3
月曜日になった。
目覚ましより先に、バスルームから聞こえる水音で壱は目が覚めていた。とりあえず向こうの支度が終わるまでは布団に入っていようと決める。
脱衣所の扉の開く音と、可奈子の微かな足音。同時に、声。
「起きたの?」
「……うん」
何故かは解らないが起きている事を見破られた。不思議に思いながら、体を起こす。まだルームウェアだったが、可奈子はいつも通りの無表情ながらいくらか晴れやかな顔をしているように見えた。タオルを頭に被せ、毛先に押し当てながら、再びベッドに腰掛ける。床に広げた布団でぼうっとする壱を、何とはなしに見下ろしている彼女と、目が合った。
「よく解ったね、起きてるって」
「呼吸が、寝息じゃなかったから」
「そんな事解るの!?」
「うん」
壮絶な特技だった。
あくびを1つして、壱も立ち上がり、バスルームへ。可奈子の後だと言い様の無い香りに包まれている中、寝起きの生理現象を押さえる為に普段より長くシャワーを浴びた。顔を洗うと、二重が奥に引っ込んだのを確認して、外へ。
「まだ早いね」
「そうね。6時にも、なってない」
「包帯替えて行こうか、時間もあるし」
「うん、お願い」
ベッドに座ったままの可奈子に傅くようにして、壱は彼女の右手の包帯を解いた。まだ内出血が完全に収まっていない2本の指は赤黒く、元々色白な可奈子の体の中では特に浮いていると言って良い。そこへ余計な衝撃をかけないように気を使いながら、添え木をそっと離した。病院で摺りこまれたままだった軟膏の所為でいくらかべたついている。
「気持ち悪かったら拭くけど」
「うん」
「痛いかもよ」
「大丈夫」
「そうか」
短いやり取りで、壱はポットから熱湯を出し、蛇口の水と合わせてぬるま湯を作った。これをタオルに染み込ませて絞り、即席の蒸しタオルを作る。拓が突指などをして薬を塗った後、いつもこうしていたのを不意に思い出したのだ。
人差し指をそっと包んで、引っ張るように拭うと、可奈子の眉根が瞬間寄った。謝りながら、中指も同じようにする。今度は痛まなかったらしい。なんとも下僕のような壱であったが、これはこれで幸せをかみ締めている辺り自分の可奈子狂いもとうとうここまで来たかと冷静に思う。
添え木も軽く水洗いして、元通りにした。包帯を巻きつける時も、なるべく他の指に干渉しないようにする。学校へ行けばペンを握る事にもなるだろう。
「よし完成」
「ありがとう。医者より、上手だわ」
「褒め過ぎ褒め過ぎ。うちは兄貴とか妹が運動して怪我する事多かったから、なんとなく処置の仕方を目が覚えてただけだよ」
「でも、今までより、楽だもの」
右手を電灯にかざしたりしながら、可奈子は具合を確かめている。
今日から学校が始まるのだ。可奈子にとっては、住む場所が変わってから初の登校であり、同時にコンクール以来に吹奏楽部の連中と会う事にもなる。楽しみでもあり、いくらか気が重くもあるだろうが、どの道先延ばしの出来ない事でもあるのだ。
瞬間湯沸かし器が間抜けな音を立てて沸騰を知らせてきた。カップスープを作り、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出して、昨晩一緒に買いに行ったパンを座卓に広げると、質素ながら食卓が出来上がった。
「いただきます」
「いただきます」
右手で自分の腹部を抱くようにしながら、可奈子は左手だけを使って器用に、かつ丁寧に食事を進める。こういう所に育ちは出るのだろうと、何度も感心したものだった。
「さて、可奈子さん」
「うん」
「俺らの事は、暫く秘密にしておこう。いずれバレるかも知れないけど」
「どうして?」
「まず、一緒に住んでるなんてのが噂になったら俺らまとめて退学になってもおかしくない。私立だし、不純異性交遊だとか言われそうじゃね?」
「ふうん」
つまらなそうに頷いて、可奈子はスープに口をつけた。気を取り直して壱は続ける。
「あとはホラ、5人しか居ない部だしね。その中で俺らだけカップルオーラ出したらやっぱ空気悪いと思うのよ」
「大丈夫」
「何が」
「というより、彼女達には、先に言っておいた方が、角が立たないと思うけど」
「それも考えたんだけどなぁ」
「いい顔したがるものね、壱は」
昨夜から、可奈子は壱を名前で呼ぶようにした。自分だけ苗字ではなんとなく余所余所しいという主張で、壱としてもその方が気持ちの上でも嬉しいものだった。
可奈子は確かに自分を好きだとは言ってくれたが、今の所依存のような心理の方が強いだろうと、壱は舞い上がりながらも冷静にそう見ていた。彼女にとっては消去法のような所もあるし、壱とて不幸な鶴岡可奈子という少女と本位を並べる事で、ある種の共依存が無いとは決して言い切れない。同時に女性としての可奈子に対する好意は歴然としてあったが、当の本人はどうであるか曖昧な所も多いだろう。
「別にいい顔したくて言ってるんじゃないもん」
「柴崎さんなんか、驚くでしょうね」
「あー……」
「気付いてた?」
「朴念仁ごっこぐらいは出来るけどさ」
「嫌いなの?」
「まさか」
「でも、言いたい事は解った」
スープの中身を全て飲み干して、パンを千切り、可奈子はそっぽを向いて言った。明らかに不機嫌だったが、内心壱はほっとする。
「すまんね、余計な事に気使わせて」
「グループだものね。形は、あんまり大げさに変えない方が、いいと思う」
「よく解ってるじゃない」
「壱が、里帰りをした時にね。貴方1人居ないだけで、部の空気は、すごく気の抜けたものになってた」
「そうなの?」
「不真面目な、練習だったわ」
「ううん、そりゃ駄目だなぁ」
「だから、1人も欠けないで、このままで居たいものだと思う」
「そうだねえ」
例えば咲が入院した時にしても、状況が状況とはいえ練習など殆ど出来ていなかった。ぎりぎりの均衡で成り立っているような所も、あの少人数の部には、ある。
食事が終わると、可奈子はニュースを見始めた。特に内容は気にしていないらしいが、それとなくテレビの話題などを振るようにもなっている辺り、彼女なりに世間慣れをし始めているのだろう。
「着替えるから」
「お、了解」
珍しくそう宣言した可奈子の言葉に頷いて、壱も制服を持って脱衣所へ。着替えて、待ち、声をかけてから再び部屋へ。
「もう一部屋あると楽なんだけどね」
「ごめんね」
「そうじゃないさ。良い思いもさせてもらったし」
冗談交じりに壱が言うと、可奈子は表情を消して押し黙った。どうしたのか、と思って顔を覗き込む。
「やっぱり、気持ち悪いわよね」
「は?」
「私」
「……ん? 待ってくれ、何の話よ」
「痣とか、沢山あるし」
小声になりながら、スカートの裾を引っ張る。
きちんと見たわけではないが、何度か隙だらけな可奈子と遭遇した折に、彼女の肌に生々しく残った傷跡の数々は目にした。確かに、改めて見て驚きはしたが、別に嫌悪を催すようなものではない。
そこまで考えて、壱が散々「無闇に肌を露出しないで欲しい」という意味の事を言い続けたのが、可奈子にとっては気味悪がっているように見えたのだと思い至った。これは猛省せざるを得ない。
「ごめんよ、それは配慮が足りなかった」
「……」
「別に気持ち悪いとか、そういうんで言ってたんじゃないんだ」
「そう」
納得いかない顔で再びそっぽを向く可奈子の視界に割り込んだ。こういう心の動きも、彼女にとっては持て余すような所があるのかも知れない。虐待で受ける痛みを凌ぐために心を殺せばそうなってもおかしくないというのは、壱にはよく解る。
可奈子のブラウスのカフスを外し、袖をそっとまくった。左の上腕には、何か硬い物を叩きつけられたような薄い痣が1つある。
「うむ」
「何」
「気持ち悪くなんてないよ。これも、可奈子だと本気で思ってるんだから」
「……」
「まあ、見てると悲しくなったり頭に来たりはするけどさ。君は俺の彼女なんだから、俺に対してそんな疑いかけて欲しくないぜ」
「ん」
「解ったかしらー?」
「解った」
「ほんとかしらー?」
「それ、うざい」
「久々に冷たくされて少し嬉しい俺も居る」
「変態」
袖を素早く伸ばして腕を隠し、可奈子はまたそっぽを向いた。向いたが、機嫌はいくらか持ち直したらしい事は雰囲気でなんとなく伝わってくる。可愛い、と素直に思う、既に彼氏馬鹿の始まっている壱だった。
普段より早く部屋を出た。並んで出てくる所をなるべく見られないためである。それでも通学路に乗れば、ちらほらと見慣れた制服の学生達が目に入る。
「緊張する?」
「まさか」
「いいね、タフだね」
「そういえば、元吹奏楽部は?」
「大人しいもんだよ。賞取って、学校がまた手厚く持ち上げ始めたからじゃないかな?」
言葉通り、夏休みに入るまで続いていたバッシングめいた行為は、殆ど目につかなくなった。これについては素直に頑張って良かったと思う。
可奈子はそう、と満足げに頷いた。校門が見えてくる。
「昼はどうする」
「食べる」
「……いや、音楽室とかで一緒に食おうぜ? 寂しいぜ俺」
「じゃあ、そうする」
「皆にも召集かけとくよ」
そこまで言うと、可奈子はまたそっぽを向いた。否定的な時には、彼女はこうして壱に代替案を出させようとする。1週間程度一緒に寝起きをして改めて理解した事だが、基本的に可奈子は怠惰であるらしい。
「コッチヲミロォ」
「変な声、出さないで」
「ま、今日ぐらいはさ。皆会いたがってると思うから」
「ん」
「次からは2人でイチャイチャとだな」
「いいから」
「そうスか……」
「とりあえず、昼に、黒沢君が来るのを、待てばいいのね」
「……うむ、お鶴さんのクラスまで迎えに行こう」
「解ったわ」
言って、可奈子は先に校舎へ向かっていった。なんとなく腕を組んで暫く見送り、壱もまた校内へ。
教室で暫くぼんやりしていると、ユキが入ってきた。壱に向けてちょっと手を上げて、席につく。
「お鶴さんは今日からだぜ」
「え、ほんと?」
気だるげに伸ばしていた体を勢い良く壱に向けながら、ユキは目に見えて驚いて見せた。
「うむ。昼休みに、音楽室な」
「そっか、やっと出て来れるんだ」
心底からほっとしたように、眦を下げて、ユキは笑った。ひょっとしたら、吹奏楽部で一番可奈子を好きなのは彼女かも知れない。
「心配かけてすまない、ってさ。まあ改めてまた言われるだろうけど」
「夏休みは殆ど毎日一緒だったから、すんごい久しぶりな気するわ」
「それもそうか。消えてから、2週間以上だもんね」
「あー、これはもう午前の授業なんか身が入らないわ」
「いつも通りだな!」
「勿論」
にやりと無駄にニヒルに笑い合い、新田教諭が来るまで雑談で時間を潰した。
新田教諭は教室に入ってくるなり壱と目を合わせて、微かに笑って見せた。




