おねえさん、徹夜でことにあたる
「……えっ?」
俺は目を丸くし、液晶の光に浮かぶその文字列を二度、三度と見返した。遅れてその意味を理解する。
のしかかっていた全身の疲労感が嘘のように吹き飛び、俺は弾かれたように立ち上がった。薄暗い店内を、入り口の方へと小走りに向かう。
半分下りたシャッターと、ガラス張りのドアの向こう側。夜の商店街の街灯に照らされて、見慣れたシルエットが立っていた。
鍵を開ける手が、少しだけもつれる。ガチャリ、と音を立ててガラスドアを横に引いた。
「ご利用ありがとうございますー。ご注文の品をお届けにあがりましたよー」
そこにいたのは、首元がざっくりと開いたヴィンテージのバンドTシャツに、ダメージの入った黒のショートデニム姿の山葉さんだった。
無造作に下ろされたアッシュの髪からは鮮やかなブルーのインナーカラーが覗き、耳元のインダストリアルピアスが街灯の光を反射して鈍く光っている。レザーのチョーカーが妙に色っぽい。
手には某ファストフード店の見慣れた茶色い紙袋と、冷たい結露のついたペットボトルが二本提げられている。
「山葉さん……!
声が裏返った。ここは俺のバイト先だ。来るはずのない人間が、深夜に突然現れた事実に脳の処理が追いつかない。
だが、ジャンクフードの暴力的な匂いが鼻をくすぐった瞬間、夕方からずっと胸の奥に刺さっていた冷たい落胆の棘が、じゅわっと溶けていくのがわかった。自然と頬の筋肉が緩む。
「うわ……外から見ても散らかってんなーって思ったけど、これ、まだ全然終わってないじゃん。あとどれくらいかかんの?」
「……順調にいって、始発が動く頃ですかね」
俺がげっそりとした声で答えると、山葉さんは「うっわ、絶望的」とケラケラ笑った。
「それより、どうしてここに?」
「なんでって。まあ暇だし。手伝おうかと思って。優しいでしょ」
彼女は悪びれる様子もなく、ひょいと紙袋を持ち上げてみせた。
「映画のお供にするはずだったジャンクフード、せっかくだから買ってきた」
「でも、ここは……」
「知ってる。ポラリスでしょ。鈴木くんのバイト先。前に本買いに来たことあるし」
「入ってもい?」
一応ここは俺の仕事場であり、外の世界だ。山葉さんは俺の領域に踏み込むとき、ちゃんとこういう風に境界線を伺うような聞き方をする。
「あ、はい。どうぞ」
山葉さんは俺の招きに応じて、半分下りたシャッターの下をひょいと潜り抜け、ガラスドアの隙間から店内へとスルリと入り込んできた。まあ、あの店長のことだから面白がるだけで別に怒ったりはしないだろう。
薄暗い、間接照明だけが灯るポラリスの店内。
本とレコードとアンティーク雑貨がひしめくこの空間に、大学の『女神』としての姿でもなく、俺の部屋でしか見せないはずの、彼女の『素』であるロックな出で立ちの女が立っている。
無造作に下ろされたアッシュの髪とレザーの質感が、見慣れた古本屋のアンティークな薄暗がりに驚くほど溶け込んでいた。俺は思わず息を殺し、半分開いたままのシャッターの外へ、誰にも見られていないかと急に不安になって視線を走らせた。
冷房の切れた店内にいるせいだけではない、じっとりとした熱が首筋に浮かぶ。胸の奥で、どこかで聴いた覚えのあるエモーショナルなジャズの旋律が流れている気がした。
「うわ……夜のここ、なんかすごいね」
山葉さんは紙袋を提げたまま、薄暗い店内をキョロキョロと見回した。
天井まで届きそうな本棚の影。鈍く光る真鍮のランプシェード。床に積まれたままの、怪しげな海外文学の山。
「なんか、魔法使いの工房みたい」
彼女はタレ目気味の三白眼を少しだけ輝かせ、古い地球儀を指でくるりと回した。
その横顔は、単館系アート映画のヒロインのようにも、悪戯を思いついた少年のようにも見えた。
「……魔法使い、ですか」
「ん。そう。誰にも内緒の場所」
山葉さんは俺の方を振り返り、悪戯っぽく唇の端を吊り上げた。
なんだか、体温が上がったような気がする。
見慣れたバイト先が、彼女が足を踏み入れた瞬間に、別の場所に変わってしまったような気がする。魔法使いの工房、とはちょっと違う。秘密基地、の方が俺の感覚に近い。
「ほら、どこで食べんのこれ。ハンバーガー冷めちゃうよ」
「あ……こっちです。カウンターの裏なら、スペース空いてるんで」
俺は慌てて鍵を閉め直し、彼女の背中を追うようにして、古い本とレコードの匂いが充満する朝まで終わらない秘密基地の奥へと足を踏み入れた。
カウンターの裏側は、かつてカフェスペースだった頃の名残で、二人掛けの小さなアンティークテーブルと革張りの椅子が置かれている。
俺はクリップライトの向きを調整し、薄暗い空間にオレンジ色の小さな灯りを落とした。
「ほい、ダブルチーズバーガー。ポテトも冷めないうちにどーぞ」
山葉さんが茶色い紙袋から、油の染みた包み紙をテーブルに並べる。強烈な肉とチーズの匂いが、古本のカビ臭さを一瞬で駆逐していく。
「ありがとうございます。マジで生き返ります」
俺がペットボトルの黒烏龍茶を受け取ると、山葉さんはハンバーガーにかぶりつく前に、ふと店内の奥、レジカウンターの後ろに鎮座するレコードプレーヤーに目を向けた。
「ねえ、鈴木くん。なんか音楽かけてよ。なんかいっぱいレコードとかあるし、無音じゃ寂しいじゃん」
「音楽、ですか。どんなのがいいですか?」
「んー、鈴木くんのおすすめで、イイ感じの。深夜のハンバーガーに合うやつ」
楽しそうに、彼女はタレ目を三日月の形に細めた。
俺は立ち上がり、壁際にズラリと並んだレコードの棚の前に立つ。以前の俺なら、いかにも『わかってる感』を出すために、ビル・エヴァンスあたりのモダン・ジャズの定番や、あるいは難解なプログレの盤をドヤ顔で引き抜いていたはずだ。
だが、今の俺は、ちゃんとこの秘密基地の空間と、目の前でハンバーガーを頬張る彼女の空気に合う音楽を真剣に探していた。知っている範囲のなかで、自分の感性で、今の二人に一番似合う音を。
指先がいくつかの背表紙を素通りし、ピタリと止まる。
選んだのは、リッキー・リー・ジョーンズのファーストアルバム。ベレー帽を被って気怠そうに葉巻を咥える女のジャケット写真が印象的な、七十年代の終わりにリリースされた一枚だ。
針を落とすと、少しのノイズの後、アコースティックギターとスウィングするようなベースのリズム、そして甘く掠れた女性ボーカルのけだるい歌声が店内に流れ始めた。
決して高尚ぶっていない、少しだけルーズで、でも確かな体温と夜の匂いを感じるような極上のポップス。
「……へえ」
席に戻った俺に、山葉さんが少しだけ目を丸くして言った。
「なんか、意外。もっとゴリゴリのジャズとか流すかと思った」
「ジャズもいいんですけど、今の気分には、これが一番しっくりくるかなって。リッキー・リー・ジョーンズっていうシンガーです」
俺が背伸びせずに正直に言うと、山葉さんは包み紙越しにハンバーガーを両手で持ち、満足そうに微笑んだ。
「ん。いいね。なんか、肩の力抜けてて好きかも」
俺は小さく息を吐き出し、手元のダブルチーズバーガーに大きくかぶりついた。
チープなパティの肉汁とチーズの塩気が、一口目よりもずっと濃厚で、明らかに体に悪そうなんだけど美味く感じられる。
薄暗い店内に流れるアコースティックギターの音色に合わせて、俺は無意識のうちに足先で小さくリズムを刻んでいた。
ハンバーガーを平らげた後、俺たちは再び段ボールの山と向き合った。
「うわ、何この本。分厚すぎ。鈍器じゃん」
山葉さんが、ホコリを被ったロシア文学の全集を持ち上げて顔をしかめる。
「気を付けてくださいよ、それドストエフスキーですから。落としたら足の骨折れますよ」
「出た、ドストエフスキー。高校の図書室にあったから読んだけど、マジで長すぎだし暗すぎじゃない?」
「え、山葉さん読んだことあるんですか? 意外です」
「『罪と罰』っしょ。金貸しのお婆ちゃん斧でやっちゃって、その後めちゃくちゃ延々と悩むやつ。てかさ、あんなウジウジ悩むくらいなら普通に自首しろよって思わない?」
「身も蓋もないですね……。でも、その悩む過程が人間の内面を深くえぐっていて……」
「鈴木くん、早口になってる。ストップ。……てかさ、ああいう昔の偉い人の本って、なんでみんな揃いも揃って登場人物の名前が無駄に長いの? ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフとか。読んでる途中で絶対誰が誰だか分かんなくなるでしょ」
「激しく同意します。俺も『カラマーゾフの兄弟』は人物相関図を作りながら読んで、途中で挫折しました」
「アニメ化してほしいよね」
静まり返った夜のポラリスに、俺たちのくだらない笑い声が反響する。
山葉さんが適当に引っ張り出したフランスのアート映画のDVDのパッケージを見れば、
「ねえこれ、主人公がアンニュイな顔してタバコ吸ってるだけのジャケットだけど、中身もそうなの?」
「大体合ってます。九十分間、タバコ吸って、なんか思わせぶりなこと言って、最後はよくわからないまま海を見て終わります」
「ザ・フランス映画って感じ。鈴木くん、こういうの好きそう。ゴールデン街でクラフトレモンサワーとか飲んでる人とかの家にありそうなやつ」
「否定はしませんけど、最近は少しエンタメのありがたみが分かってきました」
本の埃を払い、レコードをジャンルごとに仕分けし、ショーケースに怪しげな雑貨を並べていく。
一人なら絶望的だったはずの単純作業が、彼女とくだらない茶々を入れ合っていると、あっという間に時間が溶けていった。
薄暗い店内で、二人して汗ばみながら、手が埃まみれになるのも気にせずに作業をしてはそれに関係する他愛のない話をした。
深夜のテンションというか、ナチュラルハイというか、酒を飲んでいるわけでもないのに、なんか楽しくて、無性におかしい。時々、そっと山葉さんの横顔を見る。あいかわらずこのモードのときは派手な顔で、でもよく見ると少女のような無邪気さがみえる。
山葉さんは心地よさそうに鼻歌なんかを歌ってたりして、俺の視線に気づいては「なに」と笑う。
俺は、脚立の上から彼女に本を手渡すたびに、その青いインナーカラーの揺れを目で追っていた。
やがて、シャッターの隙間から差し込む光が、オレンジ色から白みがかった青へと変わっていった。




