おねえさん、デリバリーされる
古本と埃、それに微かなコーヒーの匂いが混ざり合う、雑貨屋兼書店『ポラリス』の店内。
休業日である今日は、入り口のシャッターが半分まで下ろされ、薄暗い空間に業務用の巨大な扇風機が首を振りながら生ぬるい風をかき回していた。
「鈴木、その箱は窓際の棚だ。中身は六十年代の洋画のパンフレットだから、日に焼けないように一番下の段な」
「了解です。ヌーヴェルヴァーグ系のやつですね。……ふぅ、けっこう重いっすね、これ」
知ったかぶりをしてゴダールやトリュフォーの名前を出そうとしたが、ボロが出そうなので飲み込み、額に滲んだ汗を首に巻いたタオルで乱暴に拭いながら、俺はずっしりと重い段ボール箱を抱え上げた。
大学が夏休みに入ってから、俺はこのポラリスでのバイトのシフトを大幅に増やしていた。一人暮らしの家賃や光熱費、それに最近変に凝り始めているアイラ・モルトや自家焙煎のコーヒー豆の代金を稼ぐという切実な経済的事情もある。だが、それ以上に、有り余るモラトリアムの時間を無為に消費し尽くしてしまうことへの、微かな焦燥感のようなものがあった。フランス映画の主人公みたいにアンニュイに過ごすには、俺の精神はまだ凡人すぎたのだ。
今日は、店内のレイアウトを夏休み仕様の「少し風通しの良い、旅行記や怪談本をメインにした配置」に変更するため、朝から店長と二人きりで大掛かりな模様替えを行っている。
「しかし、よくこんなにマニアックな本ばかり集めましたね。これ、本当に売れるんですか?」
段ボールの中から出てきた、クトゥルフ神話めいた装丁の古い海外の怪奇小説や、シュルレアリスムの絶版画集を手に取り、俺は少しだけ得意げな響きを混ぜて尋ねた。
「売れるか売れないかじゃない。こういう本が棚の隙間に鎮座しているという『気配』が、この店の品格を作るんだよ」
カウンターの奥で、気怠そうに電子タバコを吹かしながら、ボサボサ髪の店長が嘯いた。
「それに、うちの店が多少赤字を垂れ流そうが痛くも痒くもないのは、お前も知ってるだろ」
店長の言葉に、俺は小さく苦笑して手元の本を棚に押し込んだ。
五十手前の、いつもよれよれのシャツを着ているのに、それが『あえてのオシャレ』に見えるこのおじさんは、実は本名とは別のペンネームで活動している、そこそこ売れっ子の小説家だ。ミステリーを中心に、映像化された作品もいくつかあるらしい。この『ポラリス』という店は、彼の印税対策――いわゆる税金対策を兼ねた、完全なる趣味の城なのだ。
「だからって、俺を肉体労働でこき使っていい理由にはなりませんよ。先生の次回作、主人公が重労働で腰を痛める展開にしてくださいよ」
「馬鹿言え。俺の書く気の毒な主人公は、もっと精神的な業火に焼かれるんだよ。……ほら、手ぇ動かせ。終わんねえぞ」
「はいはい」
返事をしながら次の段ボールに手を伸ばした時、ポケットの中でスマホが短く震えた。
最近、趣味で書いている映画や小説のレビュー記事――noteの通知だ。少し前から、ありがたいことに見知らぬ読者からの「スキ」やコメントがつくことが増え、通知が来るたびに少しだけ胸が躍るのだ。
「……なんだ、ニヤニヤして。彼女からか?」
手元の作業を止めずに、店長がからかうように目を細めた。
「違いますよ。……最近、ネットで映画のレビューとかちょっとした記事みたいな文章書いてて。それが、読まれるようになってきたっていうか」
プロの小説家相手に自分の拙い文章の反響を語るのは気恥ずかしかったが、少しだけ誇らしい気持ちもあって、つい口からこぼれてしまった。
「ほう。文章をね」
店長は電子タバコをふっと吹かし、いつもの気怠げなトーンのまま、ぽつりと言った。
「まあ、せいぜい気をつけろよ。少し読まれるようになってくると調子こいて、頭良さそうな借り物の言葉使いがちだからな。お前そのパターンありそうだしよ」
「……痛いところ突きますね。もしかして俺のnote、読みました?」
「読んでねえよ。面倒くせえ。ただ、初心者が陥りがちなパターンってだけの話だ。書いてるやつの感覚から出た言葉の方が、結局は読者に刺さったりする」
プロの文筆家からの言葉の重みに、俺は少しだけ気圧されながらも素直に頷いた。
「……気をつけます」
「まあ、若いうちは思いっきり背伸びして、盛大に転ぶのも大事だけどな。おら、手ぇ動かせ」
飄々とした店長とのこんなやり取りは、決して嫌いじゃなかった。地元や大学では会ったことのないタイプの大人。適当で、でもなんか雰囲気のある大人。本人に言ったことはないが、正直少し憧れている。
だが、今日の作業は予想以上に難航していた。
倉庫から次々と引っ張り出されてくるミッドセンチュリー風の得体の知れない雑貨や、分類不能な古本の山。謎のプログレバンドのレコード。それらをレイアウト図面と睨めっこしながら配置していく作業は、パズルというよりは終わりの見えないテトリスのようだった。
壁掛け時計の針は、すでに午後五時を回ろうとしている。
俺は少しだけ焦りを感じながら、ポケットのスマホの感触を意識した。
――今日はバイトの後、山葉さんとホラー映画を観る予定があるのだ。
『夏休みっぽいこと』の計画の一つ。俺の部屋を真っ暗にして、プロジェクターの大画面で、あえてのB級ゾンビ映画を観ながら、ジャンクなピザを食べる。くだらない悲鳴を上げたり、ポップコーンを投げ合ったりするような、そんなベタで生産性のない夜を想像するだけで、疲れた身体の奥の方で微かな熱が炭酸のように弾ける。
早く終わらせて、帰りたい。
俺が少しだけ作業のピッチを上げようとした、それを遮るように音が響いた。
ジリリリリ。
カウンターの奥で、店長のスマホが無機質な着信音を鳴らした。
「ん? ちょっと待ってろ」
スマホを耳に当てた店長の表情が、数秒後、みるみるうちに困惑の色に染まっていくのがわかった。
「あー……マジか。いや、わかった。すぐ帰る。うん、大丈夫だ」
電話を切り、店長は深々と、そしてひどく重たい溜息を吐き出してボサボサの頭を掻き毟った。
「……なんかあったんですか?」
「あー、すまん鈴木。カミさんの実家でちょっとトラブルがあってな。カミさんが今すぐ新幹線に乗らなきゃならなくなった。……娘が保育園から帰ってきてるんだが、家で一人になっちまう」
店長には、五歳になる陶子ちゃん、という娘さんがいる。何度か店に遊びに来たことがあり、俺のことも「すずきのおにーちゃん」と呼んでわりと懐いてくれている、よく笑う女の子だ。
俺も帰りたいとは思っていたが、そういう事情なら話は別だ。何しろ俺は夏休み中の大学一年生でしかも文系、つまりは暇人だから。
「それは大変じゃないですか。早く帰ってあげてください」
俺が即座に言うと、店長は申し訳なさそうに、まだ半分以上手付かずで残っている段ボールの山を見た。
「いや、でもこの惨状を残して帰るってのもな。明日も休みにするか」
「いいですよ、それくらい。レイアウトの図面はこっちにあるし、大体の配置は把握しましたから。あとは俺が一人で適当にやっときますよ。残業代は弾んでくださいね」
俺は持っていた軍手を外し、出口のシャッターの方を指差して笑ってみせた。
「……悪いな。恩に着る。戸締まりだけはしっかり頼むぞ。残業代には色付けとくからな」
店長は足早にカバンを掴むと、半分下りたシャッターの下を潜るようにして、慌ただしく店を後にしてしまった。
※※
一人取り残されたポラリスの店内は、先ほどまでの何倍も静かで、少しだけ広く感じられた。
夕暮れの気配が、磨りガラス越しに薄暗いオレンジ色の光となって差し込んでいる。有線から流れていたジャズのレコードが終わり、針の擦れるノイズだけが静寂を際立たせていた。
俺は首のタオルで汗を拭いながら、ポケットからスマホを取り出した。
山葉さんへのメッセージアプリを開く。フリック入力する指が少しだけ重い。
『スミマセン、店長に急用ができちゃって、俺一人で店内の改装作業やることになりました。今日、かなり遅くなりそうです。映画、また別の日にしてもいいですか?』
送信ボタンを押す。
彼女が楽しみにしていたかはわからないが、俺自身がめちゃくちゃ楽しみにしていただけに、落胆は大きかった。
数分後。手の中のスマホが短く震えた。
『ふーん。了解』
たったそれだけの、ひどくそっけない返信。
スタンプの一つもない短い文字列を見つめながら、俺の胸の奥に、チクリと冷たい棘が刺さったような気がした。
もしかして、気を悪くしただろうか。
いや、山葉さんはそんなことでネチネチと不機嫌になるような人じゃない。外の世界の『女神』の時はもちろん、俺の部屋で見せる素の彼女だって、もっとサバサバしていて、他人の事情に干渉しすぎないドライな優しさを持っているはずだ。
だけど、あの「ふーん」という文字の奥に、少しだけ唇を尖らせている彼女の顔を想像してしまって、俺はどうしようもなく申し訳ないような、寂しいような気持ちになった。
「……よし、まあ、朝までやれば終わるだろ多分」
俺はスマホをポケットにねじ込み、自分を鼓舞するように両頬を軽く叩いて、再び絶望的な段ボールの山へと向き直った。
そこから数時間。
すっかり日が落ち、外は完全な夜の闇に包まれていた。
店内のメインの照明は落とし、作業スペースを照らすオレンジ色の間接照明と、手元のクリップライトだけが灯っている。
静まり返った店内に、古本を棚に並べる微かな摩擦音と、深いため息、そして壁掛け時計の秒針の音だけが響く。シャッターの隙間から時折入り込む夜風が、古い紙の匂いをふわりと舞い上がらせた。
終わらない。
段ボールを一つ開ければ、中からさらに細かい分類待ちの古書や得体の知れない雑貨が湧き出してくる。レイアウトのパズルは複雑さを増すばかりで、むしろ作業を始めた頃より店内が散らかっている気さえした。
完全に終わりの見えないマトリョーシカ状態だ。
俺はフローリングの床にどっかりと座り込み、大きく背伸びをして天井を仰いだ。
……これ、マジで朝までコースかもしれない。
肩や腰に、鈍い疲労がのしかかっている。あと腹も減ってきた。首に巻いたタオルで汗を拭い、絶望的な気分でふぅと深く息を吐き出した時だった。
ブブッ。
静寂を切り裂くように、スマホのバイブレーションが響いた。
画面を見ると、メッセージの通知が一つ。
『ウーバー山葉です。開けてください』




