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シン・ド・アリッサでの雑務はかなりの疲労を伴った。
何という事は無く、ただ社長室の調度の移動などを命じられただけなのだが、どれもこれも中身はぎっしりと詰まっているしきちんとした木の素材を使っているものだから重くて仕方がない。腰と手のひらが悲鳴を上げ始めた所で、漸く薫子から休憩を許された。
「悪いわね」
「というか、これ夏海さんとやる予定だったんですか?」
「いいえ。秋乃は中々あれで力があるけど、流石にこうはいかないもの」
「間が悪かったんですかねえ俺は」
「そう言わないで。業者に頼めばいくらも取られるんだから、ここは黒沢君に恩返しの機会を与えた方が良いかなと思っただけよ」
嫌味に聞こえない辺りに薫子真髄を見た気がしながら、壱は大きく息を吐いてソファに腰掛けた。アイスコーヒーが目の前に置かれ、思わず薫子とグラスを交互に眺めてしまう。
「薫子さんが?」
「弟に習ってね。まあ、あの子程上手には出来ないけど」
「なんか意外性で出来てますよね、ここの人達は」
「失礼ね。そのぐらい私だってやるわ」
眉を上げて半眼でグラスを傾ける薫子に倣い、壱もストローに口をつけた。美味い不味いの違いが解るほど嗜好品に興味を持たない壱だが、ここまできちんとした味の物を口にするのは以前喫茶店に同行した時以来である。素直に感嘆の溜息が出て行った。
「美味しいですねえ」
「そう、良かった。ところでいくつか聞きたい事があるのだけど」
「なんですか?」
「いいえ、貴方と一緒で、可奈子さんはどうしているかと思ってね」
「はあ」
言われて、可奈子のここ一ヶ月余りの様子を思い出す。いくらか家事にも手を出すようになってきて、特に食事については口数が多くなってきたのが目立った変化と言えば変化だ。本人は料理など全くやらないが、何を加えろとか味が濃い薄いだとかを事細かく指摘してくるのである。不思議とそれで良い味に変わったような気がするのだから、壱の欲目も相当な物ではあった。
ただ、変わらないものも多くある。
「基本的には怠惰ですよ」
「そうなの?」
「色々面倒くさがってやらない事が多いです。なんというか、鶴岡の家でもそうだったのかは知らないですけど、例えば着替えるにしても袖が裏返っても気にしないとか」
「それこそ意外ねえ。他には?」
「シャワーを浴びるんで脱衣所に入る前から脱ぎ始めるのは勘弁願いたい所であります」
「それは……黒沢君にとっては大変な話だわ」
「誠に」
「成る程ね」
苦笑いをしながら、薫子はグラスの中身をかき混ぜて、続ける。
「彼女の生い立ちが、少し解ったので教えておこうと思ったのも、呼び出した理由ではあるのよ」
「生い立ち、というと、実の父母が?」
「それは既に行方も知れない。それ以上調べることも出来なかったわ。私たちは諜報機関ではないから」
「確かに」
「鶴岡に引き取られたのは、彼女が2歳になる前だそうよ。あの家の門前に、置かれてたそうで」
「……やっぱり、期待しての事なんでしょうかね」
喜んで我が子を捨てる親も時には居るだろうが、大半はそうではないだろう。育てたくても、一緒に暮らしたくてもあらゆる事情がそれを不可能とするケースは決して少なくはない。そうなれば、後は他人の手に依ってでも、いくらかは幸せな生活を願いたいのが、親の心理というものなのかも知れない。
だから、鶴岡という大きな門構えの、有体に言えば解り易い「お金持ち」の門前に放置したというのは、最後の親らしい行為なのかもしれない。
「それにしても、私や新田先生に対しては凄く頑なな印象を受けるのに、貴方の前では随分と砕けるのね?」
「俺もあの子と似たような生い立ちではあるんですよ。拾われた先が幸せな家庭だったことだけが違いますが。だから不思議なもので、気が合うんでしょうね」
何気なくそう言った壱を、薫子は微かに目を丸くして見やった。驚く様子を見るのは初めてかも知れない。
「そうだったの」
「なんで、あんまり綺麗な関係ではないのかも知れませんが」
「いいえ。羨ましいわ」
「そうですか?」
「そういう相手に出会えるだけでも、儲けものよ。増して相手が異性なのだから、もっと解り易い事にもなるしね」
「生々しい話っすねえ」
「あら、黒沢君にはその気が無い?」
「や、え、なんでこんな事聞かれてるんだ俺」
くすくすと笑って、薫子は手を振った。他人をからかうのが余程好きらしい。見た目の、凛とした様子とは程遠く子供っぽい所を多分に持っている楡原薫子という女性が、壱はやはり嫌いではないと思った。
笑い終えて、頬を緩ませたまま、薫子はすっと目元だけを細めて、続けた。
「黒沢君。困ったら、なんでも言って頂戴」
「有難う御座います」
「社交辞令じゃないのよ、これは。幸い、貴方も可奈子さんも健康で、これから先大きな問題が無ければお互いを頼りにして生きていく事になるのでしょうから。その上で、何か困難があったら、必ず相談する事。私にだって可奈子さんの存在は決して無関係ではないのだから」
「はい」
言い回しに、敢えて健康などという言葉が入ってきたりと微妙なものを感じたが、しかし壱は素直に感謝から頷き返した。薫子に何か思う所があったとして、それを知る機会は向こうの胸先三寸である。
「薫子さん」
「何?」
「今更なんですけど、俺、ここでお世話になりたいと思います」
「そう」
「自分にどこまで出来るかなんて解りませんし、ていうか何も出来ないかも知れませんけど。今後もサックスはやりたいですからね。可奈子の分も是非に」
「確かに、聞いたわ」
休憩が終わると、再び作業を開始した。薫子の言う場所に、なるべく床をこすったりしないようにしながら調度品を移動させる。命令し慣れていると言うべきか、薫子の言葉にはあまり意見を差し挟みたくないと思わせるような妙な力があった。
暫くして、携帯電話が鳴った。ちょっと頭を下げて、応答する。知らない電話番号だ。
「はい」
「黒沢様の携帯電話で宜しいでしょうか?」
「夏海さん」
壱の声に、薫子が耳ざとく反応して顔を向けてきた。頷き、続ける。
「どうでしたか、そちらは?」
「いえ、ご自宅に居られなかったので、来須様がご心配されてますが」
「あ」
そう言えば、何も書置きすらせずに出てきた事を思い出した。替わります、と言う秋乃の声の後、すぐに聞きなれたか細い声が入ってくる。
「壱」
「や、ごめん、何も連絡してなかったね」
「心配するから……」
「うん、ごめんよ。そっちはもう終わった?」
「終わった。話があるから、帰ってきて」
薫子をちょっと見ると、苦笑いをして追い払うような仕草をした。手刀を顔の前に立てて薫子に頭を下げる。
「解った、すぐ戻るよ」
「うん」
どこか不満の隠しきれない相槌の後、通話は切れた。ポケットに携帯電話を仕舞い、薫子に再度頭を下げて、社長室を辞した。
電車に揺られること30分弱、駅からは小走りに自宅へ向かう。日は大分傾き始め、暑いとも殆ど感じなくなり始めている時間帯で、汗もかかずに到着。
「ただいま」
「おかえり」
電源の入っていないテレビの方を向いてぼんやりとしていた可奈子が、立ち上がって出迎えてきた。ここまで懐かれてくると正直喜び以外の感情はあまり無い。
「悪かったねほんとに」
「居なくて、驚いたわ」
溜息混じりに言いながら部屋に戻る可奈子の後に続き、ベッドに座った彼女の正面に胡坐をかいた。あまり高さの無いベッドの為、これでもそこそこに視線が水平になるのが少し可笑しい。
「どうだった」
何も繕わずに問うた。今更持って回った言い方をする必要性はお互いに持ち合わせていない。
ちょっと顔を俯け、可奈子は口を開く。
「解った事が、沢山あるわ」
「うん」
「まず、私のお父さん」
「どう思った?」
「父なんて居なかった、と思う方が、楽だけどね。でも、あの人は、私の可哀想なお父さんだった」
自分にとっての父親、家族の中での鶴岡可奈子。そしてそこに疑問を抱かなければならない不幸。そういうものを全て抱き込んだ上での、可奈子の答えであるなら、それは大したものだと思う。壱は長年に渡る黒沢での言わば療養期間を経て今があるが、可奈子は殆ど全てを自分の力で乗り越えて見せた。
真に強いのはいつも女だという兄の言葉が、今漸く理解できた気もする。
「お父さんにとって、私は必要だったんだと、解った。その方向性は、凄く間違っていたけどね」
「まあ、この有様だしね」
「それはいい。今解るのは、私には家族が無くなったとか、そういう事ではないという事」
「……今でも、父親を父親と認めてると?」
頷く。
父の所業を許したとか、そういうカテゴリーの話ではないのだろう。ただ、鶴岡可奈子の父親として、鶴岡陽一という男を認識した。これまでの生活を鑑みれば、どれだけ難しい事か壱にはよく解る。
「お父さんのした事は、世間では、許されないと思うけど。でも、あれもお父さんの気持ちだと、思うの」
本来、愛情を以って接するべきだった鶴岡陽一は、何を間違ったか暴力でしか可奈子に接してこようとはしてこなかった。しかし、親の愛情を本当は得たかった鶴岡可奈子は、それを受け入れてきてしまった。故に、ここで1つ掛け違いが発生する。
可奈子は父に乱暴をされる事を、1つの感情だとして処理するようになった。だから受け入れるだけだったし、抵抗をする事の意味も理解できなかった。言ってしまえば、言葉を伴わない会話のようなもので、それは双方にとって比重は違えど重要なメリットをもたらしていたと表現しても良い。
しかしある日から、可奈子は本来の意味での愛情や友情を理解し始めた。それは壱の所為でもあるし、吹奏楽部がしてのけた事でもある。すると当然、掛け違えた親子のやり取りには、疑問が発生する。どちらが本当に正しいものなのか、それを判断する要素を持たないまま、可奈子はこの半年以上を悩みながら過した事だろう。
「間違ってはいる。お父さんは、私を叩かずに、もっと言葉にすべきだった。でも私には、当時、そうした方が良いという判断も、意見も出来なかった。よく解らなかったから」
「俺が色々と聞いても、解らない、って返事をしてくれた事が何度もあったよね」
「うん」
そういう中、可奈子にはフルートがあった。これを用いることで、可奈子は解り易い「賞賛」という形での感情を浴び続けてきた筈だ。才能があったからなのか、或いは可奈子の心情がフルートをどうしようもなく引き立たせたのか、どちらかは解らない。
そこにも疑問はあっただろうが、可奈子にとっては父親の存在の方がまだ重かった。フルートをやっていれば取り合えず苦痛から逃れられるという打算もあったにせよ、決定的に父の行為を止めさせたいと思ってこなかったのは、やはり娘であったからだ。
「でも指が、こうなって。フルートが、使えなくなって。それで漸く、おかしいと思い始めたんだと、思う」
そうして逃げてきた先は、黒沢壱の元だった。彼女が冗談交じりにかつて言ったように、壱の家しか知らなかった事もあっただろうが、フルートも父もよく解らない中で、とにかく可奈子の心理を先回りしてきた黒沢壱の存在は、彼女にとって最後の最後に残っていた砦であったのかも知れない。
「貴方しか、居なかったと、そう言ったわよね」
「言ってくれたねえ」
「うん。それを、謝りたくて」
「というと?」
「貴方しか居なかったんじゃない。私には、貴方が居たんだと、それも解った」
「……」
「仕方なく、貴方を頼ったのではなくて。私は、貴方を頼りたくて、一緒に居たくて、ここに来た。全部無くなったと思い込んでいたけど、違ったのよ。最初からずっと、私には貴方が居た」
何度も、かみ締めるようにそう言う可奈子に、壱は言葉をかけられない。
自分から選び取った先が自分であった、というのは身に余る言葉だった。いつか不安に思った、依存や依頼心ではなく、自らの意思が、黒沢壱を選んだと、可奈子は必死にそう繰り返していた。これを喜ばずに、何を喜べばいいというのか。
「そうか」
「貴方が、喜んでくれたフルートは、もう出来ないけど。でも、今改めて、傍に居させて欲しいと、思う」
「そんなの、俺が断るわけないじゃないか。確かに俺は、最初からずっと、君の事しか見えてなかったんだろうから」
「うん」
「なんであろうと、俺はやっぱり可奈子が好きだね。フルートとか無くても、惚れてただろうさ」
「うん」
「可奈子は?」
「好き」
「うおっ」
言われて即座に、脳の裏側辺りに妙な熱が走って、壱は身もだえした。どうしても緊張感の持続しない体がこの時ばかりは恨めしい。
可奈子が不思議そうな顔をする。
「いや、ちょっと嬉しさのあまり壊れそうになってな」
「変なのも、ずっと前から変わらないわね」
「確かに」
言いながら、気軽に立ち上がって、可奈子の隣に座った。横から、両手を伸ばして抱きしめる。何故そうしたのかは解らなかったが、強いて言えば「そうしたかった」からだ。理由など特に必要無い。
微かに身を固くしてから、可奈子は精一杯に両手を伸ばして背中に手を回し、体を全部預けてきた。そんな解り易い信頼が、途方も無く喜ばしいものに変わる。
「可奈子」
「うん」
「高校出たら結婚しようぜ」
「うん」
冗談めいた口調の本気に、可奈子は笑ってそう答えた。
きっと、初めて出会った時から数えて、一番綺麗な笑顔だと、壱は思った。




