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呟きとメヌエット  作者: camel
トリプルタイムとサキソフォンと
68/71

 流石に門前まで来ると、可奈子は緊張し始めたようで、動かすのに大分難儀しなくなってきた右手を不安げに握ったり開いたりしている。その肩を軽く叩いて、壱は先に立った。

 祝日と日曜日の連休を利用して実家に戻ってきた。可奈子を、家族に紹介するためである。

 気軽に玄関を開け、声をかける。

「ただいま」

 奥の方から、母の声が返ってきた。可奈子がぴくりと反応する。

 靴を揃えて上がり、並んで母の前に立つと、老眼鏡を通して何やら週刊誌に目を落としていた母が、ちょっと顔を上げながら微笑んだ。

「お帰りなさい。そちらは?」

「俺のお嫁さん」

 可奈子が反射的に壱を見上げてきたが、別に嘘を言っているつもりは無いとして流した。

「そう。黒沢壱の母です」

 そして母も特に気にも留めずに、椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。可奈子も慌てて、それに返す。

「来須可奈子といいます」

「壱がいつもお世話になってますね」

「とんでもありません」

 いつもより一息に多くの言葉を発しながら、可奈子はそれでも折り目正しく挨拶をしてくれた。それだけの事が、なんとなく壱にとっては誇らしい。

「他の皆は?」

「もうじき帰ってくるわよ。翠は上に居るんじゃないかしら」

「そっか。あ、今日は泊まるんで宜しく」

「解った。ゆっくりしていって下さいね、可奈子さん」

「お世話になります」

 まだぎこちなさは抜けないようだったが、微笑む恋人の背を、壱はちょっと押してリビングを出た。階段を上がり、自分の部屋へ。

 相変わらず手入れの行き届いた室内は、埃も無く、昨日まで寝起きしていたようにすら見える。

「緊張した?」

「した」

 長く溜息を吐きながら肩から下ろす可奈子の手荷物を脇へやる。

 以前から来よう、という話にはなっていたのだが、可奈子が今一度鶴岡の実家へ向かった事があったりで、つい後回しになっていたものを、今日になって漸く実現できた。可奈子としても、家族の誰とも挨拶をしていないのに壱の部屋に居続けるのは心苦しいとの事は常々口にしていたので、これである程度の心配事は片付くなと壱は思っている。

「そういや、翠は居るって言ってたな。ちょっと呼んでくるよ」

「妹さん、だったわね」

「そ。五月蝿いし落ち着き無いけど、まあ簡便しやっておくれ。超健康な咲ちゃんみたいなもんだと思って」

「それは、凄そう」

 素直な感想にちょっと笑って、翠の部屋をノック。はいよ、という気軽な返事を聞いてから扉を開けると、ベッドにごろごろと横たわりながらこれも母同様雑誌に目を通す妹の姿。

「よう」

「うわ、帰ってきてたの!?」

「さっきな。ちょっと部屋に来てくれんか」

「なん?」

「俺のお嫁さんを紹介するから」

「はぁ!?」

 大声で反応しながら、雑誌を傍らに放り投げ、勉強机に引っ掛けてあったジャージを羽織る翠。一応の対外的な感覚は持ち合わせていると知って兄としては一安心である。

 揃って壱の部屋に戻ると、窓から外を見ていた可奈子が振り返った。

「ちっさ!」

「おいコラ」

 極めて素直な感想を口にする翠の後頭部を思い切り引っ叩く。可奈子は唖然としてそれを見ていたが、気を取り直したのか翠の正面に立って、深々と頭を下げる。

「初めまして、来須可奈子です。お兄さんには、いつもお世話になってます」

「あ、お、弟……じゃない、妹の黒沢翠です」

 体中でパニックを起こしながら、翠は精一杯の礼儀を総動員して礼を返す。翠の身長はバスケットをやっている所為もあってか平均より高めであり、可奈子からすれば大女に見えただろうが、その姿勢は畏まり過ぎてかなり丸く小さくなっていた。横から見ると中々面白い構図ではある。

「ええと、お嫁さんて言ったよね壱にい?」

「うん」

「そうなんですか?」

「ええと、そのうちに」

「な、何か弱みとか握られて……」

「よし帰れお前もう帰れ」

「やだ!」

「いくらなんでも無礼が過ぎるぞ妹。初対面で舞い上がるのは解るが」

「私は、大丈夫だから」

「ホレ見ろ、兄貴の彼女に気使わすな」

「うう、だって色んなショックがでかすぎてさぁ……」

「とりあえず落ち着けよ」

 可奈子に椅子を、翠にベッドをすすめて、壱は床に腰を下ろす。翠は色々と考えているのか、小さくなりながらもじっと可奈子を見詰めている。対してその視線を真正面から受け止め、そしてにこりと笑う可奈子。勝手ときめく壱。極めて不気味な空間と言えた。

「あの、来須さんは、壱にいとどこで?」

「吹奏楽部で、一緒です」

「可奈子、別に敬語じゃなくていいんだぜ」

「ううん」

「それで、付き合うように……?」

「はい」

「こ、こんな可愛い人が壱にいの毒牙にかかるなんて」

「どうしても俺と戦いたいらしいなお前」

 それから暫く、可奈子と翠の会話になった。楽器の事、まだ包帯の取れない指の事などをずけずけと聞いていくのに内心冷やりとしたが、可奈子は気にも留めた様子も無く1つ1つ丁寧に答えていく。屈託が綺麗に消えたように見えて、素直に喜ばしかった。

「で、壱にいのどこが良かったんすか?」

 中途半端に敬語を使い始めた翠の問い。可奈子は壱を見てくるが、壱もそれは多少気になる所ではある。

 暫く溜めて、可奈子は頷き、口を開く。

「お兄さんは、凄く優しい人だから」

「はー」

「納得いかなそうだな妹」

「んなこたぁないよ?」

「後、楽器も上手で。そういう所が、好きなんだと思う」

 いくらか可奈子も遠慮が消えてきた中、歯に衣を着せない所は、こういう時にも威力を発揮する。思わず顔が赤くなりそうになったのを目ざとく翠が気付いて、にやりと薄笑いを浮かべた。

 そうこうしているうちに、母が翠を呼びつけた。夕食の支度だろう。

「んじゃ、ゆっくりして行ってつかぁさい。何も出来ないっすけど」

「ありがとう」

「壱にいは幸せもんだな!」

「まあな」

「うはー! うるせえこの部屋!」

 頭を掻き毟りながら階段を軽快に駆け下りていく音が遠ざかる。可奈子と顔を見合わせると、ぷっと吹き出した。

「可愛い妹さんだと、思う」

「そうかい」

「なんとなく、貴方の影響も、あるみたいだし」

「それについては日々兄貴と反省の繰り返しさ」

「ところで、私にも何か、手伝わせて貰えないかしら?」

「え? いや、今日はお客さんなんだから別に」

「そうはいかないわ。今までだって、貴方への仕送りで、私は暮らしてきたんだから」

 こうなると頑固なのは解っているので、壱は頷いて彼女をリビングへ誘った。台所に立つ母と翠の背に声をかける。

「母さん」

「何?」

「あの、何かお手伝いさせて下さい」

「まあ」

 壱が何か言う前に割り込んだ可奈子の言葉に、母は目に見えて嬉しそうな顔をした。翠も、同じように笑う。

「でも、可奈子さんは手を怪我されているんでしょう?」

「殆ど治ってますから」

「そう。それじゃ、翠を手伝ってあげてくれますか」

 頷いて、可奈子は翠の傍に立った。後ろから見ていると姉妹のように見える。可奈子の方が妹に見えるのは無論彼女に明かすわけにはいかない。

 料理などの細かい知識はあっても実践の伴わない可奈子に、翠はそれでも丁寧に色々と説明しているようだった。安心して、壱は施設の方へ足を向ける。

 時間帯としては昼寝の済んだまだ小さな子供達にちょっとしたレクリエーションを行っている所だろう。事務所へ足を踏み入れると、職員の何人かが会釈をしてくれたので、返しておく。父と兄が応接ソファで向かい合って何やらミーティングめいた事をやっているのが見えたが、構わずに声をかける。

「ただいま」

「おう、帰ってたのか」

「スパンはええな」

 兄と父の歓迎を受け、壱もソファに腰を下ろす。

「邪魔するぜ」

「で、今回はなんで帰ってきた」

「嫁を紹介しに来た」

「マジで」

「マジで。家に居る」

「親父殿、俺は今日はこれで上がる」

「ふざけるな、俺も上がる」

「待てよ男衆」

 ごく簡単な理由で職務を放棄しようとする父兄を取り押さえながら、壱はこれまでの経緯を簡単に説明することにした。

「拓さん、可奈子の事はどのぐらい?」

「汚い事以外は」

「そっか。じゃあそれは伏せたままでもいいよね、今日の所は」

「そうだな」

 兄弟のやり取りを気にしながらも口を挟まない父に向き直り、鶴岡可奈子、今は来須となった恋人の話を始めた。現状どうやって暮らしているかという説明に加え、それで金を潰してしまっている事を詫びながら、それでも出来れば今の生活を続けたいという旨も合わせて伝える。

 父はいくらか面食らっていたようだが、最後には笑って頷いて見せた。

「お前も結構やり手だな、壱」

「そうかねえ」

「拓より先に壱の孫か」

「いやそれはいくらなんでも気が早いから!」

「待てよ、翠があの年齢でおばさんっていうのはちょっと良くないか?」

「拓さん帰ってきて」

「まあとにかく、細かい話は飯の時にするか。今その、可奈子さんは何をしているんだ?」

「台所で母さんと翠を手伝ってるよ。やらせて欲しいって」

「立派な子だな」

「とりあえず報告だけ。俺は先に戻ってるよ」

 それだけ告げて、壱は施設を辞した。まだ背後で可奈子についてのあらぬ想像に思いをはせる父兄については見えない振りを決め込み、家へ。既に粗方の準備は済んだのか、可奈子は翠と母に向かい合うようにしてテーブルを挟み、茶を飲みながら雑談をしていた。まだ堅さも顔に出ていたが、上手に溶け込めたものだと感心する。

「飯はなんだい」

「お鍋だぜ」

 壱の問いに翠が答え、母は素早く壱の分も茶を用意する。可奈子の隣に腰を下ろし、貰った茶で一息。

「何の話を?」

「壱の話」

「何を話した」

 思わず目をむいて可奈子を見るが、簡単にそれは逸らされた。翠が笑う。

「別に変な話じゃなかったわよ。可奈子さん、しきりに壱に感謝してるって事ばかりで」

「愛いやつよ」

「妬けるぜー!」

「お前もいい男を早く見つけるこったな」

「翠は彼氏居ないの?」

「今度は翠が標的か!」

 壱と母があの手この手で翠の男性関係に探りを入れるのを、穏やかに笑って可奈子は眺める。やはり、この家に連れてきて良かったと改めて壱は思う。

 時間が過ぎ、父と兄が帰ってきて食事が始まってからも、それは変わらなかった。全員揃った所で壱が可奈子を紹介し直し、いくらか照れを隠し切れずにいる可奈子を、家族は笑って歓迎する。食後まで談笑は続き、色々な質問にも丁寧に答える様が、壱にはやはり誇らしいものに映った。

 夜になり、勉強を教わるのだという翠に可奈子を取られ自室に戻ると、拓が布団を抱えて入ってくる。流石に実家でまで同じ寝床というわけにはいかないだろう。

「よくやったな」

「拓さんのお陰だ」

「銭金の世話しかした憶えないよ。こういう言い方はアレだが、あの子の表情は、うちから新しく家族に迎えられていった子のそれとよく似てる」

「うん」

「それだけ、お前があの子にとって大きな存在だって事だ。大事にしろよ」

「言われなくても」

 間髪の入れない壱の答えに拓は満足げに頷いて眼帯を撫でた。この男の為にも、自分はこれからはもっとしっかりとしていなければならない。

「時に性的な話は?」

「やっぱそっち行くのかよ! ねえよ今の所!」

「マジかよ信じられねえ! お前本当に俺の弟か! 同棲してんだろ!?」

 あまりシリアスな雰囲気の持続しない兄弟ではある。

「いや、声デカいからな」

「すまんね。でもそれ却って辛くないか」

「いやあホラ、こう、体格差とかな……」

「大丈夫入る入る」

「下品だよこの人!」

「でもお前、真面目な話その辺もきちんとしてやらんと可哀想だろう。大切なのは解るが絵画じゃねえんだから触れ」

「言いたい事は解るけどな」

「女にも性欲はあるんだ、独りよがりは破滅の元だぞ」

「怖いこと言うなよう」

「ま、帰ったら考えてやれよ」

 そんな事を言って、拓は出て行った。どこまでも自分の兄だと痛感せざるを得ない男である。

「ただいま」

「おや、早かったね」

 入れ替わりのように可奈子が戻ってきて、既に敷かれた布団の上に腰を下ろした。流石に顔色には疲れが見える。

「大変だったねえ」

「ううん。楽しかった」

「なら良かったけど」

「前に言ってくれた事が、あったわよね。家族のあったかさを、味わわせたい、って」

「うん」

「今日1日だけど、よく、解ったと思う」

「そうか」

「凄く優しい人達ばかりで。妹さんは可愛いし、お母さんも優しいし。お兄さんは少し、よくわからないけど」

「兄貴は俺にも一生解らないと思う」

「でもね。皆、やっぱり優しい。今までの所為も、あるかも知れないけど、こんなに優しい世界があると、知らなかった」

「これからももっと色んな事が解るよ」

「うん」

「また、今度は年始にでも来ようか」

「楽しみだわ」

「そう言ってくれると俺も嬉しい限りだ」

「でもお嫁さんて紹介は、どうなの」

「嘘はついてないもん」

「だとして、恥ずかしいし」

「それを見たくて言ってるんだけどね!」

 壱の物言いに長い長い溜息を吐いて、可奈子は最後にはやはり笑うのだった。

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