おねえさん、なんか嬉しそう
夕暮れ時のポラリス。西日が磨りガラスを透過し、アンティークの雑貨や床に積まれた古本を琥珀色に染め上げている。
レジカウンターの端、真鍮のコイントレイのすぐ横に、小さな特設スペースが設けられていた。
そこに平積みされているのは、一冊百五十円の値札がつけられた、薄い手作りの小冊子――、俺が作ったZINEだ。
表紙には少しざらつきのある厚手のクラフト紙を選び、タイトルはタイプライター風のフォントで印字した。中身は、俺がnoteで書いてきた映画や音楽、コーヒー、あるいはひそかに憧れているライフスタイルについての記事を加筆修正し、自分で撮った写真をレイアウトしたものだ。
これを作るのには、思った以上の時間と手間がかかった。
レイアウトソフトの使い勝手に悪戦苦闘し、理想の紙質を求めて何軒も画材屋を回り、夜な夜なホチキスで中綴じしていく作業。
『あー、鈴木くん、ここ。ずれてるずれてる』
俺の部屋のローテーブルで、プリントアウトされた紙の束と格闘する俺の背後。定位置のソファを占拠した山葉さんは、氷の溶けたハイボールのグラスを揺らしながら、気の抜けた声で野次を飛ばしてきたものだ。
『え、あ、ほんとだ……』
『がんばれー。ふぁいとー』
あまり心のこもってなさそうな、ダウナー気味の棒読みの応援。でも振り返ると、向けられている柔らかな視線。意外と本気で応援してくれてるのかも、とも思う。とにかく、深夜の密室で一人黙々と作業する俺にとっては、背中から聞こえるその微かな氷の音と気怠い声が、間違いなく一番の原動力になっていた。
『一文くらい、なんかお前が考えた詩とかフレーズとか入れろよ』。店長から受けたその指示も、数日考えたけど出てこなくて、でも山葉さんとしょうもない話をしたあと、ふと出てきた。それを、最後のページに記した。
数日前から店長の厚意で置かせてもらっているそのZINEは、ありがたいことに、ポラリスを訪れる物好きなお客さんの手に取られ、ほんの少しずつだが売れていた。
最初の一部が売れるまでは本当になんというかいたたまれなくて、落ち着かなくて、最初のものが売れたときは、形容しがたい初めての気持ちを覚えたりもした。
自分の頭の中にしかなかった言葉が、こうして物理的な形を持って誰かに買われていくというのは奇妙な気分だった。嬉しい、それもかなり嬉しいはずなのに、なぜか指先が震えるのだ。
そんな、俺の初めてのZINEも、あと数部だけになっている。バイトの兄ちゃんが作った? じゃあ買ってやるよ、と言う常連さんのおかげもあるが、大量に売れ残ると言う事態はさけられそうだ。ちなみに利益は多分千円も行かない。けっこう費用が掛かっているからだ。もちろん俺の人件費とか入れずに考えても、である。
でも、作ってよかった。そう感じる。
さて、バイト終了まであと数時間、というところだ。
カラン、と。入り口のドアベルが涼しげな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
挨拶をしながら顔を上げると、そこに立っていたのは山葉さんだった。
今日は生協の『女神』モードではなく、彼女本来の趣味であるロックテイストな装いだ。とはいえ、いつものライダースや黒のロングデニムではない。少し色落ちしたチャコールグレーのノースリーブカットソーに、切りっぱなしのデニムショートパンツという、夏仕様のラフなスタイルだ。
無造作にアップにしたアッシュの髪から鮮やかなブルーのインナーカラーが覗き、スラリと伸びた白い太ももが、薄暗い店内の中で目を引いた。
外の熱気を帯びた彼女の匂いが、古い紙の匂いにふわりと混ざった。夏休みに入ってからというもの、山葉さんはときどきこうして店に来て、文庫本なんかを買ってくれる。
「おー。お嬢ちゃん、いらっしゃい」
カウンターの奥で文庫本を読んでいた店長が、ボサボサの頭を上げて片手を軽く挙げた。
「こんにちは、店長さん。この前はどうもでした」
山葉さんは店長に向けて、軽く会釈を返す。あの日、徹夜明けの現場を陶子ちゃん込みで見られて以来、山葉さんも店長には少し打ち解けたようで、こうして店に来た時も自然に言葉を交わすようになっていた。なんとなく、このモードの山葉さんが俺以外の、それも大人相手に一応敬語を使ってるのはなんか新鮮な気がする。
「ま。ゆっくりしていってよ」
店長がそう言って再び文庫本に目を落とすと、山葉さんは「お邪魔します」と小さく言って、カウンターの俺の前にやってきた。
「お疲れ。……あ、これ」
彼女の視線が、コイントレイの横に置かれたZINEの束で止まる。
スッと伸びた白い指先が、一番上の一冊を丁寧に持ち上げた。ざらついたクラフト紙の表紙を、指の腹でそっと撫でる。
「もう置いてたんだ。売れてる?」
上目遣いで、少しだけ声を潜めて聞いてくる。
「まあ、そんなには。でも、数冊ですけど買ってくれる人がいて……。ちょっとでも売れると、やっぱり嬉しいですね」
俺が照れくささを誤魔化すように後頭部を掻きながら答えると、山葉さんは「ふーん」と短く鼻を鳴らした。
そして、おもむろに自分のショートパンツのポケットから小銭を取り出した。
チャリン、チャリン、と。
コイントレイの上に、百円玉と五十円玉が、一枚ずつ丁寧に置かれた。数えもせずに取り出したのに、金額ぴったりである。
「えっ。ちょ、山葉さん?」
俺は慌てて手を出した。
「買わなくていいですよ。作ってる時、ずっと横で見てたじゃないですか。内容だって、大体俺が話したことあるやつですし」
ほとんどの内容は彼女が横でゲームをしている間に書き上げたものだし、何なら印刷前の試し刷りだって読まれている。わざわざお金を出して買ってもらうようなものではない。あと最後に一文だけ入れた俺の詩みたいなフレーズが少し恥ずかしい。
だが、山葉さんはトレイに置いた硬貨を指先でトントンと叩き、小さく首を横に振った。
「いーの。欲しいから」
少しだけ幼く聞こえる、だけど真っ直ぐな響き。
「はあ。じゃあ、えっと、ありがとうございます」
謎の圧にまけてちっぽけな冊子を手渡す。
彼女は手にしたZINEを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと顔を上げた。
西日を背に受けた彼女の表情を見て、俺は息を呑んだ。
そこにあったのは、いつもの俺をからかうような悪戯っぽい笑みでも、眠そうな夜の顔でもなくて。
大切に、慈しむような、しっとりとした柔らかな表情。
「鈴木くんの初めての本でしょ。ま、記念ってことで」
薄い小冊子を胸元に抱き寄せるようにして、彼女は少しだけ潤んだように見える三白眼を細めた。
うまく、言葉が返せなかった。ただ、目がそらせなくて、だけどみていられないようでもあって。
ただ、オレンジ色に染まる彼女の瞳の奥に吸い込まれそうになる。
「……おい鈴木」
不意に、背後から店長の呆れたような低い声が飛んできた。
「えっ、あ、はい」
「豆が切れたから買ってこい。ついでに、お嬢ちゃんその辺まで送ってやれ」
店長は文庫本で口元を隠しながら、シッシッと手を振るような仕草をした。その目尻は、明らかに面白がるように下がっている。
「えっ、でも、店番……」
「いいから行け。俺がいるんだから問題ねえだろ」
「あ……はい。じゃあ、お言葉に甘えて」
「おう。グァテマラの豆な」
俺はエプロンを外し、カウンターの下に潜り込ませた。
「……じゃあ、ちょっとだけ、外歩きますか」
俺が声をかけると、山葉さんは抱えたZINEを大事そうにバッグにしまい込み、「うん」と小さく頷いた。
ドアベルが再び鳴り、外に出る。
アスファルトの熱気は随分と和らぎ、空はすっかり赤紫色の夕暮れに染まっていた。
俺の一歩に合わせるように、隣で歩くショートパンツのベルトループについた細いシルバーチェーンが、微かにチャキ、と鳴る。
彼女のバッグの中で、俺の書いた言葉たちが一緒に揺れているのだと思うと、足元がふわふわして、いつもの道が、まるで雲のように感じる。
並んで歩く沈黙が、少しも重くない。
夕暮れの街を吹き抜ける、潮の匂いがまざった風。頬に触れるそれが心地いい。
「コーヒー豆買いに行くんでしょ? お店どこにあんの」
後ろ手を組んで上体を傾けた山葉さんが俺を覗き込んだ。こうして並んで歩くたびに思うけど、この人、イメージより背が低い。前にそう言うと、偉そうってこと? と言われたのでもう言わないけど。
「……あ、すみません、なんでしたっけ」
「いや話聞いてよ。お店どこにあんの? ってば」
「ああ、それは……」
店長ご用達のコーヒーショップはここから五分もかからない。でも、隣町にあればいいのにな、なんてことを思った。




