさいし、あまりスマートじゃない。あとそんなに劇的ですらない。ただの送迎だ。だけど。
アクセルを踏み込む。
くすんだグリーンの車体は、薄暗くなり始めた湘南の海沿いの国道を、西へ向かって走り出した。ただ、彼女の待つ場所へ向けて。




