おねえさん、生意気呼ばわりしてくる
七月半ば。大学に入学して初めてのテスト期間を迎えた俺の部屋には、二つの異なる音が響いていた。
一つは、俺が叩くノートPCのキーボードの音。
もう一つは、背後のソファから微かに聞こえてくる、ゲーム機のボタンを弾くような操作音だ。
エアコンがしっかりと効いた快適な密室。俺はローテーブルにかじりつき、指定された参考文献と睨めっこしながら、共通教育の『天文学概論』のレポート作成に追われていた。
普段なら、海外のインディーズ映画だのどこかの国の文学だのといった、自意識をコーティングしつつ、最近ちょっと面白くなってきた小難しい単語をカタカタと打ち込んでいるところだ。だが、今は違う。天文学概論の冬乃准教授の講義で学んだことを、自分なりに、ガチでレポートにしている。
そして、俺の背後、定位置のソファでは、山葉さんが携帯モードのゲーム機を握って一人プレイに興じていた。首元のヨレたオーバーサイズのタンクトップにショートパンツという、完全なオフの姿だ。ソファで寝そべってるから、おへそがみえてる。
普段ならプロジェクターの大画面に繋いで遊ぶところだが、俺がレポートを書いているから邪魔にならないようにと配慮してくれているらしい。耳には白いワイヤレスイヤフォンがしっかりと嵌まっている。
シットコムの最終回を観終わった夜、一緒に「最も美しく、何もしない夜を消費しよう」と笑い合ってから、季節は少しだけ進んだ。
恋人同士になったわけでもなく、俺たちは変わらず、この部屋でダラダラとした時間を消費し続けている。
ただ、冷蔵庫の右半分には彼女が買ってきたストゼロの缶が常備されるようになり、ソファの左端は彼女が持ち込んだ専用のクッションに占拠されている。
背後から聞こえてくる彼女の微かな呼吸のペースも、彼女の服から漂う柔軟剤の匂いも、いつの間にか俺の日常の背景として、この部屋の空気にすっかり馴染んでしまっていた。
タタッ、とエンターキーを少し強めに叩く。
ふと、片方のイヤフォンを外す小さな音がして。
「鈴木くん、頑張ってんねー」
背後から、気怠げな声が降ってきた。
「……ええ、まあ。明日締め切りのやつなんで、今日中に片付けないとマズいんです」
画面から目を離さずに答えると、山葉さんは「ふーん」と短く鼻を鳴らした。
「テスト期間なのに、山葉さんは随分余裕ですね」
少しだけ恨み言のように言うと、背後でふふっという余裕のある笑い声がした。
「あたし、デキる子だから。もう大体全部終わってるし」
「……そうですか」
「真面目だねぇ。そういうの、過去のレポート検索してちょっと語尾とか変えて写すだけのやつもけっこういるよ。なんなら、あたし去年その講義取ってたから、レポート貸そっか?」
悪魔の囁きだった。
生協の女神様は、まるで俺を試すように悪戯っぽく笑う。俺はキーボードの上で指を止め、少しだけ考えた。
彼女のレポートをベースにすれば、速攻でこの苦行から解放される。一緒にゲームの対戦もできる。なんならハイボールとか飲める。それはとても、魅力的だ。
このテスト期間は俺が慣れておらず時間をとれなかったこともあり、夕食を山葉さんに作ってもらったり、レポートの資料の探し方を聞いたりしてお世話になっているので、その延長であると考えることもできる。
「……えーっと……」
だが、俺は一つ息を吐いて、首を横に振った。
「……いや。なんか、自分でちゃんとやり切りたいんで。頑張ります」
我ながら、可愛げのないクソ真面目な回答だ。痛いサブカル気取りのくせに、こういうところだけ変に律儀な自分が少し嫌になる。
「そ」
せっかくの提案を断ったわけで、もしかしたら気を悪くするかも、と少し思ったが、直後、背後から「ふふっ」という小さな笑い声が漏れた。
「知ってた。鈴木くんっぽ」
っぽ。とは? 俺っぽい、ということだろうか。何が?
呆れられたのだろうか。だが、その声はちっとも不機嫌そうではなく、むしろ俺がそういう可愛げのない回答をすることを最初からわかっていて、なぜか楽しんでいるような響きだった。
視界の端で、ソファから投げ出された彼女の足先が、機嫌よさそうに小さく揺れている。
俺は少しだけ熱くなった耳元を誤魔化すように、再びキーボードに向かった。
そこからしばらく、俺は無心で文字を打ち込み続けた。
その後ろで、時折俺の方へと向けられる視線を感じていた。山葉さんが、ソファから身を乗り出すようにして、チラチラとこちらの様子を窺っているのだ。なんだか猫っぽい。こっちが顔を上げると、見てませんよ、とでもいうようにゲーム機に視線を戻す。
なんだろう。何でチラチラ見てくるんだろか。
……もしかして。
俺の拗らせた自意識が、何か都合のいい勘違いを弾き出そうとする。俺はタイピングの速度を少しだけ上げ、背中に張り付くそわそわとした気配を必死に頭の隅へと追いやらなければならなかった。
「よし、終わった……!」
最後の文字を打ち込み、保存のショートカットキーを押す。
俺が両腕を上に伸ばして大きく伸びをした、その瞬間だった。
「終わった? じゃ、あそぼ」
山葉さんが手元のゲーム機をドックにカシャッと挿し込み、スッと俺の目の前に二つ目のコントローラーを差し出してきた。
振り返ると、ソファから身を乗り出した山葉さんが、待ち構えていたように俺を見下ろしている。プロジェクターの電源が入る駆動音とともに、壁にカートレースゲームの陽気なタイトル画面が映し出された。
その素早さと手際の良さに、俺は思わず吹き出してしまった。
「なんですかその早業。ずっと待ってたんですか?」
コントローラーを受け取りながら、俺は少しだけ調子に乗って、つい口を滑らせた。
「区切りがついたっぽいから声かけただけデスケド?」
山葉さんは、ふいにジト目の圧を強めて答える。
「もしかして、俺がレポートばっかりやってて、構わなくて寂しかったですか?」
言った直後に、少し生意気すぎたかと内心冷や汗をかいた。
山葉さんは一瞬目を丸くして、それから、タレ目を皿に細くして唇を尖らせた。
「別にぃ」
そっぽを向いた彼女の横顔は、子どもみたいだった。
まずい、機嫌を損ねてしまっただろうか。だが、外の世界で誰にでも完璧な愛想を振りまく彼女が、俺の部屋でだけ見せるその飾らない反応は、どうしようもなく俺の目を引いた。
「えーっと。……まあ、とりあえず、すぐ参戦します」
俺はノートPCを閉じ、ソファの隣、彼女の定位置のすぐ脇に腰を下ろした。
ゲームが始まる。キャラクターたちが陽気な声を上げてカートを走らせる。
だが、レースが開始されて数秒後、俺が操るカートに乗る恐竜のキャラが危機にさらされる。
「ほっ」
気の抜けた掛け声とともに、山葉さんの操るキャラクターが、俺のカートに向かって的確に赤い甲羅をぶつけてきた。
「あ」
スピンする俺のカート。体勢を立て直そうとしたところに、今度は緑の甲羅が壁に反射して直撃する。
「ちょ、また!?」
「へいへいへーい」
その後も、抑揚のないとぼけた掛け声とともに容赦なく繰り出される山葉さんの攻撃は俺のカートだけに執拗に集中した。バナナの皮に滑り、爆弾に巻き込まれ、俺の順位はみるみるうちに転落し、最下位でゴールすることになった。山葉さんの操るゴリラみたいなキャラは当然のように一位だ。この人なんでも上手いんだよな。
「山葉さん、なんでそんな俺ばっかり狙うんですか」
1コース目のレースを終えた俺がコントローラーを握りしめながら抗議の声を上げる。
不意に、隣の柔らかな質量が、俺の肩口へとすり寄ってきた。
ふわりと、爽やかなシトラス系のボディミストの香りと、微かに汗ばんだ肌の生温かい匂いが混ざり合って鼻先を掠める。
山葉さんが、俺の耳元スレスレまで顔を近づけていた。
「……今日、鈴木くん生意気だから」
ぞくっとするほど低くて、艶を帯びた掠れ声。
耳たぶに彼女の温かい吐息が直接吹きかかり、俺の背筋に電流のような甘い痺れが走った。
振り返ろうにも、距離が近すぎて動けない。俺が完全にフリーズしていると、山葉さんは喉の奥で「ふふっ」と悪戯っぽく笑い、元の姿勢へと戻っていった。
「ほら、次ね。負けたら罰ゲームだから」
「……理不尽すぎますよ、それ」
俺はバクバクと五月蝿い心臓の音を誤魔化すように、必死に画面へ意識を向け直した。
時計をみると、もう深夜の二時だ。毎度のこととはいえ、何とも退廃的なことだと思う。でも多分、さっき書きあがったレポートは、山葉さんと過ごしていない俺が書いたものよりは内容が優れているように思う。気のせいかもしれないけど。
――ちなみに、罰ゲームは、イケボ気どりで少女漫画の男キャラの台詞を言う、さらにそれを山葉さんのスマホで録音される、というものだった。
誰にも聞かせないから大丈夫、とかいってフフフと笑っていた山葉さんだったが、そんなもの録音してどうするんだと思ったし、かなり恥ずかしかったのでもう二度とやりたくない……




