おねえさん、あと一ミリの距離
「……終わっ、たぁ……」
最後の段ボールを畳み終え、俺はフローリングの床に大の字になって倒れ込んだ。
「おつかー。……さすがに、ちょっと腰きたかも」
山葉さんも俺のすぐ横にペタンと座り込み、壁にもたれかかって大きく息を吐き出した。
整然と並べ直された本棚。怪談本や旅行記が面出しされ、夏らしいレイアウトに生まれ変わった店内。
「山葉さん、本当にありがとうございました。一人じゃ絶対無理でした」
「んー。まあ、あたしも結構楽しかったし? それに……」
彼女は首を巡らせて、すっかり明るくなった窓の外の気配を感じ取るように目を細めた。
「『朝まで夜更かしして、どうでもいいことを話す』っていう、夏休みっぽいことリスト、いっこ消化できたしね」
「ああ……確かに」
俺は体を起こし、彼女の隣に並んで座るように膝を抱えた。
徹夜明け特有の、頭の芯がふわふわと浮き上がるような疲労感と、それ以上の満ち足りた達成感。
静かな店内に、外の道路を走る早朝のトラックの音が遠く聞こえる。
ふと、隣に座る山葉さんの手が、床の上に投げ出されているのが目に入った。
埃で少し汚れた、細くて白い指先。
俺は、自分でも理由がわからないまま、ただ吸い寄せられるように、自分の手をそっと動かした。
俺の小指が、彼女の小指に触れる。
ビクッと、山葉さんの肩が小さく揺れた。
だけど、彼女は手を引っ込めなかった。
触れ合った小指の先から、冷房の切れた店内の空気よりも少しだけ熱い体温が、じわりと伝わってくる。
拒絶されないことに安堵しながらも、俺の心臓は少しだけペースを上げ始めた。
嫌がられたらどうしようという恐怖を、それに触れたいという衝動が上回っていく。
息を呑む。彼女の細い指が、俺の指に絡みついてきたからだ。
そっと、手のひらを重ね合わせる。
沈黙が、やけに重く、そして甘く感じられた。
繋いだ手から、どくどくと脈打つ鼓動がダイレクトに伝わってくる気がする。
ゆっくりと、山葉さんがこちらに顔を向けた。
徹夜明けで少しだけ腫れぼったい、とろんとした目元。その瞳が、微熱を帯びたように潤んで、俺を真っ直ぐに捉えている。
視線が絡み合い、火傷しそうなほどの緊張が二人の間に張り詰める。喉の奥がカラカラに乾いていた。
彼女の小さな唇が、微かに震えるように開いた。何かを言うのかと思ったが、言葉は紡がれず、代わりに小さな吐息だけが漏れる。
吸い寄せられるように、どちらからともなく顔が近づいた。
ミリ単位でじれったく縮まっていく距離。彼女の長いまつ毛の震えまでが、はっきりと見える。
吐息が、俺の唇に触れる。体温で温められた柔らかな甘い匂いが、古い紙と埃の匂いを濃厚に塗り替えていく。
このまま触れてしまっていいのだろうかという最後の逡巡は、彼女が静かに目を閉じる仕草によって完全に掻き消された。
俺も、抗うことをやめてゆっくりと目を閉じる。あと数センチ。
――突然、金属が激しく擦れ合う暴力的な破裂音が、店内の静寂を無惨に切り裂いた。
「っ!」
「わっ!?」
俺たちはバネ仕掛けのように弾き飛び、慌てて距離を取った。
勢いよくシャッターが持ち上げられ、朝の暴力的な陽光が店内に一気に流れ込んでくる。
「わりいわりい鈴木、昨日は助かった! 朝になったし、お前に会いたいらしいから店に連れてきちゃったよ」
ガラガラとドアを開けて入ってきたのは、片手で五歳になる娘の陶子ちゃんの手を繋いだ、ボサボサ頭の店長だった。
「あ、すずきのおにーちゃんだー!」
陶子ちゃんが俺の顔を見て嬉しそうに声を上げるが、俺と山葉さんは、床に座り込んだまま、突然の出来事に目を丸くしてポカンとしていた。
「……お?」
店長は、綺麗に片付いた店内を見渡した後、床に座る俺と、その横にいる見慣れないロックな装いの美女――山葉さんを交互に見比べた。
「鈴木なにやってんだ? その子は……」
店長は繋いでいた娘の手を少しだけ引き寄せ、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。
「おにーちゃん、そのおねーちゃん、だれー?」
無邪気な陶子ちゃんの声が、静まり返った店内に響き渡る。
沈黙の中、俺と山葉さんはゆっくりと顔を見合わせた。
徹夜明けの変なテンションのせいか、それともギリギリのところで邪魔が入った今の状況があまりにも間抜けだったせいか。
どちらからともなく、小さく肩が震え始める。
「……っ、ふ、あははっ」
「ちょ、なにそれ……はー、もう…」
俺が吹き出すのと同時に、山葉さんも目を擦って苦笑した。
恥ずかしいとか以前に、大昔のロマンティックコメディ映画みたいな状況のバカバカしさと、徹夜してゆるくなっている沸点のせいで、どうしようもないおかしさが込み上げてくる。
なんだこれ。俺はヒュー・グラントかよ。山葉さんはメグ・ライアンか? いつの時代の映画だよそれは。
苦笑する店長と、わけもわかってないが人が笑ってるのでつられて楽しそうにしている陶子ちゃんをよそに、朝の光に照らされたポラリスに、俺たちのくだらない笑い声がいつまでも響いていた。
ただまあ、店長タイミング悪いな。惜しかった……。と言う気持ちがあることは否定しない。
次回「おねえさん、キスをする」




