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呟きとメヌエット  作者: camel
トリプルタイムとサキソフォンと
70/71

10

 秋が終わり12月になり、終業式が過ぎた。

 年始には、また黒沢の家へ行った。可奈子の折り目正しい挨拶――それなりに鶴岡で仕込まれたと笑いながら言っていた――に母などはすっかり喜んでいて、翠はお陰でがさつさが槍玉に上がり、その時の悲惨な表情の妹を思い返すと吹き出しそうになる。

 薫子にも新年の挨拶に行った。こちらは社長室という事もあり聊か緊張もあったが、目に見えて明るくなった可奈子に、薫子も秋乃もしきりに喜んでくれた。

 多くの人に支えられて今の自分達が居るのだと、改めるまでもなく思い、感謝のし通しな年初。

 ふと冷たいものに気付けば、既に薄暗くなり始めている曇天からははらはらと、温暖化など無関係と言わんばかりに雪が降り始めていた。壱はかじかんだ指先でコートの前を寄り合わせ、小走りに家へ向かう。

「お帰りなさい」

 なさい、まで言う時は大抵機嫌の良い可奈子に無表情に出迎えられる。頭と肩の雪を払って、部屋に上がった。

「雪?」

「うん、今」

 壱の返事を聞きながらハンドタオルを出してくれた可奈子にちょっと手を上げて、髪を拭う。あまり乾燥しすぎると喉を痛めやすい可奈子の為に、あまり暖房は効いていないが、室内は外に比べれば段違いに天国だった。ハロゲンヒーターの前に両手をかざしていると、可奈子が緑茶を入れてくれた。彼女も、すっかりこういう作業が板についてきた。

「ありがと」

「どうだった?」

「いや、やっぱプロは凄いね。耳がまだ痛い」

 今年の春から3年になるが、進路希望にも就職と既に書いてある。就職と言って良いのかどうか感覚的には微妙なところだが、卒業すれば壱はシン・ド・アリッサ所属のサキソフォニストとなる事だけは、既に決まっていた。

 この日は、それに先立って現場に邪魔をしてきたという所である。打ち合わせから収録まで、40分程度のアルバムでありながら朝から夕方までかかるという大仕事を体験してきて聊かの疲労もあるが、何よりも壱もよく知るプロの演奏家達がミキサー室のガラスの向こうで懸命に演奏している様は、興奮以外の感情を持てなくなる程に素晴らしかった。

「あの輪に入ると思うと、相当緊張するけどね」

「壱なら、大丈夫よ」

「なら安心だ」

「貴方はやったの?」

 サックスを吹くような仕草をしながら言う可奈子に頷く。

 機材のトラブルで出来てしまった休憩時間に、薫子の口利きで壱は自分の演奏を披露する事になった。なってしまったと言う方が壱の心理には近いが、ともあれ、厳しい目の中で演奏する機会を得られたわけである。

 結果は、それ程悪いものではなかった。細かい部分を挙げればきりがないが、と前置きをした壮年のピアニストが、それでも是非1度は組んでみたいと言ってくれた程である。薫子の手前リップサービスも少なからずあったに違いないとしても、素直に壱は喜べた。

 そういう事を話すと、可奈子は自分の事のように嬉しそうに笑って、頷いてくれる。

「凄いじゃない」

「うん。どこまで続くか解らないけどね」

「今からそんなで、どうするの。サックスしか、無いんでしょ?」

「まあねえ。今からサラリーマン出来る程俺の頭は良くないし」

「勉強する?」

「お断りだ!」

 可奈子は結局、進学もせず、そのまま就職する事に決めた。彼女の成績ならば一流大学へ進む事も全く不安は無い筈なのだが、金銭的な面で大学へ通うのが不可能なのである。奨学制度があるにせよ、それでも先立つ物は必要だった。そこまで、黒沢に頼るわけにはいかない。故に冬休みの間も、資格を取るという彼女は勉強をしている時間が長かった。

 だから壱は、尚更音楽に打ち込んだ。暇さえあればサックスに触れ、適当に買ってきたジャンルも問わないような楽譜を開き、いきなり吹いてみたりする。そんな作業は壱に確実な礎を作り、テクニック面で言えばかなりの物と言っても良い程に実になっていた。可奈子はそれを素直に称え、時に突っつきしながら、応援してくれるのである。

 彼女の気持ちを考えれば、あまり本人の目につくところでやるべきでは無いというのが一般的な見解になるのだろう。だが、壱は敢えて可奈子の前で演奏に興じる。自分がここで変な遠慮をすれば、それはそのまま可奈子へ返っていくしかないからだ。

 そういう無言のやり取りの上で、お互いを求め合う事も忘れない。共に在って生きるというのは、案外こんな単純なものかも知れないと、恋人の裸体を見、抱く度に壱はどこか遠くで思う。ついでに言えば、意外と性交渉が好きらしいのも発見であり、徐々に開かれる体には、聊か生真面目なサキソフォニストの仮面を剥がされるような思いもあったりはした。

 ただ、そんな悟り済ました感情だけで流してしまえる程、壱は彼女の心境を軽く見ているつもりは無い。

「可奈子さ」

「うん?」

 緩めのセーターの襟を直しながら、流し見るように雑誌をぱらぱらと開き始めた可奈子が、顔を上げる。いつでも目を合わせる癖のある彼女の目つきは生来決して良いものではないが、それだけに会話になるという所もある。

「音楽やりたいよね?」

 思ってはいても、聞かなかった事だ。部員達に怪我の説明をした時も、随分とあっさり話せてしまっていたし、どこか捨て鉢な部分が無いとは言い切れないだろう。鶴岡可奈子であった頃から、きっとフルートに対する思いは変わっていない筈なのだ。

 確かに壱を応援してはくれる。別の道を見つけて、それにまい進する姿も合わせて、気にするなと日々口にしているようなものだ。だが、壱はどうしても1度彼女の本音を聞きだしておきたかった。ただ傷を抉るような真似になるかも知れないという危惧や、そもそも壱にこれを話題にする勇気が無かった事で今まで捨て置いていたが、実際にプロを目の前にして自分の将来が見え始めてくると、やはり、という思いが先に立っていた。

 可奈子は壱の言葉に驚いたように目を丸くした。聞かれる筈のない事を聞いたのだから、当然かも知れない。上辺だけとは言わないまでも、伏せたままで済むカードであったのだ。

「な、実際どうなのさ」

「勿論、出来るならね」

 けろりと、可奈子は言い放つ。棘も鬱屈も無い言葉。

「そうじゃなくてさ。出来る出来ないとかじゃなくてよ。君の右手は、出来ない理由でしょ? そうじゃなくて、なんていうのかな」

「言いたい事は、なんとなく解る。でもこれが現実だもの」

 右手を差し出し、可奈子は人差し指と中指を動かした。薬指、小指に比べて、わざとそうしているのではないかと思う程に稼動範囲が狭い。その気になれば動かせるらしいが、それには痛みを伴うのだと、壱は以前聞いていた。

「捨てきれたわけじゃないでしょ、フルートを」

「まあ、ね」

「今も俺と一緒にやると、凄く嬉しそうだけど、でも悲しそうでもあるしさ。手伝うのが嫌なわけじゃないよ? ただ、本当にそこで終わっちゃっていいのかなって」

「諦めなければ、右手が治るわけではないでしょ」

「それはそうなんだけど」

「いいのよ、そういう気は使わなくて。私は私に出来そうな事を、やるから。そういう合間に、貴方と一緒に居て、それ以上に望む物なんて無い」

 言葉だけなら嬉しい悲鳴が上がる所だったが、その台詞を吐いた本人が、どこか痛そうな表情になってしまっているのでは台無しである。言葉が多くなってそれで繕うようになってきたのは、あまり褒められた事ではないのかも知れない。言葉が多すぎる壱の影響もあるのかも知れなかったが、それで本音を出せなくなるのであれば本末転倒というものである。

 それだけに、可奈子を1度はその気にさせたいと思った。今の彼女に必要なのは熱意である。本来あった筈の音楽に対する憧憬と情熱が冷める前に、もう1度、思い直して欲しかった。

「凄く勝手な事を言ってるのかも知れないけどさ。フルートの事を、また考えてみないか?」

「考えるって、言われても」

「今すぐこの場でキッパリ音楽を捨てちゃうなら、それでも俺は構わない。けど、楽しくもない勉強を続けたって仕方ないでしょ?」

「そんな事」

「本当に?」

 例えば、剥離骨折が綺麗に治った例があるとしたら、それに賭けるべきだという思いは当然ある。あるが、それだけで彼女を動かすのは難しい。徐々に音楽というものを内心で麻痺させる事で前向きになってきた可奈子を、再び辛いかもしれない場へ引きずり上げるというのは、残酷な事でしかないかも知れないのだ。

 だからと言って、勉強をしていようが、家事が板についてこようが、可奈子の中から屈託が綺麗に消えてしまった筈が無い。あれほどの腕を持つ人間が、手が使えなくなったという理由だけで、いきなり全てを無に出来る程、単純に出来ているわけがないのである。

 暫く、可奈子は黙ったまま、見るともなく掴んだままの雑誌に目を落としていた。こちこちと時計の秒針が音を立てる。

「私は」

「うん」

 たっぷりと考えて、可奈子は漸く口を開いた。

「私は、今の暮らしに、満足してる」

「……そうか」

「ごめんなさい」

 何も相槌が打てず、壱は黙るしかなかった。可奈子もまた、口を閉ざす。普段なら、お互いに何も言葉を発しなくてもそうは思わないのに、この時ばかりは流石に重苦しさが肩に圧し掛かった。

「壱」

 そしてまた無言を破ったのは、可奈子だった。

「フルートを、手伝って?」

「……ああ、うん。解った」

 ベッドに腰掛ける可奈子の後ろに、フルートを持って座る。体の前へ腕を回し、初めての時よりもぴたりと体を寄せて、彼女の顔の高さへ掲げた。可奈子の左手が銀色に触れ、右手が拙く壱の左手を握る。彼女と一緒に暮らすようになって、殆ど日課のようにしてやってきた事だ。

「マリー・ゴールドを」

「俺の右手じゃ難しくないかい?」

「簡単な所だけで、いいわ」

 言うなり、可奈子は深呼吸をしたので、慌てて壱も右手を動かし始めた。ピアノの連弾のように、それぞれのキーが独立して音を出すわけではないフルートという楽器の性質上、可奈子の演奏の癖や好みを知らない限りまともな楽曲にはなりえない奇怪な奏法だったが、ことここに至っては、自分1人でフルートを吹くよりもまともな演奏が出来るようになっている壱である。

 時折可奈子の右手が壱を強く掴んだ。合わせて、胸に触れている小さな背中が大きく膨らむ。それだけでどういうニュアンスを起こしたいのかが解るほど、何度もやった事だ。

 第一楽章は、極めてスローペースであり、故に追随して右手を動かすことも難しくはない。恐らくは彼女の望んだ形に近いであろう演奏が、終わった。

 フルートを片手で縦にし、可奈子は体全てを壱に投げ出して、大きな溜息を天井へ向けて吐いた。

「いい音だったわ」

「そうだね」

「また、付き合ってね」

「勿論」

「ありがとう」

 何故かその言葉が胸に詰まって、壱は涙が溢れ出すのを止められなかった。その涙を、可奈子の右手が拭っていく。

「なんで泣くの?」

「なんでだろうなぁ」

「どうしたら、泣き止む?」

「可奈子が、また音楽やるって言ってくれたら」

「じゃあ、やるわ」

「……え?」

 寝耳に水どころではなかった。たった今、可奈子のフルートという可能性が消えうせた事に対する悲しみが零れ落ちんばかりに心を埋めているのに、この簡潔さはどうしたものかと思う。

「今の今まで、やる気が無かったのは、本当。別に意地悪したわけじゃ、ないわ」

「でも、なんで急に」

「壱が泣くから」

「それだけ?」

「それだけ」

「泣き得?」

「そうかもね」

 腕の中で体を捩って正面を向き、呆気に取られている壱の顔を両手で押さえて、可奈子は可笑しそうに笑った。

「ねえ壱。私が、フルートを始めたのは、なんでだったか、憶えてる?」

「そりゃ勿論。一番最初は、やっぱり逃避の為だよね?」

「そう。それから、楽器が好きになった。好きな楽器を褒められるのは、嬉しかった。だから、また壱が褒めてくれるなら、やるわ」

「そんな、単純な理由で?」

「音楽がやりたい、というよりね。壱にフルートを聴かせてあげたいと、思って」

 本当に単純な理由だと思った。

 それだけに、また双眸にこみ上げてきた涙を、壱は止められなかった。そして可奈子は、それを拭って、また笑った。

「泣き虫」

「すいません」

「多分、前のようにはいかない。指が痛いから。出来ない事が解ってるから、やりたくなかった。みすぼらしい演奏を、壱に聴かせたくなかったから」

「うん」

「でもね、ゆっくりならきっと、それなりに出来ると思うの。やっぱりプロとかは、無理だろうけど、壱はそれでも喜んでくれる?」

「滅茶苦茶嬉しいよ」

「そう。じゃあ、そのうちセッションも、やりたいわね」

 なんだか母親に宥められているような思いで、実際泣き顔を撫でられながらの話なので似たようなものだったが、壱は可奈子がそんな事を言うのを半ば呆然と聞いていた。

「薫子さんが、夏に言ってたわ。私の演奏は、人のためにすべきだって」

「そんな事があったのか」

「壱の為なら、どれだけだって吹ける。人を好きになった事なんて初めてだけど、これがきっと、愛しいって感情なんでしょうね」

 笑顔を全く崩さずに、真っ直ぐに目を見据えてそう言う彼女の言葉が、どうしようもなく胸を熱くした。

 今はもう、彼女の右手がきちんと動かなくなっている事を恨めしいとも、思わなくなっていた。可奈子もまた、それを受け入れた上で、壱の好きなフルートを吹いてくれると言った。

 愛してる、という簡単な言葉を耳元で呟いて、可奈子はぎゅうと壱の頭を抱え込んだ。

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