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可奈子が着ていける衣服が、本当にラフな物しかなかったので、結局2人とも制服を着る事にした。そういう事に今更頓着する薫子ではないだろうが、壱としては先日の罵声もあっただけに見た目だけでも見苦しくないようにしておきたい。
可奈子としては制服の方が着慣れているのか、若干丈を余らせながらも無理なく身に包んでいた。
「なんか久々に見るな、制服の君は」
「もう、2週間以上になるものね」
「丈は少し詰めたほうがいいかもね。袖とか」
「そのうちにね」
そんな話をしながら駅前まで出て行くと、既にジャガーはロータリーに待機しており、その脇には秋乃が立っていた。ちょっと会釈をしながら歩み寄ると、可奈子もいくらか身を縮めて同じようにした。対して相手からは深々と、手本のような一礼が返ってくる。
「お久しぶりです、黒沢様」
「どうも、この度は。ええと、彼女が」
言って、可奈子の背中にちょっと手で触れる。秋乃は1つ頷いて、再び一礼。
「初めまして。楡原薫子の秘書を勤めております、夏海秋乃と申します」
「……鶴岡、可奈子です」
そう名乗った可奈子を、秋乃は全く表情を変えずに見ていた。可奈子もまた、目を合わせるだけに留まった。
そういえば自分の時は名乗りもしてくれなかったなと思いながら、そのぐらいには彼女の方にも気安さが出ているのかも知れないと、無関係な事を考える。
全く揺れを感じない程の丁寧な運転で、ジャガーはすぐに都内へ入った。会話の全く無い車内だったが、それだけに目的地へ着くのは早かったように感じる。
秋乃の先導で、社屋へ。各部の社員が何人か見えたが、秋乃の姿を見てその全てが通路を遠慮する。エレベーターも、3人だけだ。
そのまま最上階へ上がり、秋乃が開く社長室の扉を潜る。
相変わらず空気の違う室内の大きなデスクの前で、薫子は何やら書類の山に目を通していた。
「あら」
そして今気付いた、とばかりに顔を上げ、最初壱を、続けて可奈子を見やり、微笑む。
「ようこそ。かけて頂戴」
促されるまま応接用のソファに並んで座った。こうなってくると壱からは徐々に落ち着きが無くなって来るのだが、流石に可奈子は泰然としたままで、むしろ薫子をじっと見詰めている。大した精神力だった。新田教諭の話ではプロになるか、という誘いに興味が無いの一点張りを貫き通したというのだから、やはり彼女はタフな部分も大いに持っているのだろう。
薫子は壱と可奈子を見渡すように正面へ腰掛けた。頃合を見計らっていたように、秋乃がアイスコーヒーを音も無くそれぞれの前へ配し、部屋を出る。
「よく、来てくれたわ」
扉の閉まる音と同時に、薫子は切り出してきた。
「まず可奈子さん」
「はい」
可奈子の返事に、薫子はふっと瞼を下ろして、両手を膝に置き、深々と頭を下げる。こうも毅然とされればもっと嫌味も感じそうなものだったが、不思議と彼女のそういう所作には胸を打たれるようなものがあった。それだけ、薫子の謝罪は本気だという事でもあるのだろう。
「申し訳ない事をしました。私の、私達の都合で、貴女は楽器を握れなくなりました」
可奈子は微かに頭を俯けて、右手を左腕の下に隠す。
「元を正せば、身内を庇いたいという私達の身勝手から出た事。因果を見れば、軽率に貴女の戸籍移動の話を切り出した事が、そもそもの発端です。重ねて、申し訳ないことをしました。謝罪致します」
可奈子は頷きもしなければ、返事もしない。
謝罪など、今の彼女にとっては無駄なものでしかないのだ。だが、薫子にとってはやらなければならない事である。だから、可奈子は黙って聞いているだけだなのだろう。
「可奈子さんという存在を知り、先ずはその腕前に私は心底から惚れ込みました。そして貴女の置かれている現状を知るにつけ、同時に鶴岡の面子を保つため、あのような遠回りを」
「薫子さん」
まだまだ謝罪の口上は続きそうだったので、壱は適当に切り込んだ。このままでは、暗い雰囲気のままである。薫子を気遣うのではなく、可奈子をいつまでも俯けたままにしておきたくはなかっただけだ。
「その辺で。可奈子は多分、何の感想も無いと思いますが、謝意を理解出来ない程狭量じゃありません」
「……そう。では、しつこいようだけれど、本当に、ごめんなさい」
最後にいくらか砕けた言葉で、薫子はそう締め括った。可奈子は漸く頷いて見せ、それから右手を更に深く隠すような仕草をする。もう触れてくれるな、という彼女の言葉が聞こえてくるようだった。
「それで、今は黒沢君のお宅に一緒に居るのよね?」
「ええ」
「そう。それは、きっと素敵な事だと思う。けど、そのままでは色々と無理も出てくるのでは?」
「……確かに、特に経済的に無理が発生すると思います。そもそもが1DKの狭い部屋ですしね」
それだけは、ずっと感じていた事だった。壱は苦ではないが、眠る場所は床にするしかなかったし、可奈子の精神面を考えれば四六時中顔を合わせたままというのも彼女にとってはやり辛い事この上ないだろう。まだ1週間も経っていないから目立って不満も口にしないが、いずれ出てくる問題が先延ばしになっているだけである。
だが壱のそんな言葉に先に反応したのは、薫子よりも可奈子だった。
「やっぱり、迷惑を?」
「迷惑っていうんじゃなくてね。いずれ、君にとって辛くなるんじゃないかと思ってるだけだよ」
「……」
肩を落とし、可奈子はそれだけで黙りこんだ。薫子が様子を見るように2人に目配せをしてから、続ける。
「それについて、提案があるのよ。1つは、私が個人の名義で部屋を借り、そこへ可奈子さんに住んで貰う事。あの近辺なら、探せばいくらでも出てくると思うし、身の回りを助ける人間も用意できる」
「それは、楡原さんに、迷惑では」
可奈子がいくらか訝しい表情を滲ませて言うが、薫子は首を振った。
「貴女の現状は、私が招いた事。で、私にはたまたま、今の貴女に生活環境を提供してあげられる力があるというだけの事よ。そこには勿論、償いの意味も込めておきたい」
自然にグラスを持ち上げ、ストローで中身をかき混ぜる薫子を見て、解き放たれたように壱もグラスを手に取った。冷たいが、味は解らない。
「何も私は、ただ可奈子さんを鶴岡から放り出したわけではない。その後の生活も、勿論考えてあるわ。その一端ね、これは」
ストローにちょっと口をつけてコーヒーを吸い上げ、薫子は静かにグラスをコースターへ戻した。可奈子はまた俯き、何事かじっと考え込んでいる。
「だからといって、これは強制力のある事ではないわ。可奈子さんに、決めて欲しいの」
そこまで言って、薫子は椅子に深く腰掛け直した。後は可奈子の返答を待つ、という意味だろう。
暫く静かに時間だけが過ぎた、可奈子が何を考えているのか壱には想像もつかなかったが、しかし深い悩みの中にいるのだけはよく解る。新しい生活環境を、と突然言われた所で、可奈子は困るだけだろう。1人だけで暮らす事への不安も山ほどある筈だ。
「黒沢君」
「うん」
「どう、したら」
「それは、可奈子が決めないと」
「……行っても、いいの?」
「勿論、君がそう望むならそうすべきだ」
冷たい言い方かも知れないと思ったが、しかし正直な気持ちでもあった。壱としては可奈子と起居を共にしているこの数日がたまらなく幸せだが、楽しいばかりでそれを過ごす事は絶対に出来ない。
また沈思する可奈子を、しかし薫子は決して急かさなかった。
考えてみれば、こうして自分の行き先を決めるという行為は、可奈子にとっては殆ど経験の無い事なのかも知れなかった。幼い頃から虐待を受け、痛みばかりを憶え、そして最も休める筈の家庭では行動を制限されたりする。時には屋内での出入りすら禁止されたりもしてきたのだ。
だから悩む。うん、と頷いてしまえばそれが決まってしまう、という現実に、可奈子は慣れていない。
たまりかねて、壱は助け舟を出す事にした。
「可奈子」
「あ」
ぱっと顔を上げるのを見ると、思わず「行かないでくれ」と口にしそうになってしまうが、それは喉の奥に飲み込んだ。
「あんまり難しく考えないでいいんだよ。薫子さんの世話になろうがなるまいが、俺はずっと君の味方でいるから。別に何かが根こそぎ変わるような決断じゃあない」
納得したのかどうか、しかし可奈子は頷いて、包帯を煩わしげに弄り始めた。
更に沈黙。壱が薫子の我慢強さにも敬服し始めてきた頃、漸く可奈子は口を開いた。
「私は」
「ええ」
背筋を改めて伸ばし、薫子は静かな表情で次を待つ。
「私は、黒沢君と、居たい」
最後は殆ど壱に向けて放った言葉だった。思わず目頭が熱くなるのを堪えて、壱は頷いて見せた。
「そう。それなら、是非そうするべきだわ。他ならない貴女の決めた事だもの」
言って、薫子は優しく微笑んだ。
「それじゃあ、可奈子さんの事はこれで決まりね。でも、何か困ればすぐに私達に相談して欲しいの。黒沢君には言い辛い事も、沢山あると思うから」
「ですけど」
「確かにあるだろうね。うん、これは薫子さんに甘えておこう」
「……わかった」
「それじゃ、可奈子さんは悪いのだけど、少し外して貰っていいかしら?」
不思議そうに薫子と壱を交互に見てから、何か察したのか可奈子は頷いて頭を下げ、出て行った。
扉の閉まる音。微かに、秋乃との話し声が聞こえ、遠ざかって行った。それを待っていたように、薫子がすっと目を細めて壱を見据える。
「あ、一応先に言わせて頂きますと、先日の言葉は取り消しません。ただ、言葉遣いのみっともなさだけは、謝ります。すいませんでした」
「……黒沢君、私はそんなに怖いかしら」
「は?」
「ま、いいわ。別にお説教がしたくて残したわけじゃないから。可奈子さんの右手についての話」
「あ」
痒くも無い頭を掻いて、頷き返す。
「今秋乃が、それとなく可奈子さんの手の状態を聞きだしてると思うわ。それを元に、いくつか心当たりを探してみる」
「可能性はあるんですか?」
「解らない。だから可奈子さんに外してもらったの。ぬか喜びになっては、ね」
「そうですか。それは、本当になんとお礼を言っていいか」
「いいのよ。私は可奈子さんと黒沢君が欲しい。その上での治療というなら、まあ労災が下りたようなものだと思ってくれれば」
屈託無く笑う薫子と、時間つぶしの雑談に終始した。もし可能性があるのなら、それは壱の胸にだけとりあえず収めておこうと決めた。
帰りの車もやはり終始無言だった。秋乃はそれでも恭しく扉を開け、丁寧に車外まで見送りをしてくれた。
「どうも、お手間かけました」
「とんでも御座いません。それではまた」
走り去るジャガーを並んで見送り、どちらからともなく歩き始める。自宅までの道のりでも言葉は無かったが、壱はどこか充実している事に気付いていた。
その理由に、可奈子が自分を選んでくれたからだ、というのは当然ある。だが同時に、可奈子が自分の意思でそう決めてくれたからだと、すぐに思い至った。鶴岡可奈子は、今ただの可奈子として、自分がしたい事を真剣に悩んで選び取ったのである。これが可奈子の成長でなくて、何であろうか。
部屋に入り、真っ先に換気。可奈子は疲れがあるのか、すぐにベッドへ腰を下ろした。時刻は昼をいくらか過ぎている。
「ラーメンでも行くかい?」
気軽にそう声をかけるが、可奈子はちょっと首を振るだけに留まる。
「とりあえず、皺になっちゃうし着替えようか」
可奈子に洗濯したばかりのルームウェアを手渡して、壱は脱衣所に入った。着替え、暫く待ち、声をかける。
「終わった?」
「うん」
やっと返ってきた返事はそんなものだったが、とりあえず安心して、壱は部屋へ戻る。衣服が違うものになっている以外は、姿勢も表情も殆ど変わらない可奈子が居た。
色々と言葉を選び、壱が口を開きかけた所で、先を越される。
「ありがとう」
「ん?」
「ありがとう、ここに、置いてくれて」
「ああ」
そんな事か、と思ったが、可奈子の感謝は本物だった。頷き、返す。
「こっちこそ、俺を取ってくれてありがとう。うん、実際泣きそうな程嬉しいね」
「そう」
「また迷惑かけんじゃないか、とか考えてる?」
「……今は、あんまり」
「だよね。そう思ってるなら、あの場で俺は薫子さんの所に行っちゃえ、って押しまくった筈だもん」
そうなっていたら、可奈子は不承不承頷いていただろう。それが本意でないとしても、可奈子にとっては背中を押される事の方が楽だからだ。自らの意思で選んできた、楽器というカテゴリが無い今、彼女は渓流を下る枯葉に等しい。
それを理解していたからこそ、薫子も必要以上の言葉は発しなかったのだと今は解る。
「でも聞かせてくれんかね? なんでここに残る事を選んだのか」
「それは」
「それは?」
口を小さく開いて少し溜めて、可奈子は続ける。
「黒沢君は、初めて会った時から、優しかった」
「……一番最初はビビらせたかも知れないけどね」
「楽譜も、手伝ってくれたし。そもそも、部活に戻れたのも、貴方のお陰で」
「そのどっちも、大して役に立った記憶は無いけどな」
「私の考えを、いつも察してくれて」
「うん」
順を追って、可奈子は少しずつ、初めて出会った時の頃からの壱に対する印象を、口にしていった。練習の合間のちょっとした事や、壱が忘れていたような何気ない事の1つ1つまで、彼女は鮮明に思い出すように語る。
「今の私は、帰るところが、無いわ」
「そうなるね」
「だから利便で、損得で貴方を頼るようで、嫌なのだけど」
「うむ」
「でももし、家があったとしても、きっとここに居たと思う」
「どうして?」
「黒沢君が、居るから」
相槌を詰まらせてしまう。ここまで言わせる事になるとは思っていなかったとはいえ、直接的で言葉が少ないだけに、壱の心にくるものは大きかった。
「気が付いたら、私には、貴方しか居なかったもの」
「そんな大それたモンじゃ」
「男の人なのに、触れられて、むしろ最近は、嬉しいと思う。これは、貴方だからだと、思うし」
「むう」
聊か緊張するような響きのある言葉だったが、考えて見れば可奈子にしたところで、同年代の男と同居している現状を、恐らくは壱よりも現実的に捉えているに違いなかった。見た目や印象がどうであれ、彼女も女である。
「フルートを、一緒にやってくれるのも、貴方しか居ないし」
「うん」
「その、ずっと優しくて」
「なんだか随分優しかったんだな、俺は」
「……だから私は、多分ずっと」
そこで言葉を切ったように見えたが、唇の動きで、何を言ったのか壱にはよく解った。




