おねえさん、女ったらし呼ばわりしてくる
高い天井に、黄色い桶が床のタイルを滑る音がカァンと反響した。
少し熱めのお湯が張られた広い湯船に、俺は肩まで深く沈み込み、「ふぅ」とだらしない息を吐き出す。
「夏休みっぽいこと」をしよう。
あの日、俺の部屋で白ワインのグラスを傾けながら彼女が口にした提案の、栄えある第一弾。それが「明るいうちから銭湯に行く」だった。
海やプール、あるいはどこか遠くへのドライブなんかを想像してすこし身構えていた俺は、そのあまりにも日常の延長線上にあるチョイスに少しだけ拍子抜けしたものだ。だが、実際にこうして広い湯船に浸かってみると、彼女の選択の正しさが骨身に染みてわかった。
湘南のはずれにあるこの古い銭湯は、拍子抜けするほどすいていた。先客は地元の常連らしきお爺さんが数人いるだけだ。
『夏休みに入るとさ、帰省で大学生がガッツリ減るから、この辺の店とか銭湯ってめっちゃすくんだよね。去年の夏の終わりにそれに気づいたから、今年は絶対通おうと思って』
道中、少しだけ得意げにそう語っていた山葉さんの横顔を思い出す。
なるほど、確かにそうだ。普段はどこへ行っても学生でごった返しているこの街が、今は不思議なほど静かで、ゆったりとした時間が流れている。
湯気越しに富士山のペンキ絵を眺めながら、俺は鼻歌でも歌いたいような気分になっていた。
夏祭りに行く。花火をする。昼からソーメンを茹でて食べる。無駄に朝まで夜更かしてどうでもいいことを話す。
彼女とゆるく立てた「夏休みっぽいこと」の計画が、頭の中で一つ一つリストアップされていく。特別なイベントなんて何もない、ただのモラトリアムの消費。だけど、それがどうしようもなく楽しみで、お湯の熱さのせいだけではない熱が頬を緩ませる。
ふと、タイル張りの壁の向こう側――女湯の方へ意識が向いた。
今頃、山葉さんもあの熱いお湯に浸かっているのだろうか。
そう考えた瞬間、いつかの夜、俺の部屋の薄暗いキャンプマットの上で抱きしめてしまったあの身体の感触が。暴力的なまでの鮮明さで脳裏にフラッシュバックした。公共の場でこれはまずい。
「……っ、のぼせる」
俺は慌てて湯船から立ち上がり、冷水を被るために洗い場へと逃げ込んだ。
脱衣所で体を拭きながら、鏡に映る自分の顔を見て、俺は小さく息を飲んだ。
そこには、俺が普段必死に作り上げている『サブカル系雰囲気イケメン』の面影は微塵もなかった。
無造作なセンターパートやフェザーショートを作るためのヘアアイロンもワックスもない。洗いざらしの髪はくしゃくしゃ。肌の粗を隠すためにこっそり塗っていたBBクリームも、ちょっとだけ書き足してる眉毛も、当然石鹸で綺麗に洗い流されている。
無駄に腹筋が割れててちょっと筋肉質なのは剣道部時代の名残だ。ただの、どこにでもいる、冴えない大学生のすっぴん顔。というか、剣道部の陰キャ。そして今から着るのは、短パンとTシャツ。
よくよく考えてみれば、これまで山葉さんが深夜に俺の部屋へやってくる時、俺は常に「武装」を解いていなかった。風呂は彼女が来る前に済ませていても、髪はそれなりに整え、部屋着もそれなりにお洒落なもの。人に見せられる状態をキープしていたのだ。
銭湯に来るのだから、あがったあとは寝巻同然で当たり前なのだが、完全に気を抜いた姿を彼女に晒すのは、これが初めてだった。
なんだか無性に心細くなって、俺は首にタオルをかけたまま、少しだけ躊躇いながら男湯の暖簾をくぐった。
待合室に出ると、開け放たれた窓から夕暮れの風が吹き込んでいた。
風呂上がりの火照った体に冷房と扇風機の風が心地いい。
「あーーーー」
不意に、少し離れたところから気の抜けた宇宙人のような声が聞こえた。
見ると、首振り扇風機の真正面に陣取った山葉さんが、風に向かって口を開け、声を震わせて遊んでいた。
「……何やってるんですか、小学生ですか」
俺が呆れたように声をかけると、山葉さんはビクッと肩を揺らし、振り返った。
「あ、鈴木くん。おつかー」
そこには、ちょうど今上がってきたばかりだということが一目でわかる彼女がいた。
ショートパンツの裾やノースリーブの袖口からみえている肌。いつもは少し青白く見える肌が、お湯の熱でほんのりと桜色に上気している。濡れたアッシュの髪が首筋や鎖骨にぺたりと張り付き、そこから漂ってくるのは、いつもの香水ではなく、備え付けの安っぽい石鹸の匂いだ。
血色の良くなった頬と、化粧の完全に落ちた顔立ちは、生協の女神やロックテイストな爆美女としての大人びた美しさよりも、どこか幼く、等身大の女の子という印象を強く受けた。だが、その無防備さが逆に、どうしようもない生々しい色気を放っていて、俺は視線のやり場に困ってしまう。
「鈴木くん、結構長湯だね」
山葉さんはそう言いながら、俺の顔をまじまじと見つめた。
そして、とろんとした三白眼を少しだけ見開く。
「あれ? 鈴木くん……なんか、いつもと顔ちがう」
「っ……いや、そりゃ、風呂上がりですから。髪もセットしてないし……色々、落ちてるんで」
俺が変に顔を背けて言い訳をすると、彼女は俺の顔を下から覗き込むようにして、ふにゃりと唇を綻ばせた。
「へー。……なんか、幼くてかわいいじゃん」
「男にかわいいは褒め言葉じゃないですよ」
「えー? あたしは好きだけどね。修学旅行でお風呂入った後の中学生みたいで」
からかうような、でも確かな温度を持った言葉。
必死に纏っていた武装を剥がされた一番無防備な自分を、彼女がからかいまじりながら肯定してくれた事実が、湯上がりの火照りと混ざっていく。
「ほら、これ。おごり」
山葉さんが、自販機で買ってきたらしいラムネの瓶を一本、俺の胸元に押し付けてきた。
「あ、ありがとうございます」
「ん。じゃ、涼みながら帰ろっか」
※※
銭湯を一歩出ると、街はすっかりオレンジ色の夕暮れに染まっていた。
遠くからヒグラシの鳴き声が聞こえる。学生街特有のやかましい喧騒はなく、どこかの家から漂ってくる夕飯のカレーの匂いと、蚊取り線香の微かな煙の匂いが、夏の夕暮れの空気に溶け込んでいた。風も心地よい、夕涼みがてらの帰り道。
俺たちは並んで歩きながら、ラムネの瓶の栓を押し込んだ。
シュワッという炭酸の弾ける音とともに、カラン、と涼しげなビー玉の音が鳴る。
「んー、うま。やっぱ風呂上がりはこれだよねぇ」
山葉さんは瓶の口に唇を当て、幸せそうに目を細めて喉を鳴らした。膝上丈のショートパンツにサンダル履きというラフな服装も重なり、どこかノスタルジックな夏を感じさせる山葉さんだった。
バカでかい麦わら帽子に白のワンピース、という文学的な夏の少女コーデとは真逆の気楽さがある。
「いただきます」
俺もラムネを一口飲む。強めの炭酸とチープな甘さが、乾いた体に染み渡る。
ふと、隣を歩く彼女の横顔に視線を向けた。
山葉さんは、ラムネの瓶を少し持ち上げるようにして、透明なガラスの飲み口を小さな唇でくわえ込んでいた。コクン、コクンと、液体を飲み込むたびに白い喉仏がかすかに上下する。
「おいしいね」
「ですね。ラムネなんて飲むのめちゃくちゃひさしぶりなんですけど、なんかやたらうまいです」
「ね」
ただそれだけの会話。でも、別にそれ以上喋ろうとも思わないし、気まずくもない。
遠くから聞こえる潮騒や、町の音。ラムネの甘い香り。隣にいる人とただそれを共有しているだけ。なのに、とても気持ちが良くて、どこまでも歩いていけるような気分になる。
俺たちはしばらくの間、無言のまま、少しだけ距離を空けて夕暮れの道を歩き続けた。
やがて、太陽が完全に沈み、空が群青色へと変わり始める頃。
湯上がりのほてりを冷ましてくれるような、心地よい夜風が海の方から吹き抜けた。
「あ」
不意に、山葉さんが立ち止まり、空を見上げた。
俺もつられて視線を上げる。電線とアパートの屋根の向こう側に、ぽっかりと丸い月が浮かんでいた。
「月、綺麗だねー」
ラムネの瓶をぶら下げたまま、彼女が気の抜けた声でぽつりと呟いた。
月が綺麗ですね。
本を少しでも齧る人間なら、その言葉が持つ別の意味――夏目漱石が『I love you』をそう訳したという、嘘との説もあるあまりにも有名な逸話が、嫌でも頭をよぎる。
だが、隣で口を半開きにして月を見上げている彼女の横顔には、そんな文学的な駆け引きやロマンチックな意図など微塵も感じられない。ただ、本当に月が綺麗だから口にしただけだろう。
普段の俺なら、ここぞとばかりにその逸話を披露して知識をひけらかしたくなるところだ。
だが、今は違った。
風呂上がりで、ふたりしてラフな格好で、ラムネの瓶を片手にぶらぶら歩く帰り道。先ほどのむず痒い沈黙の余韻。
それらが、俺の口から、無意識のうちに本音をこぼれ落とさせた。
「……月は、ずっと前から綺麗ですよ」
夜の海辺を歩いた時も、雨の日に並んで本を読んだ時も、暗闇のマットの上で熱を重ねた時も。
俺の隣にいるあなたは、ずっと綺麗でしたよ、と。
そんな意味すらも、意識するより先に言葉に乗っていたのかもしれない。
あるいは、俺の方も本当にただ、子どもの時から見てきた夜空の月に対する感想がもれただけなのかもしれない。自分でも判然としなかった。
山葉さんは、急に声のトーンが変わってしまった俺に不思議そうに視線を向けた。
数秒の空白。
やがて、彼女の瞳がかすかに揺れ、その言葉の奥にあるかもしれない『意味』に遅れて気づいたようだった。この人は、結構博学だから。
俺が文学的な文脈を踏まえて意図的に言ったのか、それともただの天然で口走ったのか測りかねているような、戸惑いと、照れの混ざったような表情。
彼女は、ラムネの空き瓶を両手で包み込むように握りしめ、少しだけうつむいた。
「……鈴木くんってさ」
夜風に溶けるような、掠れたつつも澄んだ声。
「たまに、ナチュラルに女ったらしだよね」
上目遣いに向けられたその瞳は、大学の女神のものでも、ダル着のお姉さんのものでもなく。ただ、月明かりの下で頬を染めて唇を尖らせる、一人の女の子のものだった。
俺は返す言葉を見つけられず、ただ、カランと鳴った彼女の手元のビー玉の音に、静かに耳を傾けていた。




