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深夜、隣のお姉さんと。  作者: Q7/喜友名トト


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おねえさん、背中からくっついてくる

スーパーから帰宅した俺は、カウンターにスマホを立てかけ、料理動画を睨みつけていた。


画面の中では、お洒落なエプロン姿の料理人が、フライパンの中で白身魚に手際よく白ワインを回しかけている。時々見ている、イタリア料理のユーチューバー、シャビオさんである。


『ここでアサリとミニトマトを加え、蓋をして蒸し焼きにしていきます。みてくさい、イイ感じになってきました。匂いも最高です』


楽しそうな顔で解説する動画を一時停止し、俺は目の前のフライパンと格闘する。


アクアパッツァ。正直、今まで作ったことなどない。見栄を張って口走ってしまった以上、それなりの形にしなければと、オリーブオイルの跳ねる熱さに耐えながら白身魚の切り身をひっくり返した。


そこへ、ピンポーンと軽いチャイムの音が響いた。


手を洗ってドアを開けると、パステルカラーのブラウスを着たままの山葉さんが立っていた。手にはよく冷えた白ワインのボトルと、透明なパックに入った生ハムやオリーブのピンチョスが提げられてい

る。


「ちわ。……うわ、もうドアの隙間からめっちゃいい匂いするー」


彼女は靴を脱ぐなり、ウキウキとした足取りでキッチンへと向かってきた。


「お疲れ様です。ワインまで買ってきてくれたんですね」


「ん。せっかく鈴木くんがお洒落なお魚料理作ってくれるんだし。あたしも手伝おっか?」


ブラウスの袖を捲り上げようとする彼女を、俺は慌てて制した。


「大丈夫です、あとは煮込むだけなんで。それより、一回部屋戻って着替えたり、メイク落としてきたりしていいですよ。テスト明けで疲れてるでしょ」


「え、いいの?」


「はい。ゆっくりしてきてください」


「んー。じゃあよろしく。すぐ戻るね」


山葉さんはピンチョスのパックとワインをテーブルに置くと、ひらひらと手を振って自分の部屋へと戻っていった。


パタン、とドアが閉まる音を聞き、俺は再びコンロの前に立つ。


フライパンにアサリと半分に切ったミニトマトを散らし、白ワインを注いで蓋をする。じゅわぁっ、という派手な音と共に、魚介の濃厚な香りが立ち上った。


火を弱め、煮込みの時間を計りながら、俺はふと壁の向こう側に意識を向けた。


着替えに戻った山葉さん。


あの熱帯夜、同じ毛布に包まり、どうしようもない熱を分け合ってから、数週間が経つ。


翌朝、気まずさとむず痒さの中で一緒に卵焼きをつついた後も、俺たちの関係は、目に見えて大きく変わったわけではなかった。


夜になれば彼女がふらりとやってきて、酒を飲みながらダラダラと時間を消費する。相変わらずソファの端っこを占拠しているし、俺の作る料理を「おいし」と笑って食べてくれる。


ただ、それだけだ。何かが変わった気もするが、それが何かは上手く言葉にできない。


「付き合おう」という言葉を交わしたわけではない。大学では依然として見えない壁を隔てた「憧れの先輩」と「ただの後輩」のままだし、何より――あの夜以来、俺たちはそういう関係になっていない。


触れたいと思わないわけじゃない。俺も男だし、むしろ、ときおり空気の流れに乗って彼女の匂いがするたびに、あの滑らかな肌の感触と甘い吐息が脳裏にフラッシュバックして、どうにかなりそうになる時は何度もある。


正直まあ、思い出しては色々……。


だけど、じゃあ決定的な言葉を交わして恋人同士になりたいのかと問われると、自分でもよくわからなかった。


彼女が俺をどう思っているのかもわからないし、何より、こうして俺の部屋を心地よい『シェルター』にして、無防備に笑ってくれている今のこの曖昧な関係性が、俺はどうしようもなく好きだった。


そのうえで、時々山葉さんが可愛すぎてヤバい、と思うときもある。なんかアレ以来、時々女の子っぽさと言うか、しおらしさをブーストさせるときがあるのだ、あの人は。


この生温かいモラトリアムがいつまで続くのか。彼女にとって俺はどういうポジションなのか。


煮えたつフライパンの音を聞きながら、俺はぼんやりとそんな思考の沼に沈み込んでいた。


……ハッ。


手元のスマホのタイマーが、とうの昔にゼロを示して点滅しているのに気づいた。


「やばっ」


慌ててフライパンの蓋を開ける。


そこには、俺が思い描いていた『お洒落なアクアパッツァ』の姿はなかった。


火を通しすぎたせいで白身魚は無惨に崩れ去り、バラバラになった身が濁ったスープの中に散乱している。しなびたミニトマトと、口を大きく開けたアサリの残骸。


控えめに言って、残飯のようなビジュアルだった。


「うげ……」


絶望的な光景に肩を落とした、その時だった。


「――どんな感じー?」


不意に、背中から「ぴとっ」と柔らかな体温が押し付けられた。


「うわっ!?」


驚いて振り返る余裕もなく、俺の右肩に、山葉さんの顎がこつんと乗せられた。なんとなく、猫に乗っかられているような感じがする。


いつの間に戻ってきていたのだろう。耳元に吹きかかる生温かい吐息と、メイクを落とした素肌から立ち上る、洗い立ての石鹸の匂い。この猫エロい。


視界の端に映った彼女は、見慣れたダル着のフーディではなく、首元のゆるいチャコールグレーの薄手ニットを着ていた。そして何より、いつもは無造作に結んだり下ろしたりしている髪が、今日はネイビーのシュシュで少し高めの位置にふんわりとまとめられている。


露わになった白いうなじと、背中に密着してくる意外なほど豊かな質量のせいで、俺の心拍数は一瞬で跳ね上がった。


「あ、あの、山葉さん……」

「んー? あー……」


肩越しにフライパンの中身を覗き込んだ彼女が、小さく声を漏らす。


「……スミマセン、失敗しました。考え事してたら、魚がバラバラに……」


カッコつけてアクアパッツァなどと言った末路がこれだ。俺が項垂れて謝罪すると、背中の感触がふっと離れた。


「え、いいじゃんこれはこれで。匂いはめっちゃ美味しそうだし」


「でも、見た目が……」


「やー、あ、じゃあさ、ちょっとあたしが仕上げしていい?」


山葉さんは俺の腰のあたりをツンツンと小突いて場所を代わると、キッチンの戸棚をごそごそと漁り始めた。


「チューブのニンニクと、ケチャップ。……あ、なんか洋物のトマトペーストあるじゃん。さすが鈴木くんだねぇ」


彼女は崩壊した魚とスープが残るフライパンに再び火をつけると、トマトペーストを躊躇なく絞り入れた。さらに、炊飯器に残っていた冷やご飯をそこへ豪快にぶち込む。


「うわ。それ大丈夫ですか」


「リカバリー。こういうのはね、全部吸わせちゃえばいいの」


木べらで手際よく米とスープを炒め合わせる。魚介の出汁とトマトの酸味、そしてニンニクの香ばしい匂いが一気に部屋中に広がった。


数分後。


ローテーブルの上にドンと置かれたのは、アクアパッツァの面影など微塵もない、ジャンバラヤか焼き飯のような、赤みがかった謎のジャンク料理だった。


「はい、完成。熱いうちに食べよ」


シュシュでまとめた髪を揺らしながら、山葉さんが買ってきたワインをグラスに注ぐ。


俺たちは向かい合って座り、スプーンでその謎の料理をすくって口に運んだ。


「……っ!」


驚いた。めちゃくちゃに美味いのだ。


魚介の強烈な旨味とニンニクの風味が、米の一粒一粒に完璧に染み込んでいる。ほろほろに崩れた白身魚が逆に良いアクセントになっていて、見た目のジャンクさからは想像もつかないほど、奥深い「海」の味がした。


「なにこれ、激ウマじゃないですか」


「でしょ? 若人よ、欲望に忠実になりなさい。さすればうまいものが食べられるぞよ」


山葉さんは得意げに鼻を鳴らし、よく冷えた白ワインをこくりと煽った。


俺もワインに口をつける。キリッとした酸味が、魚介の濃厚な味と見事にマッチしていた。買ってきたピンチョスの塩気も挟みつつ、俺たちはスプーンを動かし続けた。


気取った料理を作ろうとして失敗した俺と、それをジャンクで最高の一皿に作り変えてしまう彼女。

やっぱり彼女には勝てない、とか思う。


「けど、これがおいしーのは鈴木くんが作ってた土台の出汁ありきなんだけどね」


 さらり、とそんなことを言われる。やっぱり彼女には勝てない。


「でもこれ、本当にこのワインに合いますね。見た目がジャンクだから、どうなるかと思ったのに」


俺が感心したように言うと、山葉さんは得意げにグラスを揺らした。


「でしょ? 天才って呼んでいいよ」

「はいはい、天才ですね。……にしても、今日でやっとテストから解放されたと思うと、なんだか不思議な気分です」


「あははっ、鈴木くん、この一週間ずっと顔死んでたもんね。夜、コーヒー淹れてる時も背中から『単位落とせない』ってオーラ出てたし」


「そりゃ、一浪のプレッシャーがありますから。必死ですよ」


「まあまあ。でもさ、こうやってテストも全部終わって、美味しいご飯食べて、のんびりお酒飲んで。……なんか、めっちゃ平和で最高じゃない?」


山葉さんは目を細めて、しみじみと白ワインのグラスを傾けた。


確かにそうだ。気取ったアクアパッツァこそ失敗したが、目の前でシュシュで髪をまとめた無防備な彼女が、笑いながらご飯を食べているこの光景は、控えめに言って最高だった。


「……そうですね。最高です」


俺が素直に同意すると、山葉さんは嬉しそうに口角を上げた。



半分ほど皿が空いたところで、俺はふと思い出したように口を開いた。


「そう言えば」

「ん?」


「明日から夏休みですよね。山葉さんって、どうするんですか? 実家、帰ったりするんですか?」


カチャッ。


山葉さんのスプーンが、皿に当たる音がした。


彼女は咀嚼するのをやめ、ほんの一瞬だけ、視線をグラスの水滴へと落とした。


「……んー」


ワインを一口含んでから、彼女はいつもの気怠げなトーンで答える。


「帰んないかな。生協のバイトもあるし、後期の予習とかで勉強も忙しいし」


多分嘘だ、と思った。


勉強が忙しい人間が、毎晩のように俺の部屋に入り浸って酒を飲みながらゲームをしたりドラマを観たりするはずがない。


あの日、スーパーから帰ってきた時に彼女が電話口で見せた、感情を押し殺したような『いい子』の受け答え。きっとこの「忙しいから帰らない」というのも、実家サイドに彼女が伝えている建前なのだろう。


「ってことにしといて」


 俺が悟っていることを山葉さんも多分悟ってる。なので俺は答えた。


「ってことにしときます」


俺はそれ以上、彼女の抱える背景を追及するような真似はしなかった。


「鈴木くんはどうすんの? 帰省する?」


スプーンで米を平らにならしながら、山葉さんが聞いてくる。


「まだ決めてないですけど……とりあえず、しばらくは帰らないです。こっちに引っ越してきて、まだ半年も経ってないですし」


俺がそう答えると、山葉さんはピタッと手を止めた。


顔を上げ、俺を見る。


シュシュでまとめられた髪の奥、少しタレ目気味の三白眼に、ぱっと明るい光が灯ったように見えた。


「そ」


短い返事。だが、その口角は隠しきれないほど柔らかく、嬉しそうに綻んでいる。


彼女はワイングラスを持ち上げ、俺のグラスにコツンと軽くぶつけてきた。


「じゃあさ」


氷のように冷たいガラスの音が響いた後、彼女は悪戯っぽく目を細めて言った。


「一緒に、夏休みっぽいことする?」


それは、ただの隣人としての暇つぶしの提案なのか、それとも。


グラスの奥で揺れる彼女の瞳を見つめ返しながら、俺はシンプルに、夏休みっていいな、と思った。


なにしろ大学生の夏休みは二か月近くもある。しかも受験を控えてない。宿題すらもない。俺は一年生なので就職活動とかもまだ考えなくていい。バイトをすればお金は入るし、こんなに自由なのは生まれて初めてかもしれない。


去年は浪人して勉強中で、一昨年も勉強中で、その前は剣道部の合宿で奇声をあげて竹刀を振り回していたわけなので、すごいギャップだ。で、目の前のこの人。


クソ暑い夏がこんなに楽しみなのは、いつ以来だろう。


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