おねえさん、心境の変化を語る
店長からお使いを頼まれた自家焙煎のコーヒーショップは、商店街の外れにある。
カラン、とドアベルを鳴らして中に入ると、重厚なロースターの機械音とともに、深く焙煎された豆の香ばしい匂いが全身を包み込んだ。外のうだるような熱気とは無縁の、冷房がしっかりと効いた空間。
店長指定のグァテマラの豆を二百グラム注文し、紙袋を受け取る。
「……なんか、せっかくだし少し飲んできます?」
レジ横のメニューボードを見上げながら俺が提案すると、隣に立つ山葉さんは「ん。いいね」と短く頷いた。
窓際の小さなイートインスペース。丸い木製のテーブルを挟んで、俺たちは向かい合わせに座った。
俺の前には、透明なグラスに入った水出しのアイスコーヒー。山葉さんの前には、ミルクの層が綺麗に分かれたアイスカフェラテ。
ストローで氷をカラカラと鳴らしながら、俺たちは他愛のない話をした。最近観た映画のくだらないツッコミどころ、大学の講義の愚痴、同じく受講している第二外国語のフランス語の講師の奇妙な髪型について、それにさっきポラリスであった常連客の変な癖について。
ふと、会話が途切れて静寂が落ちる。
冷房の効いた店内なのに、なんだか妙に暑い。グラスを傾ける山葉さんの細い指先や、ストローを咥える小さな唇に、無意識のうちに視線が向かってしまう。
窓から差し込む夕暮れ手前の光が、彼女の青いインナーカラーを透かしていた。目が合うと、彼女は少しだけタレ目を細め、ストローを咥えたまま柔らかく笑い返してくる。
俺は慌てて視線を逸らし、グラスのアイスコーヒーを無意味に煽った。氷がカラン、と鳴る。
視線が絡むたびに生まれる数秒の沈黙。テーブルの上に置かれた互いの手の、あと数センチで触れ合いそうな距離。
「美味しいね、これ」
山葉さんがカフェラテのグラスを置き、ほぅと小さな息をついた。
「俺のはスッキリしてて飲みやすいです。さすが専門店って感じですね」
「そいえば、鈴木くんもさ、最近コーヒー淹れるのめっちゃ上手くなったよね。最初のころのパルプンテ感なくなって、安定して美味しいし」
からかうような、でも嫌味のない響き。
「まあ、いろいろ調べましたからね。豆の挽き目とか、お湯の温度とか」
「豆だねぇ。……あ、今の駄洒落じゃないから。偶然だから」
山葉さんはクスクスと笑い、頬杖をついて俺の顔をまじまじと見つめた。
「でもさ」
とろんとした三白眼が、まっすぐに俺を捉える。
「鈴木くん、すごいじゃん」
「……え?」
「いや、コーヒーのこともそうだし。さっきのZINEだってそう。背伸びしてるうちに、足の筋肉ついてきたんじゃん?」
彼女は、テーブルに置かれた自分のバッグをポンと軽く叩いた。さっき買ってくれたZINEが入っている場所だ。
「背、伸びた?」
もちろん、二十歳を過ぎた俺の身長が伸びている、という意味ではないその言葉は、冷たいコーヒーよりもずっと深く、俺の胸の奥に染み込んでいった。
グラスの表面にびっしりとついた水滴を、指の腹でゆっくりと拭う。冷たさが、少しだけ熱を持った頭を冷ましてくれる気がした。
「……山葉さんの、おかげですよ」
俺は手元のグラスを見つめたまま、ポツリとこぼした。
「山葉さんが、俺の変なこだわりとか文章を、面白がってくれたから。だから、続けられたんです。サブカルクソ野郎として成長しましたかね」
照れくさくて顔を上げられずにいると、しばらくして、頭上からフッと小さな息が漏れる音がした。
「なにそれ」
掠れた、優しい声。
顔を上げると、山葉さんは少しだけ目元を赤くして、グラスのストローを指で弄っていた。照れ隠しのように唇を尖らせつつ、ぶつぶつと小さな声で何か言っている。
いやだからそれは、とか。あたしは前からなんだかんだ、とかよく聞こえない。
「山葉さん?」
「あ、ごめん。あー、あ、そうだ。あたしもちょっと話あってさー」
山葉さんはポツリと呟き、窓の外を走る車に視線を移した。
「あたしもさ、見習ってみるよ」
「見習う?」
「うん。……ちょっとだけ、実家帰ってくる」
俺は、ストローに向かっていた口の動きをピタリと止めた。
「実家って……神戸の?」
「そ。高校の時の集まりもあるし。親戚の行事もなんかあるらしいから」
初めて山葉さんの料理を食べた日に聞いた、通話中の山葉さんの声。ひどく行儀の良い彼女の声を思い出す。
「ま、別にたかが帰省だし? ちょっと気楽にいってみるだけー」
山葉さんの指先が、空になったグラスの縁を落ち着きなく撫でている。氷が溶けて薄まったミルクの層を見つめるその横顔は、あはは、と笑いつつもどこか固いようにも見える。
俺は、無意識のうちに身を乗り出していた。
「……一緒に行きます?」
静かな店内に、俺の焦ったような声が響いた。
山葉さんは目を丸くして俺を見つめ、数秒間フリーズした。
やがて、彼女の喉の奥から「ふっ」と息が漏れ、それが次第にくぐもった笑い声に変わっていった。
「あははっ……ちょ、なにそれ。あたしの実家に? 鈴木くんが? ウケるんだけど」
肩を揺らして笑う彼女を見て、俺は顔に一気に血が上るのを感じた。
「い、いや! そういう深い意味じゃなくて! なんかちょっと心配だっただけっていうか……!」
「何事かと思われるじゃん。お嬢さんを僕に下さい! とかいうわけ?」
山葉さんは涙目になるほど笑い転げ、お腹を押さえた。
「彼氏として親戚の集まりに乗り込んでくるの?……でも、やば、めちゃくちゃ面白いかも」
「笑いすぎですよ……」
俺が恨めしそうに睨むと、山葉さんは大きく深呼吸をして笑いを収めた。
だけど、その三白眼は、泣きそうなくらい優しく、嬉しそうに俺を見つめていた。
「あー、面白い。なんか元気出たかも。ありがと。でも、大丈夫。一人でちゃんとやってみる。今回はね」
そう言って、彼女は笑いすぎて滲んだ涙を指で拭ってからグラスの最後の一口を飲み干した。
「別にものすごく訳ありな家庭とか毒親とかってわけじゃないから。それに、ずっと向こうにいるわけじゃないし」
山葉さんはテーブルに肘をつき、俺の顔を下から覗き込むようにして微笑んだ。
「前に約束した夏休みっぽいことリスト。花火があがる夏祭りの前日には戻るから」
悪戯っぽく微笑むその表情を見て、俺の中にあった小さな不安が、ふっと溶けて消えた。
「……わかりました。待ってます」
俺が頷くと、山葉さんは満足そうに目を細めた。
店を出ると、空はすっかり濃い群青色に沈みかけていた。
ポラリスに豆を届けに戻る俺と、アパートへ帰る彼女。駅前の交差点で、俺たちは立ち止まった。
「じゃ、あたしはこっちだから」
「はい。気をつけて帰ってくださいね」
山葉さんは踵を返し、数歩歩き出してから、ふと振り返った。
夕闇の迫る街灯の下。彼女は小さく手を振り、唇だけで何かを呟いたように見えた。
言葉は聞こえなかったけれど、その表情があまりにも柔らかくて、俺はただ立ち尽くしたまま、彼女の細い背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、ずっと見送っていた。




