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部屋に戻ると、可奈子はテレビの前に座っていたらしいが、さっと立ち上がって玄関まで出て来た。既にルームウェアに着替えていて、それはそれで艶かしいものを感じざるを得ない。つい今しがた新田教諭に生々しい話をされただけに一入である。
「おかえり」
「うん、ただいま。ご飯は?」
「炊飯器は、つけたわ」
「ありがと」
言いながら靴を脱ぎ、上がりながらシャツを脱いで、壱も手早く着替えを済ませる。その間じっと可奈子は見ているのがどうにもくすぐったい。恥ずかしい、とならない辺りに自分の変態性を感じるが、勿論それは否定しないでおく。
ただ、いつもよりやけに見ているな、と思うので、それは聞き返しておいた。
「どうしたね」
「……ううん。今朝、あんな事言ったでしょ」
「あんな……ああ、痣とかの話?」
冷蔵庫の中身を確認しながら返事をすると、可奈子は傍までやってきた。ちゃんと聞け、という事だろう。体ごと向き直って、頷く。
「うん、したね」
「壱のお腹も、傷跡あるものね。私だけじゃない」
「ああ、まあ俺の場合は男だからさ。そりゃ海なんかは入れないけどね。でも可奈子は女の子だし、そういうのを気にするっていうのは解るよ。あれは確かに配慮が足りなかった」
「でも、皮肉だけど、これがあって、私達は今一緒に居ると言っても、いいのよね」
「ははは、確かにそうだ」
壱にも可奈子にも、最初は仲間意識めいたものがあった。それが今の形を作っているのなら、満更悪いことばかりでもないかも知れないと思う。
「そういえば、柴崎さんは、流石だったわね」
冷蔵庫からストックのジュースを取り出して飲みつつ、可奈子は言う。苦笑いで頷く壱。
「あれが女の勘というやつなんだろうか」
「前より、私が気安くなったからかもね」
「ううん、やっぱ隠しっぱなしっていうのは良くないのかなぁ」
「散々、言ったじゃない」
「今日なんかも帰るのに遠回りさせたしな」
「あれは、面倒くさい」
「誠に」
持て余し気味に包帯を撫でながら再びテレビに向かう可奈子の背を見て、近いうちに打ち明けてしまった方が良いだろうと考え直した。取り急ぎ、ユキ辺りから理解して貰おうと思う。
炊飯器が米の完成を伝えるまで、またフルートに終始した。可奈子は懸命に左手だけで奏でるのだが、壱からすれば好きな女が自分に体を預けている状況なわけで、冷静になれと言われても無理な話である。それでも可奈子はちょっとでも壱の指が遅れたりすると、頭をぶつけて抗議をする。
「右腕が攣りそうだ」
「頑張って」
「あいよー」
あまり遠慮の無くなって来たのは良い事だったが、それでも暫くは右腕ばかりが鍛えられる事になるのだろうとなんとなく思う。
電子音が炊飯器から聞こえて、ほっと一息。揃って台所に立ち、可奈子は惣菜などを並べ、壱は簡単に炒め物などを作る。それ程料理のスキルは無いとはいえ、片手しか使えない可奈子には何かをさせるわけにもいかない。外食ばかりではすぐに金銭が底を突くので、それも節約の必要があった。
兄を通してどういう説明があったのかは解らないが、仕送りは少し増えた。或いは兄が自分の給与を削っている可能性もあったが、どの道1度は黒沢家に可奈子を連れて行かなければならないだろう。
「可奈子」
「うん」
テーブルセッティングを終えてから、台所を右往左往する壱を、じっと見ていた彼女に声をかける。
「近いうちに、俺の実家に行こう」
「うん」
「あらアッサリ」
「当然、ご挨拶はさせて貰いたいと、思ってたから」
「俺が思ってるよりしっかりしてるよな」
「私を、何だと」
「いやだって、お鶴さんだった頃は凄く排他的でな」
「……まあ、ね。皆の事も、好きでも嫌いでも、なかったし」
「それが今やこうですよ。ていうかジャージで惣菜食ってる君なんか見たら皆卒倒するぜ」
「そう?」
「うん」
「そう」
よく解らないやり取りになったが、ともあれ可奈子は承知してくれた。壱としても同じ部屋に住まわせている自分の彼女ぐらい家族には知っていて貰いたいと思う。
食事をしていると、ざあっという水音が外から聞こえた。慌てて窓に顔を寄せる。
「しまった、雨かよ」
「あんなに晴れてたのに」
「これがゲリラか! っていうか布団とか洗濯物が全滅した!」
「そうね」
言いながら可奈子は箸を置くと髪を後ろでまとめて、さっさと窓を開けて洗濯物を取り外し始める。それを見て、壱も慌てて籠を取りに行った。いくらか雨に濡れながら可奈子が手渡してくるものを籠へ放り込み、再び洗濯機へ。
「1人で暮らすって、大変ね」
「ああ、まあね。誰か家に居てくれればこうはならないんだけどさ」
「私も壱も、外出してる時間は、同じだものね」
「着替えのストックは有るよね?」
「うん」
「なら良かった。食べたらシャワー浴びちゃえば?」
「そうする」
ぐいと冷えた烏龍茶を飲み干して、可奈子はシャツを脱ぎながら脱衣所へ向かった。そういう順序が適当なのは彼女が怠惰な為である。
可奈子の後に壱もシャワーを浴びて、夜。座卓を片付け、適当な話をしたり、またフルートを静かに吹いたりしていると、あっという間に時間は過ぎる。
だが寝ようか、という段階になって布団は先ほど雨水を存分に吸い込んで倍の重さになっている事を思い出した。
「今日は床か」
「ベッドで寝たら?」
「同衾!?」
「うん」
「あ、素なんだ……いや、危ないよ。寝返り打って右手踏んづけたりするかも知れないし」
「じゃ、私が床で寝るわ」
「それは男の子として出来ない相談」
「面倒くさいわね」
「せめてもの格好付けを面倒の一言で切って捨てるなんて!」
「じゃあベッドで、いいじゃない」
「フフフお嬢さん、俺だって男なんだぜ? 男はいつだって狼になれるんだぜ?」
「そんなの、逃げてきた時から、解ってるし」
「ワオ」
「ほら」
言いながらベッドに座り、ぽんと自分の横を叩く可奈子に、流石に色々と抑えきれないものが出て来そうになったが、どうにか堪えた。或いはそろそろ血の涙ぐらいは出せそうな健康優良児黒沢壱。
「お邪魔します……」
「なんで泣きそうなの」
「なんでもないっす」
並んで上掛けを体に乗せるが、流石に狭い。
「狭いわ」
「だろうな」
そして歯に衣を着せない恋人が隣で文句を言う。
「ブランケットが、届かない」
「身長差があるからな」
「もっと、こう」
ぐいと引っ張って行かれる上掛け。壱の腰から下がブランケットから締め出された。雨の所為もあってか、多少肌寒い。
「手は大丈夫?」
「うん」
「やっぱ不安ですよこれ」
「大丈夫だから」
隣で可奈子が喋る度に吐息が髪や顔にかかり、目も冴えてくる。電気も消して真っ暗になっている筈の室内の様子が、研ぎ澄まされ始めた神経の為かよく見渡せた。
「壱」
「はい」
何故か敬語になりながら返事をすると、可奈子の手が伸びてきて顔を掴んで無理やりに振り向かされた。闇の中で合った目は、どこか不安そうに揺らいでいる。
「なんぞ?」
「あのね。1度、私も、鶴岡の家に行こうと思う」
「……それはまた、どうして」
「確かめたい事が、あるから」
「それは?」
「解らないけど。行けば、解る気がして」
少し考えて、すぐに危険だという判断が出た。自分は棚に上げつつも、鶴岡陽一は異常者である。今はこうして落ち着いているものの、いつ、再び可奈子に対して危害の手が伸びてくるか解ったものではない。
「やめた方がいい。もし行くなら俺も一緒に行く」
「ありがとう。でも、これは1人でやらないと」
「賛成できない。せめて、俺が駄目なら誰か別の人を連れて行くべきだ。理由は解るよね?」
胸の上に置かれていた可奈子の右手を軽く触りながら言うと、小さな震えと頷きが返って来る。
「というか、荷物の回収なんかは薫子さんが殆どやってくれたんじゃないの?」
可奈子の移籍と同時に、強行的に薫子は鶴岡の家へ赴いて、可奈子の手回り品を巻き上げて行ったらしい事は、本人から聞いている。だが、可奈子のやりたいのはそういう事ではないのだろうと、言葉の雰囲気で察してはいた。
「荷物とかじゃなくてね」
「うん」
「色々、考えたの。今、父に会ったら、私はどう思うか、それが気になって」
「どうって」
例えば壱は、今すぐに実の父に出会ったとしても、何の感想も無いだろう。むしろ、今も無事でいるのならそれはそれで喜ばしい事だとすら思うかも知れない。あんな事があっても、壱にとってはやはり父親であるからだ。これは、どんなに憎んでも消せない事実である。
可奈子も、或いはそういうものを心に抱えたままなのかも知れないと考えられた。彼女の場合、鶴岡陽一とは血縁も無いが、しかし幼い頃から鶴岡可奈子にとってはずっと父親だったのだ。何をされようと受け入れて来てしまったのも、そこに終始している。自分にとっての父親というものを、心中で、曖昧なままにしておきたくないという気持ちは、壱にも理解できた。
「成る程ね」
「今解るのは、私には、貴方しか居ない事で。でも、それだけじゃ嫌で」
「うん」
「もっとこっち来て」
言いながら、可奈子の弱々しい力が壱のシャツを引っ張り、しかし抗いがたい力になって、壱は体を動かさざるを得なかった。鼓動すら外へ聞こえてきそうな程の距離で、可奈子は目を閉じる。
「自分を、もう少し、知らないと。ここに居続ける事が、出来ないと思って」
「そんな事は無いけど」
「うん、そう言ってくれると、解ってた」
それでもつけておきたい決着があるのだろう。或いは父を明確に憎むようになるかも知れないし、憐憫を以って別れる事になるのかも知れない。ひょっとしたら、父の元へ戻りたいとすら思うかも知れない。
そのどれであっても、可奈子は1つの答えを見出したい。そういう意味の事を、途切れ途切れに闇中へ言い放ち続けた。腰を引き寄せると折れそうな程の細さにびくつきながら、壱は小さな体からは想像も出来ない程大きく重いものを内包した恋人を抱いて、眠った。




