おねえさん、キスをする
ひとしきり笑った後、ふと我に返った山葉さんが、ハッと息を呑む気配がした。
彼女はすぐさま居住まいを正し、大学にいるときのような、完璧な『生協の女神』の微笑みを口元に浮かべようとした。だが自分の着ている大きく襟首の開いたヴィンテージのバンドTシャツと、太ももをむき出しにしたショートのダメージデニムという出で立ちに気づき、ぴたりと動きを止める。
明らかに困惑したように三白眼を泳がせる彼女を見て、俺は少しだけおかしさを噛み殺しながら立ち上がった。
「山葉さん、大丈夫ですよ。この人は」
俺は膝の埃を払いながら、呆れ顔でこちらを見下ろしている店長と、その横で不思議そうに首を傾げている陶子ちゃんを手で示した。
「俺のバイト先の店長と娘さんの陶子ちゃんです。……店長、こちらは大学の先輩の山葉さんです。昨夜、俺一人じゃ終わらなそうだったから、わざわざ手伝いに来てくれて」
「……あ、初めまして。山葉と申します。勝手に昨晩はお邪魔してしまって、その……」
山葉さんはロックな服装のまま、ちぐはぐなほど丁寧なお辞儀をした。
「いやいや、こっちこそ急に店を放り出して悪かったな。手伝ってくれてありがとな、お嬢ちゃん」
店長はボサボサの頭を掻きながら、山葉さんの派手な出で立ちと、少し身構えている俺の顔を交互に眺めた。一瞬だけ面白そうに眉を上げたものの、すぐにふっと息を吐いて目尻を下げる。それ以上の詮索はせず、ただ鷹揚に笑ってみせた。
「おねーちゃん、かみー、ここのところだけ、あおい!」
陶子ちゃんが、山葉さんのインナーカラーを指差して無邪気に笑う。
「あ、うん。青いんだよー。触ってみる?」
山葉さんは少しだけホッとしたように目元を緩め、陶子ちゃんの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
首を傾けて、内側だけ染まっている青い髪の毛先を差し出すと、陶子ちゃんはおずおずと小さな手でそれに触れ、「わぁ……」と目を輝かせた。
「きれー! それにいいにおいがする!」
「ふふっ、ありがと。陶子ちゃんの髪もつやつやしてて可愛いね」
山葉さんは悪戯っぽくウインクをして、陶子ちゃんの小さな鼻の頭を指先でちょんと突いた。きゃっきゃっと笑う陶子ちゃんの頭を、優しく撫でる。
子どもに向けるその笑顔は、生協での計算された『女神』の微笑みとも、俺の部屋で見せる気怠げな表情とも違う。なんというか、柔らかい。
そんな彼女の意外な一面を目の当たりにして、俺はなんだか少しだけ得をしたような、胸の奥がくすぐったくなるような心地よさを感じていた。
※※
すっかり明るくなった外へ出ると、初夏の強い朝の光がアスファルトを白く照らしていた。
徹夜明けで足元がおぼつかない俺たちを見かねて、店長が車でアパートまで送ってくれることになった。店長の愛車は、古い年式のくすんだグリーンの外国製SUVだ。
「わたし、すずきのおにーちゃんのとなりがいい!」
後部座席のチャイルドシートに収まった陶子ちゃんが、俺の腕をきゅっと掴んで離さない。
「はいはい。じゃあ俺が後ろに乗りますね」
必然的に、山葉さんは助手席に座ることになった。
エンジンがかかり、車が走り出す。少し開いた窓から、朝の海風が車内へと流れ込んできた。
「おにーちゃん、きのうね、パパとふたりでね、おっきなスイカたべたの!」
「へえ、いいな。甘かった?」
「うんっ! あまかった!」
陶子ちゃんの他愛のないおしゃべりに相槌を打つ。だが、徹夜明けの脳は徐々に機能の限界を迎えつつあった。そう言えば俺はなんだかんだいって、昨日の昼間から働いていることに気付く。深夜のナチュラルハイ状態が消え失せ、急速にだるい。
車の心地よい揺れと、シートの適度な柔らかさが、容赦なく俺のまぶたを重くする。
「鈴木、お前目ぇ半分閉じてるぞ。限界なら寝とけ」
運転席の店長が、バックミラー越しに苦笑混じりに声をかけてきた。
「いや、大丈夫っす……。陶子ちゃん、スイカの種はどうしたの?」
あくびを噛み殺しながら尋ねると、助手席の山葉さんが少しだけシートに体を預けるようにして、後ろを振り返った。
朝の光を浴びた彼女の横顔は、昨夜の密室での艶やかな表情とは違い、どこか穏やかに凪いでいる。
俺が必死に眠気と戦いながら陶子ちゃんの話に相槌を打っているのを、彼女は口元を小さく緩めて、ただ静かに見つめていた。いや、ときどき俺が舟をこぐように眠気をこらえてるのをみて、くすくすと笑ってもいる。
「いいお兄ちゃんしてんね。鈴木くん」
なんて、普段の俺のヘタレっぷりを知る人に言われるとなんか微妙にむず痒い。
ただ、その表情はその柔らかく、ぬくい。余計眠くなる。俺の意識はまどろみの波打ち際を漂い続けていた。
アパートの前に着き、店長と陶子ちゃんに礼を言って車を降りる。
じりじりとした朝の日差しと、セミの鳴き声が、現実に引き戻すようにまとわりついてきた。
築年数の古い格安アパートは、容赦ない夏の日差しを浴びて外壁が白茶け、いつもより少しうらぶれて見えた。
カン、カン、と。鉄骨むき出しの錆びた外階段を上る足音が、静かな朝の住宅街に響く。俺の引きずるような重たいスニーカーの音に混じって、山葉さんの少しだけ軽やかな足音が、半歩先を先行していた。
階段を上りながら、俺は口の端を引き上げるような、重たいあくびを一つこぼした。
「……なんか、店長さん。雰囲気のあるオジサンだよね。モテそう」
前を歩く山葉さんが、塗装の剥げかけた階段の手すりに軽く指を滑らせながら、ふと思い出したように言った。
俺は眠気でうまく回らない頭のまま、彼女の背中を見つめて、ぼんやりと口を開いた。
「山葉さんは、あんな感じのオジサンが好みだったりするんですか」
早くシャワーを浴びてベッドに倒れ込みたい。限界を迎えた脳はそんなことばかりを処理していて、口から出た言葉のピントが自分でもよくわかっていなかった。
山葉さんは階段の途中で振り返り、少しだけ目を丸くしてから、意地悪な笑みを浮かべた。
「なに、やきもち?」
「そうですよ」
「え」
あれ、俺何言ってんだ? と少し思ったが。いや別にいいのか? という気もする。頭がよく回らない。今はただ、重たい足を持ち上げて階段を上ることで精一杯だった。俺はため息混じりにあっさりと肯定し、立ち止まった山葉さんの横を通り過ぎる。
「さっきも……惜しいところで店長がきて。正直、残念だったし」
あの薄暗がりで、互いの吐息が混ざり合いそうになった瞬間。あの続きがどうなっていたのか、知りたかった。頭の片隅にあった考えが、そのままぽろりとこぼれ落ちていた。
カン、カン、と。自分の規則的なスニーカーの音だけが響く。
「……」
いつもなら、ここでからかいの言葉や、余裕のある笑い声が背中越しに降ってくるはずだ。だが、後ろからは何も聞こえてこない。ただ、少しの間の後、静かな足音だけが俺の後ろを追ってきている。あー、なんかよくわからないけど、別に大丈夫だったか。
俺はひどい眠気でぼんやりとする頭のまま、なんだか静かだなとだけ思い、振り返ることもなく重たい足を動かし続けた。
外廊下を進み、並んだ二つのドアの前に着く。奥側が俺の部屋だ。
「じゃあ、山葉さん。手伝ってくれてありがとうございました。おやすみなさい」
俺は欠伸を噛み殺しながら短く挨拶をし、自室のドアノブに手をかけた。
ガチャリ、と鍵を開けようとした瞬間。
くいっ、と。
俺のTシャツの裾が、後ろから軽く引っ張られた。
「……?」
不思議に思い、振り返ろうとした。
その動作の途中で、くんっ、と。頬に手を当てられ、そっと引き寄せられた。
驚きで声を出そうとした口が開くよりも早く、俺の目は、すぐ近くにある彼女の瞳、が静かに閉じるさまを映した。
鼻先を掠めたのは、彼女の香り。ラストノート、というやつだろうか。香水をつけて時間がたったことで、彼女自身の匂いと混ざり合って香る、花束のような清潔さと甘さ。
次の瞬間、俺の唇に、信じられないほど柔らかくて、瑞々しく濡れた感触がそっと押し当てられていた。
白飛びしそうなほど眩しい初夏の朝の光が、一つに重なり合った二人の影を、外廊下のアスファルトに濃く落としている。胸元に、柔らかな感触が伝わる。
海側から吹き抜けた風が、彼女の鮮やかなブルーのインナーカラーを空中に泳がせた。
こんなに近くで、目を閉じている彼女。
睫毛が驚くほど長い。肌理が細かくて、色素が薄いことも、目の下の泣きほくろがちょっとだけ茶色いことも、はっきりとわかる。
眠気が、一発でどこかに消えた。
だから、俺も目を閉じても大丈夫だ。そう思えたから、そうする。
まるで映画のワンシーンのように、時間がゆっくりと引き伸ばされていくような錯覚を覚える。
耳をつんざくようだった蝉時雨のノイズがすっと遠のき、世界から完全に音が消え去った。ただ、お互いの重なる吐息と、早鐘のように打つ自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。
ちゅっ、と。
微かな、けれどひどく扇情的な水音を立てて、押し当てられていた熱が離れていく。
ぱちりと目を開けると、至近距離に、少しだけ爪先立ちになって背伸びをしている山葉さんがいた。
彼女は、俺の呆然とした顔を見て、タレ目気味の三白眼を妖艶に細め、大人びた笑みを浮かべていた。
「……惜しかったよね。だから、続き」
それだけを甘く囁き残すと、彼女は悪戯を成功させた猫のように目を細め、俺の胸元にそっと指先を這わせた。
そして、名残惜しむような流し目を一瞬だけ向け、ひらりと身を翻す。日の加減で亜麻色のように見えるアッシュブラウンの髪、その内側の鮮やかな青の髪。二つの色が朝の光の中でふわりと軌跡を描き、彼女は自分の部屋のドアを開け、中へと消えてしまった。
俺はドアノブに手をかけた体勢のまま、完全に石化していた。
何が起きたのか。脳が状況を処理するのに、数秒を要した。
熱。唇に残る、確かな柔らかさと熱。
「っ……!?」
遅れてやってきた致死量の動揺と破壊力に、俺は片手で口元を強く押さえ、自分の部屋のドアにズルズルと背中をもたれかからせた。
脚の力が抜け、持たれないと立っていられない。
なんだ、今の。あー……。
俺が悶絶しつつも表面的には黙り込み、ただ顔を手で覆うこと数秒。
隣のドアノブが、カチャリと極めて慎重な音を立てて回った。
細く開いた数センチの隙間から、様子をうかがうように山葉さんがひょこっと顔だけを覗かせる。
だが、まだ俺が廊下にいたのは予想外だったのか、彼女はハッと息を呑んでびくん! と固まった。それから。
「……い、言うの忘れてたから……。お、おやすみ……っ」
上ずった声。
ほんの一瞬だけ見えたその顔は、耳の先まで真っ赤に染まり、いつもの気だるげな眼が潤んで、かすかに泳いでいた。
言い捨てるようにそれだけを告げると、今度こそバタン! と少し乱暴な音を立てて、ドアは完全に閉ざされた。
再び静寂が戻った朝の廊下。一人残されるバカ。
俺は今度は両手で顔全体を覆った。そして、ドアにもたれた背をずるずると下げていき、もう完全に廊下にしゃがみ込む。
「くっそ……あの人……」
声に出せない呻きを喉の奥で噛み殺し、俺はただ、胸の奥で鳴り響くメロコアみたいな心の音を押さえつつしばらくしゃがみ込んだままでいた。
あー、あー、あーもう……。ほんとうにもう……あー。ダメだ。あー……。
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