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「そら」
「助かりますけど、職権乱用ですよね?」
「返せ」
「すいません嘘です心の底から感謝してます」
予備で置いてあった女子の制服を手早く紙袋に詰めて、壱は御堂教諭に平謝りした。
可奈子が壱の部屋に居座り始めて最初の週末を控えた土曜日。
その間、可奈子は口数こそ少ないものの、いくらかは笑顔も見せるようにはなった。時々自分の右手を見つめてじっとしている事があったが、それ以外ではごく平然としている。壱が声をかければ必ず振り向いて返事をし、何を言われるのか待つ様は、壱に言いようの無い感動のようなものを沸き起こさせたりしたものである。
だが、いつまでも家の中に引き篭もっているわけには行かなかった。学校へ復帰したいというのは可奈子の意思であったし、壱もまたそうすべきだろうと考えた。その為には、対外的な彼女の立場を綺麗なものにする必要がある、という薫子の主張も素直に頷けた。
結果的には、可奈子は戸籍上来須という中年の女性の養子に収まった。鶴岡の戸籍から出るに際して随分ともめたようではあったが、そこは薫子が全て捻じ伏せたらしい。らしい、というのは事の顛末を全て見聞きしたわけではないからなのだが、薫子は可奈子の社会的な立場については何も不安に思わなくて良い、と胸を張って言ってくれたので、壱は疑問を持たない事にしたまでである。
可奈子本人はそれについて特に何の疑問も持たなかったようである。或いはそれは悲しい事なのかも知れないが、しかし経過を考えれば当然とも言えた。いずれ、自分の身を振り返る機会も来るだろう。
学内でも苗字は鶴岡を使い続ける事になるので、学校へ対しては急病による休校としてしか処理されなかった。そもそも姿を消したのが夏休み終盤から新学期の数日までだったので、可奈子の欠席日数など高が知れている。
そうして、来週からは復帰する事になった。その間壱は朝学校へ行き、夕方には部活を程々に戻ってくるという生活パターンで、部屋を開けて可奈子に出迎えをされる事に幸せを見出さずにはいられなかった。とはいえ、吹奏楽部の部員達も当然可奈子の消息については疑問に思うわけで、そればかりは隠さないわけにもいかず、また可奈子にあった虐待の事実までを吹聴するのも憚られ、結果「親戚筋の揉め事」という説明の仕方をした。これには御堂教諭も口裏を合わせてくれているのでなんとかなっている。
流石に可奈子と一緒に寝起きをしている現実は伏せた。御堂教諭は「無駄だと思うが」などと言い放ったが、可奈子の為にも出来る限り秘密にしておこうと決めている。
「サイズは詰める事になるだろうが、まあその時はその時で相談しに来い」
「了解です」
「月曜には出て来れるんだったな? その、書類の処理も終わっているんだろ?」
「ええ。本人にそう話したら、喜んでましたよ」
「そうか」
万感込めたように、小さく口元を緩めて御堂教諭は何度も頷いた。彼女の協力無くして今は有り得ない事をよく理解しているだけに、今後一生頭は上がらないだろうなとなんとなく思う。
「じゃあ、待ってると伝えてくれ」
「可奈子も、御堂さんにはお礼を言いたがってますよ」
「嬉しいね。楽しみにしてるよ」
それで別れ、壱は下校した。部活終わりまで待っていてくれた事にも、感謝を忘れない。
紙袋の中身をなるべく気にしないように足早に家へ。
「ただいま」
「お帰りなさい」
壱の教科書を広げていたらしい可奈子が、ぱっと立って玄関まで出て来た。至福の一瞬。
「それは?」
「ああ、女子の制服。いずれ君の所持品なんかも、薫子さんが回収してくれるらしいけど、とりあえずは必要だろ?」
「誰の?」
「保健室の予備だって。ホラ、体調崩して、服汚しちゃう事もあるじゃない」
「そう」
紙袋からは興味を失ったのか、可奈子は呟いて部屋へ戻る。壱もそれに続いて、手早く着替えを済ませた。特に肌身を見る事に、彼女は特に抵抗は無いらしい。見られてもそれ程抵抗が無い辺りは壱としては困ったものだったが、可奈子からは壱の目に入るぐらいならどうという事はないという返答があった。信頼されているのか甘く見られているのか、寝る前になんとなく考えた事もある。
「さて、明日は日曜日です」
座卓を挟んで向かい合うと、可奈子はちょっと居住まいを正した。
「うん」
「薫子さんの所に行くから、そのつもりで居てくれるかい」
「わかった」
「まあアッサリ」
「他にする事なんて、あんまり無いしね」
「そうそう、それはどうなのかと思ったのさ。暇じゃないかい? 1人置いて学校行ってる俺の台詞じゃないだろうけど」
「別に」
「何してるのか聞いても?」
「教科書見たり、寝たり」
「……今までの君からは想像できないぐらい怠惰だなおい」
「黒沢君が居ないから、楽器も持てないし」
「うむ」
あれ以来、可奈子は1日に何度か、壱にフルートを手伝わせる。フルートに触れた事も無かった壱の手が入るのだから、彼女らしい演奏など当然見る影も無いのだが、それでもあの高く透き通るような音色を出す事は、可奈子にとってはやはり尊いらしかった。
「何かあるといいんだけどね。俺他に趣味とか無いしなぁ」
「テレビは見るけど」
「どんな?」
「……よく憶えてないから、見てないのかも知れない」
「面白いな君。ああでも、何か欲しいものとかあるかな」
「これ以上、迷惑はかけられないわ」
こうした話の流れになると、可奈子はどこかで必ずこうした言葉を口にする。遠慮など要らないのだが、そもそも可奈子にとっては男の部屋なわけで、おまけに今までの暮らしに比べれば窮屈で不便な事の方が多いだろう。本当に彼女の欲しいままにさせるには、流石に壱も財力が無さ過ぎた。
拓に事の顛末を説明した所、まとまった金を送ってくれた。慌てて返そうと連絡を取ったのだが、使わないなら使わないで良い、というぶっきらぼうな答えが返ってきただけである。この所、人に感謝をする機会がとにかく多いと感じる黒沢壱だった。ともあれ、それをいきなり使い込むというのも、お互いの関係を考えれば良いとばかりも思えない。
「ま、学校が始まればその辺もあんまり考えずに済むかな?」
「そうね」
「部活はどうするね? 落ち着くまでやめておく?」
「……月曜日は、顔を出すわ。皆、心配してくれただろうから」
「そうだね。それがいい」
本当は部活中もずっと居て欲しいものだったが、それは今の彼女にとっては酷な話だろう。やりたくても楽器が出来ない中、他人の演奏をただ見つめ続けるというのは、可奈子からすれば拷問に等しいに違いない。
「よし、じゃあ明日は少し早めに出るから宜しく」
「うん」
「飯はまだ早いね。フルート触る?」
「うん」
頷いて、可奈子はベッドに腰掛ける。その後ろで胡坐をかくようにして、壱は右手でフルートを掲げる。
何度も駄目出しを受けながら、暫く二人羽織のような演奏を続けた。勝手が解らずに、右腕が引き攣りそうになるが、それも堪えて可奈子の望むようにする。そうしていると、徐々に言葉数が減り、彼女は音色に没入していくのが肩越しにでもよく解った。
そうして可奈子は満足すると、背中を壱に預けて休憩に入る。壱からすれば微かと言っていい程の重みと彼女の香りが、正直フルートを手伝う目的の半分を占めていると言ってもいい。
「今日は、良かった」
こういう態勢で不穏当な発言だ、と内心ぼやき、頷く。
「変な演奏だったわね」
「そうだねえ」
「黒沢君も、吹く?」
「俺が口つけてもいいの!?」
「なんで驚くの」
「いや、そういうの嫌がるかなと思って」
「吹いてみせて」
壱の言葉は無視して、可奈子はフルートを押し付けるように渡してきた。演奏した事の無い楽器な上に、今の今まで彼女が口をつけていた物へ手を触れるのは聊か恐縮するのだが、どうもこれは避けられないらしい。
「じゃあ失礼して。っていうか多分殆ど吹けないけどな」
「いいから」
微かに湿ったライザーに口をつけ、かつて可奈子がそうしていたように構え、息を吹き込んだ。弱々しい音色が、間抜けに出て行く。
くすくすと笑う声。顔を伏せてはいるが、可奈子が肩を震わせて笑っていた。思わずカメラを探しそうになる壱。
「難しいな。サックスの勢いでやったら当然割れるだろうし」
「そうね。もっと、肩の力抜いて。優しく」
「優しくね」
言われた通りに、肩から力を抜いて、そっと、しかし密度を込めて息を送る。今度は、随分とそれらしい音になった。可奈子と目が合うと、頷きが1つ。続けてキーを押さえたり離したりしながら、適当に奏でてみた。
「流石に、コツを掴むのが、早いわ」
「構造はそれ程変わらないもんね」
「……せめて、早く1人で持てるように、なりたい」
「それはすぐだよ。1ヶ月もすれば包帯も添え木も外せるって言われたんでしょ?」
「そうだけど」
「焦れるのは解るけど、絶対に無理しないでくれよ」
「うん」
時計を見ると、18時を回る所だった。家に戻ってきてから随分と楽器に夢中になっていたらしい。色気らしい色気も無い辺り、自分達らしいかと内心笑った。
「そろそろ飯食いに行こうか。来週からはいくらか自炊もするけど」
「手伝えることは、するから」
「まるで新婚夫婦だな」
「そうね」
「……否定されなかった」
「外から見れば、そんな風に、見えるでしょ?」
「見えるけど、可奈子は嫌がるかと」
「そうね」
何か思いついたように可奈子は頷く。何か言うのだろうかと待ってみるが、黙ったままだった。
「え、何の「そうね」だったの今の?」
「ううん」
「乙女の謎は深まるばかりだな」
「そのうちね」
「楽しみにしてるよ」
言って、壱は名残惜しい気持ちを抑えながら、可奈子から離れた。財布を取り出してポケットに突っ込むと、可奈子も靴下を履く。とにかく安さが売りな、全国展開しているブランドの物だったが、彼女は特に文句も言わない。考えてみれば、こういう事に拘りを持つ方ではなかったかも知れない。儚げなイメージの強かった鶴岡可奈子が、ロングスリーブシャツとリラックスパンツ、ノーブランドのスニーカーで外食に出る所を、転校当時の自分が見たら、腰を抜かすだろう事は簡単に想像できた。
靴を履いて外へ。日はいくらか短くなり始め、既に夕闇と呼ぶに相応しい藍色の空が街を覆っている。風も無くそれなりに蒸し暑かったが、昼間よりは余程ましだった。
「何食うかね」
「ラーメンは、美味しかった」
「君は本当にラーメン好きだな」
「ああいう所で、食事なんて、殆どしなかったから」
殆どと言うが、恐らく皆無に近かったのではないだろうかと壱は思う。長く、時間も居場所も管理され続けてきた可奈子にとって、外食自体がちょっとしたイベントと言っても良い。
「じゃあまたラーメン行くかい? 安いし」
「うん」
「手繋いで行こうぜ!」
「うん」
「え、いいの!?」
「はい」
言いながら差し出された左手を、胸を埋める感動と共に握った。フルートをやっている間は密着しているのだから可奈子にとっては大差ないのかも知れないが、壱にとってはパブリックな空間でこうしている事が最早奇跡に近い。
それだけ、出会った当初の印象が未だに強いのだろう。思っているよりも、心は許されているのかも知れない。
「暑いわね」
「興奮してるからな」
「離して」
「嫌だね」
身をよじって手を離そうとする可奈子を高笑いしながら手玉に取ると、彼女もまた可笑しそうに笑った。




