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呟きとメヌエット  作者: camel
トリプルタイムとサキソフォンと
69/71

 すっかり秋めいてきた通学路を並んで進み、昇降口で別れる流れにも、すっかり慣れたものである。相変わらず登校時間は相当に早いが、それも可奈子の異常に正確な体内時計が正確に目覚まし時計の機能を果たしてくれるので気にはならない。遠慮がちな力で揺り起こされるのも、幸せである。

 ところがこの日は、どうしてか不機嫌そうな彼女に起こされた。月によってはバイオリズムが変わる事も大いにあるだろうとは思うが、どこかその不機嫌の出所が掴めない。

「じゃあ、また放課後」

「うむ」

「黒沢君」

「何?」

「……なんでもない。じゃあね」

 そして別れ際も、不機嫌そのものだった。あまり露骨にそういう事をしなかった彼女の態度に不安も残るが、それでも多様な表情はそれなりに壱を喜ばせる。変態か、と自問し即座に頷く事も忘れなかった。

 まだ生徒の少ない教室に、ユキが入ってきた。意外と登校時間の早いのは彼女も同様である。

「ユッキー」

「うん?」

「俺はなんか秒刻みにバカになっていってる気がするんだ」

「そりゃ大変ねえ」

「マジでマジで」

「これ以上どこがバカになるのか知りたいもんだわ」

 にべもないユキの言葉だったが、例えば不意に目覚めた夜中に可奈子の寝顔を見ていたら朝になっていたとか、シャワーを浴びて出て来た彼女の肌の瑞々しさに気付いて用も無いのにコンビニまで全力で走って行っりと、ここ最近の日常はいくらか幸福濃度が高すぎて半ば壱は壊れ気味である。

「ユッキー」

「なによ」

「俺お鶴さんと付き合ってるんだけどさあ」

「うん」

「それで色々と悶々として……って今凄い普通に流したな?」

「や、流石に確証は無かったけど、そうじゃないかって気はしてたわ」

「凄いな女の子」

「前に若菜が何か察してたけど、確かに鶴岡の黒沢君を見る目とか、黒沢君の何気ない気遣いとかね。そういうの、結構出てるわよ」

「そうだったのか」

「しかしなんで秘密にするかね?」

 頬杖を突いて、ユキは呆れたように言う。思わず暴露してしまったが、最初に話したのがユキで本当に良かったと思い始めている壱である。

「いや5人しか居ない中で内2人が付き合っちゃうと微妙かなってさ」

「それは解るけどね。若菜の元彼の話もそれがこじれたようなモンだし」

「でしょ?」

「うーん、しかしマジだったか。こりゃ若菜はそれなりに凹むわね」

「何とも言えねえー」

「でもさ、随分前から黒沢君は鶴岡に甘かったし、なんか特別扱いしてるような所あったし。若菜も半分ぐらい諦めてたと思うよ」

「何とも言えないっす、マジで」

「ああゴメンね。でもまあ、教えてくれてありがと。で、他の面子には?」

「まだ言ってない」

「そりゃまた、面倒ごと持ってきてくれたなあ」

「すいませんホント」

「いいわよ別に。若菜には私から先に吹き込んどく。咲ちゃんは黒沢君も鶴岡も好きだから、なんかよく解らない喜び方するんじゃないかしらね」

「面倒かけますねえ」

「副部長とか一番やっちゃいけないポジションよね」

「確かに」

 笑って、話はそこまでになった。授業を適当に乗りこなし、放課後になって、部室に向かう。可奈子は指のリハビリという名目で休み続けているが、そろそろそうとばかりも言っていられないだろう。それに、今こうしてユキに明かしてしまった事もあり、可奈子には今一度来て貰った方が良いかも知れなかった。考えている事もある。

 放課後、可奈子のクラスへ。壱が彼女の元へ来るのは最早通例になっているので、クラスの人間の反応も最早無いに等しい。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと色々あってだな。皆にいい加減説明しようと思って。ユッキーには既に暴露したが」

 それだけで察したらしく、可奈子はちょっと目を脇へやってから、頷いた。窮屈である事には違いないのである。

「わかった」

「そうか。ついでに、手の事も一緒にどうだろう?」

「……そうね、いずれ解る事だし、ね」

「皆、気にしてくれちゃうだろうな」

「でしょうね」

「いい加減新入部員を考えないといけないなと思ってさ。その折に、説明するには良いと思ったんだ」

 コンクールの成績は、非常に良かったものだと思っている。それだけに学校側は手厚い保護をし始めたようだし、結果元吹奏楽部の子供じみた嫌がらせもはたりと止んだ。だから、今後も部を残すのであれば、今が部員を増やすチャンスなのである。

 壱の雑な説明に頷いて、可奈子は鞄を前に携えた。並んで音楽室へ行くと、来ていたのは咲だけで、壱よりも早く教室を出て行ったユキの姿も無い。

「おや1人だけかい」

「お、先輩方! 聞きましたよスキャンダル!」

「元気だなおい」

「やー、いずれそうなるんじゃないかと思ってましたけど。実際になるとこう、あたしの少女性が悲鳴を上げるんすよ」

 言いながら咲は可奈子と壱を交互に眺め、嬉しそうに落ち着き無く頷く。この所体調は決して悪くないらしく、彼女らしい明るさが目に見えている事が多い。

「何それ」

「あたし学校で男の知り合いって言えるの先輩とクラスの男子の数人ぐらいなんで、よりによって先輩が人の彼氏になっちゃうとなると、なんかこう、微妙で」

「微妙か」

「いやめでたいですけどね!」

「どっちな?」

「えーと……おめでとうございます?」

「あ、そっちに落ち着いたのね」

「あたしの鶴岡先輩をよろしく!」

「俺のだからな!」

「キャッ、超恥ずかしいこの人!」

「言わせておいてそれは無くね!?」

「馬鹿ね」

「おお、鶴岡先輩があんま満更でもない!」

 やいのやいのと騒いでいる音楽室に、扉の開く音が響く。ユキが入ってきて、次に若菜。しょぼくれているのだろうかと思っていたが、意外にも若菜はきっと壱を見据えて口を開いた。

「く、黒沢君!」

「はい」

「あ、クール……ええと、ほんとにほんと?」

「その為に今日は可奈子ちゃんにご足労願いました」

「部活では、久しぶりね」

 可奈子はこの所標準装備となりつつある笑顔で、若菜にそう答えた。休み時間等に一緒になる事は多いが、確かに部活では久しぶりとなる5人である。

「なんかそんな気配は感じてたけど、やっぱ付き合ってるんだ、2人」

「若菜嬢がああ言った日、実にビビっていた俺と可奈子さんでした」

「うん」

 並んで同時に頷く壱と可奈子を見て、若菜は壮絶な表情でユキの腕を取る。

「うう……ユキちゃんどうやらマジだよ……」

「だからそう言ったでしょ。アンタが早く動かないからこうなったのもあるんだから、ちゃんとしなさい」

「だよねえ……えと、とりあえず、おめでとう鶴岡さん、黒沢君」

「どう、いたしまして?」

「なんで俺に疑問を向けるのか」

「黒沢先輩マジ保護者!」

「菱沼さん、それは逆だわ」

「つ、鶴岡先輩の返しが豪快に進化してる!」

「でも、どうして秘密だったの?」

 髪を後ろに流しながら、若菜から当然の疑問。少し考えて可奈子を見ると、最早視線は窓の外へ飛んでいた。説明や解説は彼女の性には合わないらしい事と、どうやら全て任されたらしい事を察して、壱は当たり障りの無い部分を説明した。同居や虐待などは当然語れないにしても、ある時期からという表現の仕方で交際を納得してくれたあたりは部員に感謝しなければならない。

 同時に、あまりに小規模なこの部活内で大っぴらに交際を宣言してしまうのも問題になるという判断にも、それなりに理解を示してはくれた。可奈子は壱の説明が終わった後、一応の裏づけをせんばかりにこくりと1つ頷いただけである。怠惰だった。

「というわけでね。まあ、今後も変わらぬお付き合いをお願いしますよ庄屋様」

「もちろんっすよ! でも最初の子供の名前はあたしが付けますからね!」

「咲ちゃんはちょっと未来に生きすぎてるな、もうちょい戻ってごらん?」

「ま、私はさっきも言ったけど、今更アンタらがイチャついても気にしないし。若菜は?」

「悔しいです……」

「素直だわ……」

「うんでも、お似合いだもの、2人。仲良くしてね」

 曖昧に笑顔を作って、若菜は頷いた。取り急ぎの問題はこれで1つ解決である。あとは、可奈子の右手に関する事だった。

「で、もう1つ悪いニュースがあるのだ」

 そう声をかけて、壱は腕を組んだ。びくりと体を縮めて若菜が恐る恐る見上げてくる。これ以上何があるのだと言わんばかりの表情だった。

 可奈子の肩をちょっと叩く。これは、流石に本人に説明させるべきだと判断した。

 言葉を選んだのか、暫く黙り、可奈子は言う。

「私の右手の、怪我だけど。もう、以前のような演奏は、出来ないそうなの」

 極めて平静に、人伝の天気でも語るかのように、可奈子はそれだけを発した。3人の表情が、驚愕、それから愕然というものへ変化し、張り付いたままになる。

「剥離骨折と言ってね。筋が、骨から剥がれてて、これをきちんと戻すのは、殆ど不可能だと言われたわ。今も、骨折自体の痛みは引いたけど、あまり強く動かすと、痛むしね」

「え、でも、それ」

 最も狼狽を見せたのは若菜だった。今の今まで自分の事で沈んでいたのに、もう可奈子の体の心配である。そういう所を見せられると、やはり眩しいような気に壱はなった。

「鶴岡、本当に治らないの?」

 若菜の疑問を代わりに発するように、ユキが厳しい声で問うた。可奈子はユキと真っ直ぐに目を合わせ、頷き返した。

「日常生活に、不安は無いけどね」

「でも先輩のフルートは」

「もう出来ない。ごめんね、菱沼さんも、臼井さんも柴崎さんも、皆が褒めてくれたのに。でも、もう私は悲観はしていないから」

「けど、そんな」

 更に若菜が泣き言のような事を言いかけて、踏みとどまった。可奈子自身が悲観など無いと言っているのである。これ以上の言葉は同情を下回った喜劇にしかならないと、彼女にも解ったと見えた。

 この辺だろう、と壱は判断した。あまりこの話題を続けていては、可奈子も良い気分にはならない。

「というわけで、咲さんにミッションを課したい」

「ミッションですか」

「うむ。1年生の部員を探してみてくれんかね? いつまでも5人じゃ、出来る事も少なくなるし。来年で終わりだしね、俺ら」

「はー」

「どう思うね副部長」

「それはそれでいいけど、なんか冷たくない? 彼女の事でしょ?」

「彼女の事だからさ。可奈子はこれで良いと思ってるわけじゃないけど、悲観しないって決めたんだから」

「おお、名前呼び捨て!」

「わ、ホントだ。いいなぁ」

「緊張感ないわねアンタ達も……」

 ユキがげんなりとした表情で野次馬を決め込む咲と若菜を振り返る。

「まあいいか。若菜はどう?」

「ううん、1年生には何人か顔見知りが居るけど」

「百合色の?」

「ゆ、百合色じゃないってば」

「壱、百合色って何」

「おお、名前呼び捨て!」

「わ、ホントだ。いいなぁ」

「隙を見せるとすぐループするわねアンタ達は……」

 即座に緊張感が消えうせる辺りも、実にこの吹奏楽部らしくて良いと思えた。当初は若菜が必要以上に沈み込んでしまったり、可奈子の右手についても過剰な心配や憐れみが集まるのではないかという危惧も少なからずあったが、どうにか落ち着いて話が出来そうである。

「とりあえず、1年生は探そう。2年は可奈子の関係があるので難しそうだけどね」

「まあね。じゃ、うちらも当たってみようか若菜?」

「うん」

「君らが頼りさ」

「先輩、新入部員1人につきいくらのロイヤリティーが出ますか?」

「俺の靴下の綿埃でもくれてやるわ!」

「ヒャッホー!」

「ヒャッホーなの!?」

 その日は再度出来るだけの練習をして解散となった。新入部員を今の時期に募集するというのも結構な難題ではあるのだが、可奈子の不在が続いて文化祭にも出られなかった都合、これは足で稼ぐしかないのかも知れない。

 最後に音楽室に鍵をかけて新田教諭に返し、帰宅。

「お疲れさん」

「お疲れ様」

 並んで靴を脱ぎながらお互いを労い、室内へ。可奈子が部屋で、壱は脱衣所で着替えるのがルールとなって久しい。食事の支度もかなり手際よくなってきた辺り、可奈子の適応能力も大したものだった。

「今日はありがとう」

「ん?」

「やっと、察してくれた?」

「あ、ええと?」

 食後、テレビを適当に聞き流していると、可奈子がそんな事を言い出した。無論、壱には何かを察した憶えは無い。

「違うの?」

「噛み合ってないね?」

 壱の反応を見て、可奈子は長く溜息を吐いた。それから、露骨に壱に背を向けて窓の外に興味を全て注ぎ込む態勢に入る。

「ごめんよ、よくわかんないけど」

「今日、皆にきちんと話してくれたでしょ」

「うん」

「それが嬉しかったのだけど、偶然だったのね」

「あ」

 それで今朝から不機嫌だったのか、と思い至った。不機嫌というよりも、あれが可奈子の「怒り」であり「抗議」であったのだろう。表情の変化が楽しい、などと自分の変態性を満たしている場合ではなかった。

「今朝からか」

「解った?」

「解った」

 また大仰に溜息を吐いて、可奈子は再び壱と向き直った。まだ不満が顔に残っていると、今なら解る。

「こういう時じゃないと、私は何も言えないしね」

 言いながら、可奈子はベッドに座り直し、隣をぽんと叩いた。来い、という事なのだが、その仕草が異様に艶かしいものに見えて、壱は心音が一気に跳ね上がるのが解った。

「もう貴方に対して、痣の事なんかで、引け目を感じたりはしない。けど、ずっとこのままだと、辛い」

 自分は何を言わせているのだ、と思った。こんな事を言わせる為に、彼女に手を出さずにいたわけではなかった筈である。

「私も、少しは泣いたり、するから」

「ごめん」

「謝って欲しいわけじゃない」

「いや、ただホラ。こういう環境だし、これ幸いって感じがしちゃうし。大切にしたいなっていうか」

「壱の言葉は優しいわね。でも、言葉より、私は触れられてる時の方が、優しいと思う。フルートを、一緒にしてくれる時とか」

 そこまで言われて、単に可奈子を大切にしたかったのではなく、自分が大切な可奈子に傷をつけるのが怖かっただけだと思い至った。だから言葉に頼ってしまう。好きだ、と言えばそれで好きだと伝わると思ってしまう。そうではないと、桐田咲には手を優しく包まれて教わった筈だった。

 生まれて初めて触れる、好きな人間の体というのは、それだけ壱にとっては危険で、かつ神々しいものだったとも言える。

「すいませんね、ヘタレで」

「ほんとにね」

 笑った可奈子の顔に近づいて、腰を抱き寄せた。シャツのボタンを上から外すと、すぐに鎖骨の下に青痣が併走するように走っているのが見えた。そのまま前を全て開くと慎ましい胸には、大小長短濃淡様々な、傷跡の羅列。そのどれもが、可奈子の半生であったと思うと、最早愛しい以外の感情を抱けない。

 可奈子は胸を注視する壱を、身を微かに堅くしながら、それでもじっと見据えていた。ああは言っても、彼女の矜持は幾度も傷ついた筈だ。今もまた、本当は気味悪く思われるのではないかという不安が、きっと残っている筈である。

 だからか、唇を寄せてから、壱は溜息を吐いてしまった。可奈子が不思議そうにしながら壱の頭を抱いてくる。

「何?」

「いや、綺麗だなぁと」

「ん」

 明かりは消さなかった。

 可奈子もそれを強要しなかったのもあるが、お互いにお互いをきちんと見ていたいと、何故か通じ合ったような気がしたからだ。

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