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薫子に相談をした。こういう時にばかり頼って申し訳ない、という壱の言葉に、彼女は体で払ってもらうから結構だと笑いながら返してきた。既に壱の将来は固まりつつある事に戦慄しつつ、礼を述べた。
結局、可奈子には秋乃が付き添うという事になった。以前挨拶に行った折に、可奈子とは不思議な意思疎通があったらしい彼女なら、随行しても問題無いだろう。何より、薫子が可奈子と共に鶴岡の家へ行ったのでは、鶴岡陽一はまた怒り出す可能性があった。それを想定してか、薫子の判断は極めて早かったと言っていい。
とはいえ普段は薫子についている秋乃の体が空くまでにはいくらか時間がかかり、可奈子が学校へ復帰した日から既に一ヶ月が過ぎていた。その間、可奈子は部活にも出なかったし、壱との関係も表に出る事なく平穏な日々が続いていただけに、壱としてはまた波風が立つような気がして、正直な所気が重かった。
約束の日、秋乃は壱の部屋まで迎えに来るとの事で、可奈子は既に朝早くから着替えを済ませて、言葉少なに時間が過ぎるのを待ち続けている。
「可奈子」
「ん」
「……いや、特になんでもないんだけど。心配でね」
「大丈夫よ」
横目に壱に笑いかける彼女の返事被るように、ノックが2つ。扉を開けると、皺1つ無いスーツに身を包んだ秋乃が背筋を伸ばして立っていた。
「おはようございます」
「あ、どうも夏海さん。すみません、ご面倒を」
「いいえ」
簡素にそう言うと、秋乃は可奈子に目をやって、体を半分開いた。頷き、可奈子は出て行く。
「お願いします」
「はい」
やり取りまで簡素であったが、どうにも壱からは理解できないような空気が、2人の間には合った。馬が合う、というやつなのだろうかと首を捻りながら、見送りに出る。
「それ程の時間にはならないと思います。不測の際にはご連絡差し上げますので」
「お願いします」
「行ってくるわ」
「うん」
そうして、ジャガーは貧相な住宅街の間を縫うように走り去っていった。自室に戻りベッドへ腰掛け、腕を組みながら可奈子の真意を考えてみるが、何も思い浮かばない。元々、可奈子にはそういう計り難いものが山のようにあって、そのいくつかを壱には開け放ってくれているだけの事だと、痛感するしかなかった。
本当の意味で、他人と打ち解けあう事は難しいというのは、兄の言葉だった。理解しあう、仲良くする、という程度は基本的に誰にでも出来るが、相手の本位になろうというのは愚の骨頂だと笑いながら話してくれたのだ。それは、確かにそうだろう。
だが、と思いながら、壱はフルートを手にした。すっかり壱が吹く事の多くなった楽器だが、この楽器は様々な可奈子の思いが通り抜けていった過去がある。
或いは本当に他人と混ざり合う事も出来るのではないか。そう考えて、そう思いたいだけだと至り、苦笑した。
可奈子にとっては、最早自分しか居ない。言葉の意味で言えば、それは途轍もなく身に余る言葉だろう。唯一無二という文字の示す通りの感情を、確かに可奈子は壱に向けてくれてはいるかも知れない。
だが鶴岡可奈子という少女がここに居るのは、ただの偶然であるとも言える。不運と幸運の積み重ねが壱と彼女に残酷な半生を植え付け、そして縋り合うようになった。歪な、曖昧な、中途半端な関係である。愛情と呼ぶには程遠い依存心と、現状に甘んじるしかない為の依頼心が、どうあっても2人の間には顕在する。それを拭い去れる日が来る事はあるのか。
フルートに息を吹き込むと、やはり可奈子のようにはいかなかった。
今は可奈子がどんな答えを出すか、それを待つしかないのだろう。そう決め込んで再びフルートを、と思った所で携帯電話が鳴った。薫子。
「はい」
「ああ、黒沢君。秋乃はもう?」
「ええ、たった今」
「そう。じゃあ、今は暇かしら?」
「はあ」
「だったら電車代は後で払うから、本社へ来てくれないかしら? 楠台からだと30分ぐらいよね」
「それは構いませんが、何を?」
「バイトみたいなものよ。秋乃を貸しているんだから、ちょっと手伝ってくれてもいいんじゃないかしら?」
以前に罵声を浴びせてしまった事もあり、壱は薫子の言葉にもかなり逆らいづらい。それに確かに、薫子の言う通り秋乃を無理に付き添わせてしまっている事は事実だった。
「解りました」
「悪いわね。ちょっとした雑務だから、楽な服装で来て頂戴」
「了解です」
「それに1人で居ると色々考え込んじゃうでしょう?」
「……それは、そうですね。確かに。じゃ、すぐに向かいます」
「待ってるわ」
今後も薫子には頭が上がらないのだろう。そう思うが、しかし悪い気分ではなかった。
体が瘧のように震え始めているのに気付いた。恐怖からなのかどうかは、解らない。
秋乃と並んで、鶴岡の内庭を進む。既に連絡は行っているのか、外に居た使用人もちらちらと視線を送ってくるばかりで、特に何も言い咎められはしなかった。
「来須様」
「……」
「あの」
「あ、はい」
そういえば、今は自分の苗字は「来須」になっているのだという事に気付いて、慌てて返事をした。
「お心静かに。私は楡原から全て任されております。ご安心下さい」
「はい」
言われて、丸くなっていた背筋を、秋乃を見習うようにして伸ばした。不思議と、この女性には色々な事を喋ることが出来た。右手の事をさりげなく聞かれただけだったのに、随分と状態を詳しく話してしまったし、壱に対する感情についても、整理こそついていなかったが雑多に口にしたのを苛立ちもせずに聞いてくれた。壱以来、こういう「肌の合う」人間に出会うのは2人目である。
見慣れた大きな玄関。両開きの扉を開くと、これも見慣れた男の使用人が待っていた。無言で先に立つ男に従って、秋乃と可奈子は共にリビングへ。
父が、ソファに座り、杖を正面に立てていた。それを見た瞬間に、伸ばしたばかりの背筋が震える。恐怖なのか、嫌悪なのか、歓喜なのか、どれともつかない感情が一気に吹き零れてきた。じっと注がれる視線には、以前のような憤然としたものは無く、或いはどこか寂しげなものにすら見える。
「座りなさい」
しわがれた声。言われるままに正面に腰を下ろすと、秋乃もまた一礼して隣に座った。父の顔を見ることが出来ない。
「可奈子、よく戻ってきた」
「……」
「心配したぞ」
言われて、漸く顔を上げられた。見たこともない、緩やかな微笑が、父の顔には張り付いていた。信じられないものを見ている気分で、可奈子は瞬きすら忘れる。
「籍の事はいい。また、ここで暮らしなさい」
「私は」
「お前に酷い事をしたと、自覚はしている。どうかしていた。謝らせてくれ、この通りだ」
杖を横にして、父は深々と頭を下げた。どうなっているのか、何が起きているのか、可奈子には最早理解の及ぶものではない。
「頼む。お前の居ない生活など、考えられん」
「じゃあ、どうして、あんな」
やっと出た言葉は、そんな曖昧な言葉だった。また震える体を抱えるように腕を回す。
「どうかしていたのだ。本当に、どうかしていた。頼む」
壱の顔が思い浮かんだ。苦笑いの多い彼の表情と、目の前で小さくなっている父の姿が混ざり合い、消えそうになったとき、ふと異質なものを感じた。父からではなく、隣からだ。
秋乃の拳が、膝の上で震えているのに気付いた。表情を盗み見たが、それは何も変わっていない。しかし、秋乃は確かに何かを堪えているように見えて仕方が無かった。
ここまで他人の機微に反応できるようになったのは、何故か。吹奏楽部と、壱があったからだ。
「お父さん」
「なんだ」
「私は、お父さんの、何でしたか?」
それだけの疑問を口にするのに随分と体力を使ったような気がした。
可奈子の言葉に、父はちょっと眉間に皺を寄せて、言う。
「私の娘だ。それ以外の、何だと言うのだ」
「娘に、あんな事を?」
「そう言われても、仕方が無い。だが私が、お前を大切に思うのは、本当だ」
頭がぐらぐらとし始める。それはすぐに頭痛に変わり、また顔を上げていられなくなってきた。大切に思うのなら、どうして自分からフルートを奪ってしまったのか。自分があれだけ楽器に執着していた事を、殆ど鈍くなってしまった頭でも、解っていた筈なのだ。
だが父は、目の前で、自分の娘だと言う。
「信じられません」
「そうだろう。だがな、今ならまだ、やり直せると思う」
「やり直すと、言われても」
「もっと、話をしようじゃないか。その女性にも一度外して頂いてな」
「でも」
「お願いだ。私にはお前が必要なんだ」
「なら、どうして、私の手を」
「弾みだったんだ、あれは。ものの弾みで」
「来須様」
そこで、急に違う声が割って入ってきた。その瞬間に、父の表情に苦々しいものが一瞬走ったのを、可奈子は見逃さなかった。気付けば右手を、左腕の下に隠すようにしていた。
「帰りましょう。お解りになられた筈です」
「何を言う。付き添いの方が家族の問題に口出しをしないで貰えるか」
父が食いかかるように身を乗り出した。可奈子にとってはよく見慣れた、強張った表情。
夏海は全く顔色を変えずに、しかし醸し出す雰囲気だけは隣に座る可奈子が凍りつきそうな程に冷たいものにしながら、続ける。
「ここまで、鶴岡陽一さんは、貴女の事を一言も喋っておられません。全て自分の事のみです。それが、娘へかける言葉だとは、私には到底思えませんが」
「何を、無礼な」
慌てたような顔になる父を見て、可奈子は不意に落ち着いてきた。
秋乃の言葉通りだった。謝罪こそ最初に1度したものの「戻って来い」という意味の事しか、父は言い続けていない。
この所痛みの引いた筈の右手が急にしくしくと痛み始めている。これが、自分の本心からの反応なのだろうか。
「如何です。まだ話を?」
「可奈子。他人の言う事などに聞く耳を持つ必要は無い。私の所へ戻って来い」
俯いていた顔を、上げた。
知りたかったものが、解ったような気がした。鶴岡可奈子とは、何者だったのかという事の、答えが出た。
結局の所、自分に父など居なかった。そう思い定めてしまうのが一番楽だろう。だが、そうではない。これまで目の前の男は、あらゆる方法で自分に苦痛を与えてきた「父」以外の何者でもない。
だからそれはそれで良かった。指を折られ、フルートを失い、信ずるべき家族も無く、全てを失ったと思い込んでいた鶴岡可奈子の存在理由は、もっと別の所にあったのだ。何も、消去法で浮き彫りになったわけではない。自分には、もっと大切なものが、ぎりぎりの所で手に入っていたのだ。
早く帰って、壱に謝りたいと思った。そう思うと、震えも痛みも、止まった。
「お父さん」
「おお、なんだ」
「右手が痛むので、帰ります。もうお会いする事も、無いと思います」
「……」
愕然とする父の表情に、流石に心がちくちくと痛むが、仕方の無い事だった。もっと別の出会い方をしていれば、この男ともごく普通の関係が築けたのかも知れないと思うと、惜しいと今は思う。めぐり合わせ、壱の言っていたような不運、そういうものの上に、必然的にやってきた別れでしかない。
「秋乃さん、帰りたいです」
「畏まりました」
「この、恩知らずが」
そこで、ついに父はそんな言葉を発した。地を這うようなどすの利いた低い声。嫌悪と、微かな憐憫が、可奈子の胸を通り抜けて、去っていった。
「誰でもいい、その女をつまみ出して可奈子を押さえつけろ」
そして次に言ったのは、そんな言葉だった。扉が開いて、先の使用人が入ってくる。その表情には何も浮かんでいなかったが、足早に歩み寄ってきて秋乃に手を伸ばした。
しかし秋乃は何をどうしたのか、次の瞬間には、使用人は信じられないという顔で尻餅をついていた。
「鶴岡陽一様。これにて、失礼致します」
そう言った秋乃の表情は、驚くほど冷たく、父は二の句を次げずにいる。その間に、リビングを出た。
車に乗り込み、静かに鶴岡邸を後にする。
「来須様」
「はい」
「出すぎた真似を」
「いいえ。有難う、御座いました」
「黙っていられなければ好きにしろと、楡原からは言われていましたが、鶴岡があそこまで落ちていたとは思いませんでした」
「それでも、あれで、私の父ですから」
「……ご無礼を申し上げました」
「いえ」
「ところで、右手のお具合は」
「あてつけです」
「そうですか」
シート越しだったが、秋乃はそれを聞いてちょっと笑ったようだった。




