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深夜、隣のお姉さんと。  作者: Q7/喜友名トト


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34/53

鈴木くんとおねえさん、何もしない夜を消費する。

 その日の深夜。控えめなノックの後、いつものように俺の部屋へやってきた山葉さんは、すっかり見慣れたヨレヨレのフーディにショートパンツ姿だった。


 俺はキッチンに立ち、二つのグラスに氷を落とす。山葉さんには定番のデュワーズ、俺にはあの正露丸の匂いがするラフロイグ。それぞれを強炭酸で割り、ハイボールを作る。グラスをローテーブルに置くと、昼間の白日の下で繋いだ手のひらの熱が、お互いにまだどこかでくすぶっているような、不思議な静けさが漂っていた。


 部屋の明かりを落とし、プロジェクターのスイッチを入れる。


 壁に映し出されたのは、俺たちが春からずっと観続けてきた、あの海外シットコムのファイナルシーズン、その最終話だった。


 アメリカンジョークと録音された笑い声が、いつものように狭い部屋に響く。だけど、物語が終わりに近づくにつれ、そのラフトラックはどこか切ない余韻を帯びるようになっていた。


 長い年月をかけて関係性を築き上げてきた登場人物たちが、どこか遠くへ旅立つわけでもなく、いつもの部屋で、いつものようにソファや床に腰掛け、くだらない冗談を言い合いながらデリをつついている。彼らの愛おしい日常が、画面の向こうでこれからもずっと、何事もなかったかのように続いていくことを予感させる、そんな静かで、どこか温かい幕引きだった。意外なほどに感動的で、見事な大団円だった。

 画面が暗転し、静かなエンドロールが流れ始めた。


 プロジェクターの青白い光だけが、暗い部屋と、隣に座る山葉さんの横顔をぼんやりと照らしている。


「……終わっちゃったね」


 山葉さんが、グラスの氷をカランと鳴らしながら、ぽつりと呟いた。


「そうですね。……なんか、すごく長かったような、あっという間だったような」


「ん。意外と泣ける終わり方で、ちょっと悔しい」


 彼女はクッションを抱きしめたまま、小さく息を吐いた。

 エンドロールが終わり、プロジェクターの青い待機画面だけが部屋を照らす。沈黙が降りる。換気扇の回る低い音だけが、やけに鼓膜を打った。


 ドラマが終わった。それはつまり、俺たちが毎晩こうしてこの部屋で、肩が触れ合う距離でダラダラと時間を消費するための、最大の「口実」が消滅したことを意味していた。


 明日から、彼女はここに来る明確な理由がない。


 その事実が、胸の奥に薄味で冷たい喪失感を広げていく。何か言わなければ。別の口実を探さなければ。焦る俺の思考を遮るように、不意に山葉さんが俺の方へくるりと体を向けた。


「ねえ、鈴木くん」

「はいっ」


 変に裏返った声が出た。

 山葉さんは俺の顔をじっと見つめ、少しだけ小首を傾げた。


「鈴木くんの右の眉毛、何本かだけ変に長く伸びてる」


「……え?」


 俺は思わず自分の顔に手をやった。何を言っているんだこの人は。何故、今?


「ほら、そこ。いつもわりと手入れしてそうだし、なんか気になっちゃって。……抜いてあげるから、こっち向いて」


 有無を言わさぬトーン。彼女はローテーブルの上に置かれたペン立てから、俺が時々使っている毛抜き用のピンセットを勝手に抜き取ると、ソファの上で膝立ちになるようにして、俺の真正面へと身を乗り出してきた。


 俺の両膝の間に、彼女の膝がすっぽりと入り込む。


 顔と顔の距離が、数十センチもない。プロジェクターの淡い光を背負った彼女の輪郭が影になり、少しだけ伏せられたその瞳だけが、濡れたような光を帯びて俺を捉えている。


 ドラマが終わって、この関係の口実がなくなった、まさにこのタイミングで?


 だが、そんな疑問を口にする隙も与えられず、彼女の空いた左手の白い指先が、俺の顎にそっと添えられた。


「目、つぶって」

 囁くような、ほんの少しだけ上ずった声。


 俺は抗うすべを持たず、言われるがままにゆっくりとまぶたを下ろした。


 視覚という最大の逃げ場が遮断されると、その他の感覚が暴力的なまでに鋭敏に研ぎ澄まされていく。

 俺の両膝の間にすっぽりと収まった彼女の、細い太ももの柔らかな感触。少し身じろぎするたびに擦れる、フーディの微かな衣擦れの音。


 顎に添えられた指先は驚くほどひんやりと滑らかで、対照的に、すぐ目の前からは彼女の体温がむわっとした熱の塊になって押し寄せてくる。


 バニラとコーヒーが混ざったような甘く重たい香水の匂いが、脳髄を直接撫で回すように鼻腔を満たした。


 すう、と空気を吸い込む小さな音が耳を打ち、ウイスキーの香りが混じった生温かい吐息が、俺の鼻先や唇にふわりと降り注ぐ。


 まるで、キスをされる直前のような距離と湿度。心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打ち、俺の全身は石のように硬直していた。


「……今日、かっこよかったじゃん」


 ピンセットの冷たい金属が眉のあたりに触れるか触れないかという距離で、不意に、暗闇の中に囁き声が落ちた。


 言葉の振動が顎に添えられた指先から伝わり、俺の頭の芯に直接響くようだった。

 昼間の広場のことだ。俺は目を閉じたまま、震えそうになる声を必死に喉の奥へ押し込んだ。


「……カッコつけてるだけです、いつも」


 絞り出すように漏れた、自嘲気味な本音。どうしてだろう。本当は誰よりもカッコつけたい相手な気もする山葉さんなのに、こうしてほんとうの言葉が流れていく。


「シークレットブーツ履いてるみたいなもんです。無理して、自分を大きく見せようとしてるだけで……本当は、全然」


 コーヒーも、文学も、音楽も、センス良さげなサブカル趣味も、ファッションも、料理も、きっとそうだ。


 だが、顎に添えられた彼女の指先が、それを否定するようにきゅっと力を込めた。柔らかい皮膚がわずかに沈み込む感触。


「違うよ」


 吐息が、さらに近づく。


 彼女の唇が今まさに触れそうなほどの錯覚に陥り、俺は無意識にごくりと喉を鳴らした。換気扇の低い唸り音さえ、今はもう遠い。


「鈴木くんは、一生懸命背伸びしてるだけ。……あたしは、そのプルプルしてる足が、好きだよ」


 鼓膜を甘く溶かすような、微熱を帯びた声。

 その言葉の余韻が胸の奥で弾けた、まさにその瞬間。


 ちくり。

 眉毛のあたりに、鋭い痛みが走った。


「いっ」

「はい、抜けた」


俺が顔をしかめて目を開けると、すぐ目の前で、山葉さんが悪戯っぽく口角を上げて笑っていた。手には、抜かれた俺の眉毛が挟まったピンセットがある。


至近距離で俺を見つめるその瞳は、いつもの気怠げな色を潜め、微熱を帯びたように潤んでいた。みっともなく背伸びをする俺の足元を、ただ静かに見守るような、ひどく柔らかくて甘い眼差しだった。


 彼女は、俺の顎から手を離すと、代わりにその少し冷たい手のひらで、チクッとした痛みの残る俺の頬を、愛おしむようにスッと一撫でした。


指先が滑っていく感触に、背筋が粟立つような甘い痺れが走る。

 山葉さんはゆっくりと体を離し、元の位置へと座り直した。


「……手入れも終わったし、ドラマも終わっちゃったね」


彼女はピンセットをテーブルに置き、少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「じゃあ、これで。明日から来る理由、なくなっちゃったね」


立ち上がり、パーカーの裾を直してドアへと向かおうとする彼女の後ろ姿。


その背中を見送ってしまえば、俺たちは本当にただの「隣人」に戻ってしまう。


 シークレットブーツと背伸びは、何が違うのか。

 俺にはよくわからない。でもきっと、背伸びをしていたら、足の筋肉はつく。


 俺はシークレットブーツではない素足で、少しだけ高くなった背丈でさらに精一杯背伸びをして、それから床を強く踏みしめた。


「待ってください」

俺の声に、山葉さんが振り返る。


「……明日からも、暇があったら来てください」


喉がカラカラに乾いていた。でも、言葉は不思議と淀みなく出てきた。


「ドラマの続きも、もうないですし。特に何かやることがあるわけじゃないんで、ただの時間の消費かも、しれないですけど」


 他のドラマや映画を観るなり、ゲームをするなり、一緒に食事をするなり、いくらでも案はあるはずなのに、口をついたのはそんな言葉。


形から入った言い訳も、オシャレな小道具も今は思いつかない。ただ、彼女と過ごすこの無意味で生温かい夜を、手放したくなかった。


俺の、あまりにも不器用で、カッコよくもなくカルチャー感度の低い言葉が、雨上がりの夜の静けさのようにゆっくりと部屋を満たしていく


山葉さんは少しだけ目を丸くした。それから、喉の奥でふふっ、と微かに音を鳴らして、本当に柔らかそうに微笑んだ。張り詰めていた夜の輪郭が、琥珀色の液体に触れた氷がゆっくりと角を落としていくように、しっとりと融けていく。


ドアノブにかけられていた彼女の白い指先が、静かに離れた。


ゆっくりとこちらへ向き直り、彼女は再び俺の隣へと歩み寄ると、こつんと俺の肩に頭を乗せた。触れ合った肩から、彼女の体温がじわりと伝わってくる。


プロジェクターが放つ青白い待機画面を背負った彼女の輪郭は、外の世界との境界を曖昧にするように、薄暗がりのなかに溶け込んでいた。


彼女はあの雨の夜、一つの狭いベッドで肩を寄せ合って笑い転げた、あの古いフランス文学の一節を、今度はまるで、二人だけの秘密の暗号を確かめるように、ひどく愛おしそうに紡いだ。


「うん。それじゃ、最も美しく、なにもしない夜を消費しようか。……ふたりで」


 肩口から耳元へ囁かれる、小さくて澄んだ音。

それは多分、退屈な時間を潰すための言い訳なんかじゃない。

青白い光が気だるげに揺れる格安アパートの一室で。


いつもは気まぐれで、テンションが低めで、カッコよくて、可愛くて、酒飲みで、なにかわけありげで、たまに意地悪で、でも優しくて温い彼女が俺に微笑み返した。


もうしばらく、夜の女神と過ごす俺の日々は続きそうだ。



ここまでお読みいただきありがとうございました。


当初の予定ではこれで完結の話だったのですが、投稿してるうちにこの二人の今後をもう少し見たい気持ちになり、構想もできたので、もしよければここでは一部完結として、以降二部として更新続けたいと思います。


また、一部完結ということで、ここまでの感想や評価、ブクマなどいただければ嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
 最も美しく、なにもしない夜。 そこには、沢山色々なものが在るのだろう。
一部完結、おめでとうございます。 まだまだ後日談とかあるそうで、山葉さんが猫被るようになっ きっかけの話(親の話かな)とか、うぇいせんぱいと大学で遭遇したときの話とか、本田さんにバレたときの話とか期待…
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