おねえさん、おねだり♡する
そんな、深夜の密室での濃密で少しだけ理不尽なゲーム対戦から一夜明けた、テスト期間最終日。
俺は共通教育の大教室で、最後の課題レポートを提出用のボックスにそっと置き、深々と、そしてひどく大げさなため息を吐き出した。
「終わったぁ……」
隣で同じように伸びをしている川崎と顔を見合わせる。これで、俺が履修しているすべての講義のテストとレポートが完了した。
つまり、今日この瞬間から、晴れて大学生として初めての夏休みに突入するということだ。
終業式とか通知表とか、そういうのがなくなんとなくダラッと始まる夏休みと言うのは、これまでの経験と違って新鮮に思えた。
キャンパスを歩く足取りは、嫌でも軽くなる。真夏の茹だるような日差しさえ、今日ばかりは自由を祝福するスポットライトのように思えた。
「いやー、長かったな。鈴木、お前レポート見せてくれてマジサンキュー。これで単位はもらったようなもんだわ」
「お前はもう少し自分でやれよ。まあ、終わったからいいけど」
川崎と連れ立って、冷たい飲み物でも買おうと生協へ向かう並木道を歩く。
すると、すれ違う学生たちの何人かが、チラリ、チラリと俺の方へ視線を向けては、ヒソヒソと囁き合っているのに気づいた。
『ねえ、あの人じゃない?』『この前、すげえ美人と手繋いで歩いてたって……』
そんな声が、蝉時雨に混じって微かに耳に届く。
俺は無意識に背筋を伸ばし、顔に出ないように必死に表情筋をコントロールした。
先日、ロックな素の姿の山葉さんの手を引いて、キャンパスを強引に歩いたあの一件。どうやらその目撃情報が、尾ひれをつけて一部で噂になっているらしい。もちろん、あの超絶美人が、全学生の憧れである『生協の女神』だとは誰も気づいていない。
あの後、ウェイ先輩こと上井さんが、学食前のベンチでの出来事をどう処理したのかは知らない。
だが、少なくとも『山葉ちゃんがロックなヤンキーになってた』などと言いふらしている様子はないし、仮に誰かに言ったとしても、普段の山葉さんを知る人間は誰も信じなかったのだろう。山葉さんの『女神』としての平穏な日常は、何一つ揺らいでいなかった。
「……なぁ鈴木。お前、なんか噂立ってんぞ」
川崎が、ニヤニヤしながら俺の肩を小突いてきた。
「他学部のめっちゃ派手な美人と歩いてたって、一部の界隈で話題だぞ。お前、いつの間にそんなレベル高い彼女作ったんだよ」
「えっ、い、いや。気のせいだろ。俺彼女いないし。完全に人違い」
焦りを隠すように早口でまくしたて、パタパタと手を振ってみせる。
「……なんかお前、反応が絶妙に怪しいんだけど」
「気のせいだっての」
胡乱な目を向けてくる川崎から顔を逸らし、俺は必死に頬の筋肉を引き締めた。
大学生俺のモットーである『雰囲気イケメン』としては、もっと涼しい顔でかわすべきだったかもしれない。だが、無理もない。
思い出すのは、あの時の繋いだ手のひらのひんやりとした柔らかさと、周囲の視線を置き去りにして歩いた少しだけ速い歩幅。
誰も知らないのだ。あの誰もが振り返るほどの『派手な美人』の正体を。
それを知っているのは、世界で俺だけだ。
その事実が、浸透圧のように胸の奥から湧き上がってきて、変な顔になりそうになる。俺はそれを押し殺すように、少しだけ強く奥歯を噛み締めた。
自動ドアを抜け、生協の中へ入る。
テスト期間中であり、かつ昼休みあとの三限目の時間帯ということもあって、店内は普段の殺人的な混雑が嘘のように閑散としていた。
「お、今日はすいてんな。……あ、山葉先輩だ」
川崎の声に視線を向けると、陳列棚の前で、パステルカラーのブラウスに青いエプロン姿の山葉さんが品出しをしているところだった。
「山葉先輩、お疲れ様です!」
川崎が持ち前のコミュ力を発揮して声をかけると、山葉さんは振り返り、ふわりと花が咲くような完璧な笑顔を浮かべた。ホントに素敵な笑顔過ぎてビビる。全日本看板娘選手権とかがあったら多分優勝できる。
「あ、川崎くん。それに鈴木くんも。お疲れ様」
鈴の音のように透き通った、朗らかな声。昨夜、俺の部屋のソファでゲームのコントローラーを握りながら「へいへいへーい」と気の抜けた声を出していた人と同一人物だとは、知ってはいてもいつもちょっと驚いてしまう。
「俺ら、たった今すべてのテストとレポートが終わったんすよ! これで晴れて夏休みっす!」
川崎がテンション高く報告すると、山葉さんは目を細め、パチパチと小さく拍手をしてくれた。
「ふふっ、よかったね。二人とも、お疲れ様」
女神モードの彼女に見つめられ、川崎がだらしなく鼻の下を伸ばす。
すると、山葉さんは少しだけ小首を傾げ、口元に手を添えて上品に微笑んだ。
「じゃあ、今日は大学初めてのテスト期間終了のお祝いで、美味しいものでも作って食べるのかな?」
「えっ、いや、俺は別に自炊とかしないんで、コンビニ弁当かどっか食いに行くか――」
「そっか。でも、そういう特別な日って、手作りのご飯とかも楽しいよ」
山葉さんは口元に手を添えて、意味ありげに目を伏せた。その完璧な仕草に、川崎が「ですよねー! 俺も作ってくれる彼女欲しいっす!」と見事に食いつく。
「ふふっ、川崎くんにもいつかできるといいね」
女神の微笑みで川崎をいなしつつ、山葉さんの視線が、すっと俺の方へと向いた。
「……鈴木くんは?」
「えっ。俺、ですか」
「うん。鈴木くん、お料理上手って聞いたから。今日は何作るの?」
小首を傾げ、上目遣いでこちらを覗き込んでくる。
周囲の学生から見れば、後輩の男子を気遣う優しい先輩の図だろう。だが、俺に向けられたその瞳の奥には、有無を言わさぬ光が宿っていた。
「いや……今日は疲れたし、俺も適当に済ませようかと――」
「えー、もったいない。せっかくのテスト明けなのに」
山葉さんは俺の言葉を柔らかく遮った。
「あたしも今日テスト開けなんだけど、うーん……そうだなぁ。今日はなんだか、美味しいお魚料理の気分かも」
「お魚」
「うんっ。白身のお魚」
女神の仮面を被ったまま、ピンポイントすぎるリクエストが飛んできた。両手をパン、と合わせてにっこり微笑んでいる。糸のように細くなった目は、とても可愛い。
……が。商品棚に添えられたパステルカラーの袖から伸びる白い指先が、俺にしか見えない角度で、トントンと軽くリズムを刻んでいる。完全に「作れ」という合図だ。
大学ではこんなにも完璧な『生協の女神』を演じ切っているくせに、俺にだけはこうして、絶妙な距離感で堂々とワガママを要求してくる。
テスト期間中は邪魔しないようにと気を使ってくれていたし、このくらいのリクエストなら応えたいとも思う。というか、、断れるわけがなかった。
「……白身魚ですか」
「うん。食べたいなぁ」
「……そうですねー。アクアパッツァとか……作ってみようかな」
俺が少しだけ声を潜めて、観念したようにそう答えると。
山葉さんはパッと表情を明るくし、女神の仮面の下で、俺だけに向けて悪戯っぽく唇を綻ばせた。
「ふふっ、いいね。それ。すっごく美味しそう」
「えっ、鈴木、お前今日アクアパッツァなんて作んの!? 相変わらず一人暮らしのくせに意識高すぎだろ。てか、なんで鈴木の晩飯のメニューで山葉先輩が嬉しそうなんすか」
川崎が素っ頓狂な声を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「いや、ただの世間話だよ。別に」
俺が焦って誤魔化すと、山葉さんは完璧なフォローを入れるようにクスリと笑った。
「ごめんね、川崎くん。私がお魚食べたいって言ったから、鈴木くんが合わせてくれただけだよ。……じゃあ、私、仕事に戻るね。二人とも、夏休み楽しんで」
ヒラヒラと手を振って、彼女は陳列棚の奥へと消えていった。
「はぁ……今日も山葉先輩は最高だったな。てかお前、先輩に料理の話に合わせてアクアパッツァ作るとか、見栄張りすぎだろ」
川崎がうっとりとしたため息の後に、呆れたように俺の肩を小突く。
こいつは何もわかっていない。俺が見栄を張ったのではなく、綺麗に逃げ道を塞がれたのだということを。
俺はこれからのスーパーへの買い出しのルートを頭の中で組み立てながら、少しだけ深く息を吐き出した。
スーパーのマルセイに寄って……。あ、でも魚は魚屋のほうがいいか。ニンニクは家にあったっけ。オリーブオイルはこのまえ山葉さんが持ってきてくれた高めのヤツがまだあったな。
ちょっとめんどうくさいな……。と一瞬だけ思ったのだが。
鈴木くん、これうまー。と気の抜けた顔で口にする彼女の顔が思い浮かび、仕方ねぇな、と俺は一人で頷いた。




