EP
治療当時のリハビリの甲斐もあって日常生活では難儀しないが、やはり可奈子の指は著しく稼動範囲が狭い。また無闇に動かせば、苦痛も伴う。それでも、彼女はそういう物を全て飲み込んで、フルートに没頭し始めた。
最初はただ手を添えて構えているだけの時間が長かった。以前は構えられもしなかったので、こうした所から勘を取り戻すのだろう。姿勢も大切な要素の1つである。
そんな久しぶりの、ある意味では壱の中では「鶴岡可奈子」と呼ぶべきフルート奏者の姿は、息を呑むほどに美しかった。ぴんと張った背筋に、機嫌伺いを立てるようなライザーへのキス。無意識に色っぽい流し目になりながら指先のキーに視線を放り、時に瞼を閉じる。音こそ出ていないものの、壱の脳裏にはまざまざとかつての演奏が蘇ってくるのだった。
そんな練習を暫く続けたある日、可奈子は本当に久しぶりにフルートを持って学校へ向かった。壱がサックスを持っているのはいつもの事だったが、可奈子が隣で同じように楽器の入ったケースを抱えているのは、理由は無いが嬉しいものだった。
放課後になり、音楽室へ。結局一年生を捕まえる事は出来なかったが、春の新入生を今度こそは逃すまいと息をまく部員達が頼もしい。その輪へ、壱は可奈子と肩を並べて入っていった。殆ど数ヶ月ぶりの勢ぞろいとなる。
「あれ、鶴岡それフルート……?」
「うん」
一番最初に声を上げたのはユキだった。若菜は気を使ったのか、可奈子をちょっと見てから、何か確認するように壱を見る。それに頷いて見せると、今度は咲が口を開いた。
「やれるんですか!?」
「ほんの少しだけ、ね。練習はしてみたけど、あんまり難しいのは、ちょっと」
「うわー! やったー! ああー!」
「咲ちゃん猛り過ぎじゃねえの!?」
「ああ、この子暇さえあれば鶴岡鶴岡って言ってるから……」
「でも、そのぐらいには回復したんだ? なんか、大変だったねえ」
若菜の素直な問いに、可奈子は曖昧に頷く。
確かに不自然といえば不自然だった。指の骨が繋がっても痛みが残るという説明は壱も受けていたのであまり疑問を口にしようとは思わなかったのだが、可奈子は少しの間フルートを避けていたような所があった。それだけ、かつての演奏を失った事へのショックが大きかったのだと今は理解しているが、今こうして出来るのなら今までは何を、という若菜の疑問も当然ではあるだろう。
「ま、とりあえず復活記念に、楽なのでいいから是非聴かせてよ」
ユキが可奈子の表情を見て取ったのか、混ぜっ返すようにいくらか大きな声で言った事で、場はまとまる。それだけ「鶴岡可奈子」の演奏が人に与えた影響は大きいという事だ。
頷いて、可奈子はフルートを取り出し、構えた。右手の指が微かに震えているが。瞼を閉じて息を吸い込むと、それも止まる。
そして、実にゆっくりとした、イントロが始まった。何だろうか、と考えてすぐにエルガーの愛のあいさつだと気付いた。確かにテンポはそれ程でもないし、急転調も特に無い。一音が長いだけに、むしろ表現力に優れる可奈子にとっては打ってつけと言っても良い。
トリルだけはオミットしながら、可奈子のフルートは数ヶ月ぶりに、音楽室に響いた。ユキはじっと見守り、若菜は目を閉じて聴き入り、咲は腿に置いた指先を、自分も演奏するかのように動かしている。三者三様の反応だったが、そのどれもが可奈子のフルートに魅せられていると、よくわかった。
壱は、気付けば拳に溜まっていた汗を拭っていた。可奈子のフルートには、どこか壱を気分良く自失させてしまうような所がある。それは壱にとっては恐ろしいものの筈だったが、不思議と彼女の前であれば平静でいられるような気がしてならなかった。それに理由は無いし、理由付けの必要性も見当たらない。可奈子が居て、また自分の為に吹くと言ってくれたフルートが流れる中、何も怖い物は無いのだとただ盲目的に思うばかりだ。
曲は一巡し、イントロで締められた。ふっと閉じていた瞼を開き、右手の指先を見詰め、それから可奈子は壱を見た。頷き返すと、ぱっと微笑む。
「凄いじゃん鶴岡、もう完全に治ってるみたいじゃない」
「うん、わたしもびっくりした。手怪我してる人とは、思えなかったよ」
「カッコいいっす! パネェっす!」
「大絶賛だな」
「そうね」
照れ笑いもまた、かつての彼女には無かったものだけに、部員達は驚きながらもそれを見て、微笑む。
「そうだ、鶴岡。小枝ちゃんから聞いてるかどうか解らないけど、来年の部活発表の件でね」
「らららーららら?」
「違う。ららら、らーらら」
「んん?」
「こう、こうで、こう行く」
「いや「こう行く」って言われてもな?」
「出来るわ」
「時間を下さい」
家に戻ると、自分の演奏もそこそこに、可奈子は壱にフルートを吹かせたがった。そして何を演奏させるのかと思えば、可奈子の頭の中にあるという楽曲の、特に曖昧なイメージ部分である。それを実際に音にする事で具現化したいという狙いらしいが、彼女の要求はハイレベルなテクニックを要するものばかりだった。
それでも壱は可奈子が望むので、指先を引き攣らせながらも言われた通りに指を使う。サックスに比べると腕にかかる重量そのものは軽いのに、かかる方向がいくらか変わるため、当然だが勝手が違う。
「ららら?」
「うん」
「これ難しくね?」
「大丈夫」
「アテになんねえよう」
言いながら唇をつけて、息を吹き込む。指示された運指をいくらかスローペースで披露すると、可奈子は何か考えるような表情をしてから、楽譜にいくつか音符を書き留めた。
「次ね」
「はい」
最早言いなりである。
新入生を勧誘するにあたって、部活発表という場が設けられるため、そこで披露する楽曲を可奈子が1から練る事になったのだ。何故そうなったかといえば一瞬の出来事で、マリー・ゴールドが今の可奈子には出来ない都合、新たなものを用意するしかなく、しかし既存のクラシックでは味気ないという可奈子の職人気質が思い切り表に出たというだけの事だった。だから私が作る、という所まで行くのは、やはり彼女にとって音楽とは人間性の感覚とはまた別種のものだという事でもあるのだろう。
2月に入り期末試験も控えた現在あまり時間も無く、それだけに可奈子の焦りも解るのだが、流石に慣れない楽器では壱のモチベーションも次第に下がる。
「無理っす」
「弱過ぎるわ」
「いやあ、もうちょい時間をくれればな」
「そうも、言ってられないでしょ。やると、決めたんだから。壱が言ったのよ、私にフルートを吹くようにって」
「このフレーズやれるの?」
「これは菱沼さんがやるの」
「あの子も可哀想に……」
「私は、もう少し緩い所。それはそれで、つまらないけどね」
言いながら壱を気にしたのか、可奈子は努めて明るく笑った。本来なら可奈子が担当すべきなのだろうパートも、今の彼女の右手では不可能である。そういう事実に対面するたび、自分は軽率な真似をしたのだろうかと思う。
そんな事を考え込んでいると、可奈子が壱の頬を挟み込むように両手でぱちぱちと叩いた。理由は解らないが彼女はこの仕草が好きである。立って並べば顔に手を届かせるのも一苦労だからだろうか。
「また難しい顔して」
「してた?」
「してた。いいのよ、私は。壱が喜ぶように、演奏するだけだから」
そう言われれば壱も黙るしかない。
そんな彼女との共同作業は、その日も遅くまで続いた。
「難しいっす!」
「やっぱりな」
「なんすか、これは鶴岡先輩的なイジメですか?」
「菱沼さんなら、出来るわ」
「無理っす!」
「出来るわ」
「無理っす!」
「大丈夫」
「ユキちゃんあれは……」
「ああいうコミュニケーションでしょ」
完成した楽譜を見て開口一番悲鳴を上げたのはやはり咲だった。壱がサックスで同じようにやったとしても、かなり難しいと思うような代物なのである。その点、ユキと若菜の担当はそれなり程度に抑えられていた辺り、確かに咲の「イジメなのか」という叫びも頷けるような所はある。
だが本来ならこれは可奈子がやるべきフレーズなのだ。可奈子が、自分のやりたいようにやれた場合の、演奏である。壱の手を借り、伝わり辛いニュアンスを何遍も駄目出ししながら練り上げ、結果それは彼女にとってほぼ納得行くものとなった。言わば、鶴岡可奈子の全力である。例え咲が、傍目には上級の奏者であっても、そこには確実に壁が存在するのだろう。
しかし、練習は始まった。可奈子の売りとも言うべきフレーズに入るたびに曲が止まり、可奈子が助言を口にする。何十回と同じ箇所でストップがかかり続け、流石に休憩を入れようという段になっても、咲はもう出来ないとは言わなかった。ユキも若菜も変えた方が良いのではないのか、というような横槍を入れない。それは、おぼろげながら見えてきたこの曲の美しさが、解ってきたからに違いなかった。
壱にもまだ全体像は見えていない。しかし、可奈子が作り上げたというだけで、壱にとっては既に価値あるものである。
「よっし、やりましょう先輩ども!」
「何かおかしいからなそれは」
突っ込みも無視されながら、再び練習再開。
2月いっぱいから3月に入っても、その練習だけに終始した。中低音組と高音組に分かれての練習も続き、時には咲がスランプに陥ったりもしたものだが、しかし吹奏楽部はついに物にしたと言って良い段階まで来る事が出来た。
1度はフルートを諦めた可奈子の代わりを、咲はしっかりと勤められるようになったし、音楽から遠ざかろうとした可奈子の楽譜の意味を、ユキと若菜は言葉以上に理解してくれるようにもなった。
3年生の卒業式が過ぎ、春休みになると、自主的に集まっては合奏に耽る。最早誰にも屈託は無く、これが1年前にはバラバラだった人間達だろうかと思うほどにまとまっていた。それは、5つの音の重なりだけでも十分に解る。
一巡し、感想やら注意やらを口にする可奈子の横顔には晴れ晴れとしたものが輝いていた。
改めて、ここに来て良かったのだ、と壱は思う。
制服を脱いで、下着のままで、可奈子は壱の腕の中で楽譜を眺めていた。座椅子のように恋人を背もたれにするこの態勢が、可奈子はなんだかんだと言って気に入っているらしい。壱からすればパラダイスと拷問の同時訪問以外の何物でもないのだが、そういう事を気にする来須可奈子ではないのだった。シャワーを浴びれば後は下着だけで過すようになったのも、壱にとっては狂おしい事態ではある。慣れが来た時、果たして自分は男でいるのだろうかという危惧を、いつか何度も飲み込んだものだ。
「まだ気に入らないとか?」
「ううん。良い物が、出来たんじゃないかしら」
「これ以上無いくらい成功だったと思うぜ。まあ、新入生には敷居が高く感じたかも知れないがな」
部活発表での演奏は、言葉通り上手く行った。タイトルすら忘れていて付けられていなかった楽曲だったが、しかし吹奏楽部の演奏は物憂げに時間が過ぎるのを待つ新入生達の耳朶を完全に引き付けていた。ステージからでも、その場に居た全ての人間がこの音楽という、ある意味では単純な文化に取り付かれていたのがよく見えた。
咲は特にプロ顔負けの演奏をこなしたこともあって、クラスメイトや新入生に声をかけられてばかりだという。この分なら、吹奏楽部は安泰だろう。夏には引退する予定の3年生4人の穴を補って余りある生徒が入ってくるに違いない。
インナーキャミソールの肩紐をちょっと持ち上げて、可奈子はフルートを手に取った。左手だけで、楽譜を眺めながら、キーをそろそろと押さえていく。その様にはちょっとした悔しさのようなものも見えて、いくらか壱は胸の中がざわついた。
「壱」
「うむ」
「右手、貸して」
作曲と練習が始まってからは、久しく無かった事だ。意外な思いで、いつかのように、壱は彼女の顔の高さにフルートを掲げる。
「音をね。少し、出したくて」
「いいとも」
「これ、出来る?」
「何度やらされたと思っているんだね」
頷いて、可奈子は三拍子を空いた右手で刻み、息を吹き込んだ。彼女から何度も叱られながら出していった音色とニュアンスを維持すると、可奈子の左手が舞うようにフルートをのキーの上を動いていく。
これは、何か違う、と壱は思った。咲の演奏は確かに素晴らしかったのだが、今彼女が片手だけで紡ぐものには、確実に色めき立ったなにかがあった。それはテクニックとか情感とかいう言葉で説明の出来ない、雑な表現をすれば才能だった。咲には悪いが、可奈子には確かにそれがある。
一巡もせずに、可奈子はフルートから唇を離した。
「どうしたね?」
「ううん。出来るな、ってそう思っただけ」
「そうだねえ」
「ありがとう」
「今更何を」
「それでも」
重ねて、ありがとう、と呟く可奈子を抱きすくめた。抵抗せず、むしろ腕の中で身を捩って向かい合い、可奈子は顔を寄せてくる。
そこへ、携帯電話が鳴った。思わずそちらへ向けた壱の顔を、可奈子の両手が阻止してくる。
やんわりと体を動かして電話を取った。不機嫌極まりない視線が後頭部に刺さるが、致し方無い。何せ、液晶画面に映っていた名前は、薫子だったのだ。
電話に出、通話を終えると可奈子は話の内容を気にしたが、壱は首を振った。
彼女を抱いてシャワーを浴びたら、また右手と左手でフルートを吹こう、と決めただけである。




