おねえさん、なんでもしてくれるらしい
ノートPCの液晶画面から放たれる青白い光が、間接照明だけを点けた薄暗い部屋を四角く切り取っている。
俺はキーボードの上に指を置いたまま、無意識のうちに、自分の唇にそっと人差し指を這わせていた。
――ちゅっ、と。
数日前、アパートの外廊下で、朝の光の中で押し当てられたあの柔らかな感触と、少しだけ温度の高い吐息。
ダメだ。思い出すだけで、指先から変な汗が滲んでくる。タイピングの速度が明らかに落ちているし、さっきから同じ文章を三回は書き直していた。
「……集中しろ、俺」
誰にともなく呟いて、両手で軽く自分の頬を叩く。
気を取り直して、俺は再び画面へと向き直った。
開いているのは、趣味で書いているnoteの編集画面だ。今日は、最近夜によく聴いているスコットランドのインディーバンドと、それに合わせて開けたアイラモルト――正露丸のような癖のある例のスコッチウイスキー
についての記事を書いているところだった。
レコードのジャケットと、琥珀色の液体の入ったグラスの写真をレイアウトしていく。
以前は「この照明の角度ならセンス良く見えるだろう」という下心ばかりが先行していたが、最近は「このざらついたギターのノイズには、ピート香の強いウイスキーが合う」という、自分なりの感覚を信じて言葉と写真を配置できるようになっていた。
コンスタントに記事を更新しているおかげか、最近は読者の数も少しずつ増えてきている。
見知らぬ誰かからの「スキ」の通知や、「この組み合わせは気になります」というコメントがつくたびに、画面の向こうに自分の言葉が届いているという確かな手応えがあった。
以前ならここで『スモーキーな香りがもたらす形而上学的な孤独が――』なんて小難しい単語で自意識をコーティングしていたところだ。
でも、俺の指は自然とバックスペースキーを長押しして、気取った一文を消去していた。
だんだん集中してきた。周りの音が消えて、思ったことが文字になり、画像のレイアウトに意識が乗っていく。
消去した一文の後少し考えてから、『最初は薬みたいだと思ったけれど、ジャンクなポテチと合わせると意外と合うし、体の深いところが湿っていく気がする』という、単に思ったままの感想。
ふと、視線を横に向ける。空っぽのソファの左端には、彼女が持ち込んだ専用のクッションが転がっている。
『なんか、めっちゃ鈴木くんっぽいなーって』
いつか、俺の痛々しい文章を読んで笑い飛ばしてくれた、あの飾りげのない声が耳の奥で蘇る。
必死に背伸びをしているのは何も変わらないけど、背伸びをしてる分視界が高くなっているのかもしれない。
最後の段落をまとめ、エンターキーを叩いて記事を公開する。
ふう、と息を吐いて床に仰向けに寝転ぶ。ちょうどそのとき、ローテーブルの端に置いていたスマホが、ブブッと短いバイブレーションを立てた。
スマホを取って、仰向けに寝たままで画面を見ると、メッセージアプリの通知だった。送り主は、バイト先である『ポラリス』の店長だ。
『お前のnote読んでみたが、まあ悪くねえな』
俺は思わずむせそうになった。
めんどくせぇと言っていたくせに、あのボサボサ頭の小説家は、あれからこっそりと俺の文章をチェックしていたらしい。恥ずかしさで顔が熱くなったが、次のメッセージを読んで、俺の目は釘付けになった。
『そのうち記事が溜まったら、ZINEでも作ってみるか? うちの店で百五十円くらいで置いてやってもいいぞ。そう言うの流行ってるけど、俺がつくるのもめんどくせぇしよ』
「……マジか」
声が漏れた。
ZINEというのは、要するに個人が自由なテーマで作る小冊子のようなものだ。カルチャー界隈では割とポピュラーな表現手法で、写真集やエッセイ、ニッチな趣味のまとめなど、手作りの温かみとマニアックな熱量が魅力とされている。
俺の書いた文章が、物理的な『本』のような形になって、あのポラリスの棚に並ぶ。
もちろん、レイアウトを組んだり、紙を選んだり、印刷所に入稿したり、ホチキスで留めたりと、作る手間を考えればひどく面倒くさい作業だ。だが、それでも。
指先が震えるのがわかった。これは、高揚しているのだと思う。
プロの小説家である店長からの、不器用で、でも確かな応援。俺のやっていることがただの自己満足から、ほんの数ミリだけ外の世界へ足を踏み出したような気がしたのだ。
半ば無意識に、仰向けに寝たままの姿勢で拳を握り、天上に向かって突き出す。
……と、そのとき。視界の端に人影があることに気付く。その人影は、とても優しい目を俺に向けている。
「……っ!?」
がばっと音を立てて体を起こす。ノートPCを挟んだローテーブルの反対側で、両頬に手を当て、俺を見つめている人、つまりは山葉さんがいつのまにか来ていた。
「あ、気づいた」
困惑している俺をよそに、山葉さんは小さくおつかれー、と口にした。
肩紐がずり落ちそうな薄手のキャミソールの上に、大きめのシャツをだらしなく羽織った姿。いつも通りの完全なオフの姿だ。
「び、びっくりしましたよ。チャイムくらい鳴らしてくださいよ」
「鳴らしましたケド?」
「え、そうなんですか?」
「なんなら、入るよーっていったら、どうぞーって答えてたでしょ。なんかぼんやりした感じだったけど」
「……言われてみれば」
そんな気もする。
「なんか集中してるみたいだったし。か……、面白いからちょっと観察してた」
山葉さんは悪びれもせずそう言うと、いつものソファの定位置に移動して腰を下ろし、長い生足をペロンと伸ばした。
ちょっと前にあんな出来事があったというのに、彼女はまるで何事もなかったかのように、いつも通りの気怠げなトーンを崩していない。いや、もしかしたら彼女のことなので内心そうでもないのに平気なふりをしてる説もある。
なんか悔しいし、意識するとうまく話せなくなりそうなので、俺も平気なふりをした。
「で? 何かいいことでもあったわけ?」
「……まあ。ちょっと」
俺は照れ隠しに頭を掻きながら、店長からのメッセージについてかいつまんで説明した。自分の文章が認められたこと、そしてZINEとして店に置いてもらえるかもしれないこと。
「へえ、すご! 店長さん公認じゃん。やったね」
山葉さんは自分のことのように目を丸くして、パチパチと小さく拍手をしてくれた。こういうとき、この人はけっこう普通と言うか、純粋な反応をしてくれる。
「まだ作ると決まったわけじゃないですけどね。手間もかかりますし」
「とか言ってどうせ作るんでしょ。いくらくらいで売るの? チロルチョコ何個分?」
「五個分くらいですね。……でも、嬉しいです。ちょっとずつですけど、何かに繋がってる気がして」
「ん。良かったじゃん」
山葉さんはクッションを抱え込みながら、ふにゃりと柔らかく笑った。
「あたしも最近の鈴木くんの記事、前より面白いと思うし。前はなんかわかんないカタカナばっかで、辞書引かないと読めないんじゃないかって思ってたけど。鈴木くんが何を見てるのかよくわかる気がする」
それは、どんなプロの講評よりも、俺の胸の奥にすっと染み込んでくる言葉だった。あれからもずっと読んでくれていて、こうしてたまに感想をくれる。
それがあるかないかだけで、多分こういう活動をやっていけるかどうかに直結する気がした。
「ありがとうございます」
俺が素直に礼を言うと、山葉さんは思いついた、とばかりに三白眼を細めた。
「じゃあ、頑張ってる鈴木くんにご褒美あげよっか。なんか一つだけ、お願いきいてあげてもいーよ」
「……えっ」
予想外の提案に、俺は声を変に裏返らせてしまった。
ご褒美。お願い。
その言葉の響きと、ソファの上で少しだけ身を乗り出してくる彼女の艶っぽい視線が、先日のアパートの廊下での『不意打ち』の記憶を強制的に呼び起こす。あれは本当に痛恨の一撃だったし、それゆえに今は話題にすら出しにくい。
「な、なんでもいいんですか?」
恐る恐る尋ねると、山葉さんは口角をクイッと上げて、ゆっくりと頷いた。
「ん。なんでもいいよ」
挑発するような、試すような、甘い響き。
なんでもいい。その言葉が持つ破壊力に、俺の脳内コンピュータは瞬時にショートしかけた。
今ここで、もっと踏み込んだ関係を求めるべきなのか? それとも、一緒にお出かけしたいとか、そういう無難なことを言うべきなのか?
いや、さらにストレートにえっち星人としての要望を伝えてもいいのだろうか。
俺は数秒間、必死に思考を巡らせた末に、深く息を吐き出して答えた。
「……じゃあ、保留で。ここぞって時に使わせてもらいます」
山葉さんは一瞬ポカンとした後、「ふーん」とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ヘタレ。まあいいけど」
「ヘタレって言わないでください。大事に取っておきたいだけです」
「はいはい」
彼女は呆れたように笑うと、ローテーブルに置いてあったプロジェクターのリモコンを手に取った。
部屋の明かりが落とされ、壁に海外のリアリティショーが映し出される。男女が南の島でドロドロの恋愛ゲームを繰り広げる、頭を空っぽにして観られる番組だ。最近はこれを観ながらがら二人でぶつくさ文句を言うのが俺たちの間では流行っている。
俺たちは並んでソファに座り、どうでもいいツッコミを入れながら時間を消費していた。
ふと、山葉さんの手元のスマホが短く震えた。
彼女は画面をちらりと見て、少しだけ考えるような素振りを見せた後、パタパタとフリック入力を始めた。
「誰からですか?」
俺が何気なく尋ねると、山葉さんはスマホから顔を上げずに答えた。
「んー。本田ちゃん。なんか、生協のバイトの子たち中心で、帰省してないメンツで海でBBQするから来ないかって」
「へえ。海でBBQですか」
俺は少し意外に思って、隣の彼女の横顔を見た。
「行くんですか? 山葉さん、そういう表向きの『女神モード』で参加するイベントって、気を使うから苦手なんじゃ……」
山葉さんはスマホの画面を伏せ、プロジェクターの光を浴びながら少しだけ首を傾げた。
「んー……まあね。基本的にはだるいんだけど」
彼女は抱えていたクッションに顎を乗せ、ちらりと俺の方を見た。
「でも、たまにはいいかなって。本田ちゃんに凄い懐かれてて、あんま断るのもなー、と思って。あとシンプルに肉食べたいし」
「肉ですか」
「そ。……それに」
山葉さんは少しだけ視線を逸らし、ボソリと付け足した。
「鈴木くんも、ちょっとずつ自分のこと頑張ってるみたいだし。あたしも、ちょっとくらい素で周りと接してみようかなって。……ほんのちょっとだけね」
プロジェクターの青白い光の中、俺は隣の横顔をまじまじと見つめてしまった。
あの重たい『女神』の装甲を、外の世界でも少しだけ外してみるという宣言。俺がバックスペースキーを押して気取った言葉を消したように、彼女もまた、この密室の外で、自分に合った呼吸の仕方を見つけようとしているのだろうか。
「それに、それで疲れたら鈴木くんが八つ当たりさせてくれるからいっかなって」
そう言ってフフン、と意地悪そうに笑う山葉さん。俺はあえてその無茶苦茶な発言に抗議はしなかった。
「いやまあ、別にいいですけどね」
そう答えた直後、今度は、俺のスマホがブブッと震えた。
画面を見ると、同じく本田からのメッセージだった。まさか俺と山葉さんが今一緒にいるとはわかるはずもないが、少しギョッとする。
『やい鈴木、帰省しないって言ってたし、どうせ夏休み暇してんでしょ。肉焼きにきなさいよ』
相変わらずの憎まれ口から始まる文面に、俺は思わず苦笑した。
『どうせ謎のこだわりとかがあって焼くのうまいんでしょ。あとオシャレくさい酒とか持ってきて。なんか知らんけど、あんた誘ってほしいって子がいるからついでに声かけてやった』
「……なんだこれ」
俺が呆れたように呟くと、山葉さんが小首をかしげた。なに? とその視線が言っている。
「多分これ同じやつかな。俺もバーベキュー誘われました」
「え? そういえば本田ちゃんと同じクラスなんだっけ」
「まあ一応……。肉焼き係の要請が来ました。多分ガチで利用する意図だと思いますけど。本田は俺に対して横暴なんですよ」
俺はスマホの画面を彼女に見せながら言った。
「あと、なんか俺を誘ってほしいって人がいたみたいで……ついでに呼ばれたっぽいです」
「へえ……誘ってほしいって、誰?」
「いや、全然見当もつきません。ポラリスの常連さんとかですかね……?」
「ふーん?」
俺にわからないのだから、山葉さんにもわかるはずがない。
ただ、山葉さんは、俺も誘われたことを嬉しそうにしているように見えた。気のせいかもしれないけど。
「くるでしょ?」
「まあ、はい。断ると本田うるさそうだし。それに……」
「それに?」
両手を頬にあて、何やらウキウキした様子で俺を見上げる山葉さん。それに……から続けようとした言葉を今彼女に見つめられながら口にするのはさすがに照れくさいものがある。
「……まあ、肉、焼かないといけないみたいなんで」
俺が少しだけ様子を窺うように言うと、山葉さんはぽふっと音を立ててクッションに沈み込み、なにやらニマニマした表情となった。
「へー?」
多分俺の内心を悟られている。あとさっきからこの人へそが見えている。腹が白いなぁ……。で多分、今見てたこともバレた。
「そ。じゃあ、鈴木くんには美味しいお肉焼いてもらおっかな。あ、あれ持ってきてよ。この前、プルドポーク作ってくれた時にすり込んでたスパイス」
「あー、バーベキューピットガイズのやつですか」
「それそれ。イッツスメルグッド」
「それじゃ本気で肉焼く人じゃないですか」
「そーだよ?」
さすがにこう、夏の海で大学生でバーベキューという青春感の強いイベントに参加するわけなので、調理以外にもっとこう……。と少し思う。
「あ、鈴木くんさぁ、水着って何色が好き?」
喜んで肉を焼きに行こうじゃないか、と思う。
「………白、ですかね」
「真顔やめてよ。素直か」
そう言っておへそに手を当てて笑う山葉さんと、苦笑いする俺。
プロジェクターの青白い光の中、俺たちは再び並んで画面を眺め始めた。
夏の海でのBBQ。多少の憧れはありつつも、ちょっと身構えざるをえない、陽キャたちのイベント。
だけど、隣に座る彼女が少しだけ素顔で参加しようとしているその場所に、俺も一緒にいることができる。
俺は無意識のうちに、正しい肉の焼き加減を頭の中でシミュレーションし始めていた。




