おねえさん、いなくなる
山葉さんが神戸の実家へ帰省して、三日が経った。
お盆を目前に控えたこの時期、ただでさえ静かな格安アパートは、他の住人たちもこぞって帰省しているらしく、気味が悪いほどの静寂に包まれていた。
夜、ベランダに出てタバコを吸う住人の気配もなければ、上の階から微かに響いていた足音もしない。そして何より、薄い曇りガラスで仕切られた隣のベランダは、夜になっても真っ暗なままだ。
コンロの火を止め、フライパンの中で炒められたクミンとコリアンダーの香りを嗅ぐ。
夏野菜をたっぷりと入れたスパイスカレー。一人分を作るのは難しいので、どうしても鍋には三食分くらいの量ができてしまう。
普段なら、壁の向こうからスリッパを引きずる音がして、ひょっこりと気の抜けた顔が現れるタイミングだ。だが、今日は換気扇の回る無機質な音だけが、部屋の中で空回りしている。
カレーを皿に盛り、ローテーブルに運ぶ。
ソファの左端には、彼女が持ち込んだ専用のクッションが、主を失ったままぽつんと転がっていた。
「……いただきます」
誰に聞かせるわけでもない声を出して、スプーンを口に運ぶ。味は完璧だ。自分でいうのもなんだけど、この数か月でかなり上達したと思う。だけど、やけに口の中の水分を持っていかれる気がして、俺は無意識のうちに冷蔵庫の右半分――彼女が買い置きしているストロングゼロの缶の列を、ぼんやりと見つめていた。
食後、洗い物を終えてPCでZINEの第二弾の構成案を練っていると、テーブルの上のスマホが短く震えた。
画面に表示された名前に、俺は無意識のうちに口角を緩めていた。
山葉さんからだ。トーク画面を開くと、一枚の写真が送られてきていた。
高級そうな和食のフルコース。伊勢海老のお造りや、金箔の乗った繊細な前菜が並んでいる。
『親戚の集まりちゅう。エビの尻尾の角度まで気を使う勢い。これエビフライにしてみたい』
『お疲れ様です。大丈夫ですか?』
『さっき親戚のオバチャンの自慢話が三周目に入ったから、ためしに、『そうなんですね』っぽく、『遭難するんですね』って早口で行ってみたけど意外とバレない』
『なにやってんですか』
『ん。でもちょっと疲れる。帰ったらポテチ素手で食お』
写真に添えられた短いテキストから、彼女の気怠げな声が脳内で自動再生される。
『お疲れ様です。海苔も買っときますよ』
すぐに既読がつき、なんか喜んでるみたいなカワウソのスタンプが送られてきた。
『そっち何してんの?』
『さっき晩飯作って食べました。今はZINEの作業です』
『カレーの匂い部屋に染み付かせないように。帰った時、服に匂いつくから』
エスパーかよ、と小さく声が漏れた。換気扇全開なんで大丈夫ですよ、と打ち返す
と、『あー、いいな。あたしもカレーがよかった』と返ってきた。
翌日。バイトが休みで、昼間から一人で部屋のプロジェクターにB級ホラー映画を映していた時。
またスマホが震えた。
今度は、大学の同級生である佐藤さんからだった。
『鈴木くん、夏休み暇してる? もしよかったら、明日駅前にできた新しいカフェ行かない? 映画の後とかに』
少しだけ、指先が止まる。
明確な好意が混じった誘い。モテない陰キャとして生きてきた俺の人生において、これは間違いなく特筆すべきイベントのはずだ。
だが、俺の心に浮かんだのは、喜びでも優越感でもなく、なぜか薄暗い店内で百五十円の小冊子を胸に抱きしめていた、あの柔らかい横顔だった。
『ごめん、明日からバイトのシフトが詰まってて。店長からレイアウト任されてるから、休めないんだよね』
半分本当で、半分嘘の断り文句を、ためらいなくフリック入力する。送信する前に、ちょっともったいないな……、と一瞬止まったのは仕方ないとして、送信はした。
送信ボタンを押して映画に視線を戻そうとした直後、再びスマホが震えた。
今度は山葉さんからだった。海の見えるカフェのような場所から撮られた、アイスティーの写真。
『高校の時の友達と会ってきた』
『どうでしたか?』
『ちょっとだけ、素で喋れた。気がする。無理して全部合わせなくても、意外と平気だったわ。お嬢様女子高だからちょっとびっくりされるはされたケド』
『いいじゃないですか。てか、お嬢様女子高なんですか』
『そうなのよ。オホホ』
『意外と意外じゃないですね』
『なんそれ』
『なんでしょうね。自分でも何言ってんだか。あ、俺は映画観てました』
『好きだねぇ。なに観てんの』
『はい。B級ゾンビ映画』
『えー。誰が死んだとこ?』
『金髪でセクシーなチアリーダーが死にました』
『最初の方だね』
彼女が帰省してからの日々は、だいたいこんな感じだった。
俺は一人で料理をし、映画を見たり記事を書いたりしながら、静かすぎるモラトリアムを消費している。そして、そんな日々と並行して、一日二、三回、彼女から短いメッセージが届く。
ほんの些細な、断片的なやり取り。
だけど、文字面から伝わってくる彼女の様子が、静まり返った部屋の空気を少しだけ温かくしてくれた気がした。
画面の向こうで、山葉さんは完全に完璧な『いい子』の仮面を被り続けるのをやめて、彼女なりに少しずつ肩の力を抜く隙間を作っている。しんどい部分もあるはずだが、上手くやれているようだ。
そして、その息抜きの隙間に、こうして俺に向かって深呼吸をしてくれている。
それが、俺はシンプルに嬉しい。
寂しくないと言えば嘘になる。だが、一日数回届く彼女からのメッセージが、俺の一人の日々に、確かなリズムと体温を与えてくれていた。
それから数日が過ぎ、山葉さんがアパートに帰ってくる予定日。朝には、これから帰るよー、とメッセージも来ていた。
俺はポラリスのレジカウンターの中で、買い取ったばかりの古本の埃を刷毛で落としていた。
外はまだ明るい夕方だというのに、湘南の空はどんよりとした鉛色の雲に覆われていた。
『――続いてのお天気です。現在、大型で非常に強い台風が九州地方に上陸しており、猛烈な風と雨をもたらしています。この影響で、太平洋側でも湿った空気が流れ込み、大気の状態が不安定に……』
店内の有線から流れてきたニュースの音声を、店長がカウンターの奥で電子タバコを吹かしながら聞いていた。
「厄介な進路だな。うちの店も、明日は看板しまっといた方がいいかもしれねえ」
「湘南も荒れますかね」
「どうだろうな。直撃はしなくても、交通機関は乱れるだろうよ。鈴木、お前も明日のシフト無理しなくていいぞ」
「ありがとうございます。まあ、様子見で」
適当に相槌を打ちながら、俺はエプロンのポケットの中で短く震えたスマホを取り出した。
画面をスワイプすると、山葉さんからのメッセージだった。
明日は夏祭りの日。一緒に夜店を回って、花火を見ると約束している日だ。何時の新幹線に乗るのか、そんな連絡だろうと思ってトーク画面を開く。
しかし、そこに表示されていた文字は、俺の予想を裏切るものだった。
『ごめん、今日、ってか明日も帰れないかも』
スタンプも何もない、たった一文。
俺は刷毛を持った手を止め、画面を見つめたまま固まった。
帰れない。それは、台風の影響で新幹線が止まるからだろうか。それとも、実家で何かトラブルがあったのだろうか。
いつもなら、少し冗談めかした愚痴が添えられているはずのメッセージ。だが、その短い文字列からは、彼女のいつもの気怠げな声も、体温も、うまく感じ取ることができなかった。
ただ、薄暗い画面の向こう側で、彼女が一人で何か重たいものを抱え込んでいるような、そんな嫌な予感だけが胸の奥をざわつかせた。




