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呟きとメヌエット  作者: camel
襤褸のアクション
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12

 シャワーを借りる、と言ってバスルームに可奈子が入っていくと同時に、壱はベランダへ出て携帯電話を取り出した。なるべく心を落ち着けて、電話帳から楡原薫子を呼び出す。時間がちょうど良かったのか、すぐに繋がった。

「はい」

「あ、すみません。今お時間は」

「大丈夫よ。何か?」

「鶴岡可奈子の事で。とりあえず結果から言いますが、あの子は今鶴岡の家を逃げ出して、俺の部屋に居ます。その折、右手の指の骨を2本折られました。原因は、恐らく楡原さんにあると思います」

「……成る程、じゃあ過程を説明してもらっても?」

 どうしようもなく刺々しい口調になっていたのだが、薫子は平素として受け、次を促してきた。却って腹が立ちそうになるが、押さえ込んで壱は続ける。

「心情の変化か、彼女は虐待を受ける事に漸く疑問を持ちました。それと、指の骨を折られた事も切欠になったんでしょう。可奈子の父は、その際に「楡原に何を吹き込んだのだ」と口走ったそうです」

「ええ」

 簡素な相槌。馬鹿にされているんだろう、と決めてかかりたくなるような、冷ややかな響きだった。

「剥離骨折との事で、可奈子の指はもう元通り戻らず、従って以前のような演奏は不可能になりました。正直申し上げて、恨みます」

「そうでしょうね。軽率だったと、今反省している所よ」

「反省?」

「それで?」

 悪びれた様子も無い薫子の口調に、とうとう壱の中で何かが弾けてしまった。唇がぶるぶると震えて、どす黒いものを腹の底から押し上げてくる。

「あんた言ったよな、身内が恥じ晒すのが怖いって。それにビビってオマワリは使えねえって。その言い分は確かに頷けたよ、出来ることなら穏便に済ませたいのは解った。でもその結果がこれだよ。今何考えてるのか言ってみろ!」

 携帯電話を握り締めすぎて、ぎちぎちとプラスチックの軋む音がする。

「もう何も無いんだよ、可奈子には。あんな親父だって、あいつにとっちゃ家族だったんだ。それを切り捨てて、そのついでに大事な拠り所だった筈のフルートまで出来なくなっちまった。解るかよ、その気持ちが」

「解るわけないわ。私は可奈子さんではないから」

「そうだよな、解るなんて言ったら今すぐそっちに行って同じようにしてやったかも知れない。ともあれ、俺はもう可奈子について、あんた達に任せるつもりは一切無い。貰って引き伸ばして悪かったが、契約の話も当然破談で構わない」

「そう。一介の学生である貴方にそれが出来るとも思わないけど」

「ああ、最後はやっぱ金で釣るんだ?」

 壱がそこまで言うと、薫子は電話の向こうで長い長い溜息を吐いたらしく、ノイズが耳元に鬱陶しく響いた。

 また罵声を口にしかけた壱の機先を制して、薫子の声が割り込む。

「黒沢君。その顛末は、一応こちらでも握ってあるわ。昨夜鶴岡の使用人が1人逃げてきてね」

「何を」

「聞きなさい。可奈子さんは予定通り戸籍を移動する事になった。養子縁組で、楡原に居る来須という中年の家政婦に、戸籍を汚してもらう事になったのよ。だから今、彼女は来須可奈子さんになるわね」

「それが今更」

「骨折の程度がそこまで酷かったとは知らなかった。ともあれ、すぐにでなくても構わないわ。必ず私の方で打開策を練ってみせる。2人で、顔を出して頂戴。これは別に頼んでいるのではなく、親権者の正当な主張である事は忘れないようにね」

 来須という家政婦との養子縁組であるなら、親権はその来須にあるのだろう。そこから可奈子に対する引取りの意思が出れば、確かにこのまま無関係ではいられない。その程度は、壱にも想像出来た。

「あんた、何を」

「言葉をもう少し選びなさい、仮にも私は年長者なんだから。貴方の思いはよく解った、確かに私の考えが甘かった事も大いに認める。軽率であったし、身内を庇い過ぎたのも、可奈子さんや貴方にとってはそもそも無関係な事だったものね」

「……」

「だから、謝罪をさせてもらう為にも、1度機会を貰いたいと、そう言っているの。別にその後、永遠に貴方から可奈子さんを引き離そうなんて考えているわけでもないわ」

 そこまで言われて漸く、薫子は壱に言いたい事を全部言わせただけなのだろうと悟った。元々可奈子失踪の顛末を知っていたのなら、壱がここまで騒ぐ前に言い訳が出来た筈なのだ。

 急激に頭が冷えて、同時に口汚く罵る事しかしなかった自分を壱は恥じた。明るくなければならないのだ。薫子が原因の一端だったとしても、怒鳴ってどうなるものではない。

 しかし一言言ってやりたかったというのは正直な気持ちであって、故に薫子はそれを察したという事なのだろう。

 今度は別の意味で唇が震えた。

「楡原さん、あの」

「いいわよ、別に。年下の男に怒鳴られるのにはもう慣れたわ。それにしても、可奈子さんはそれだけ思われて幸せね?」

 くすくすと笑って、必ず顔を出せともう1度念を押し、薫子は一方的に電話を切った。なんとなく液晶画面を眺めて、溜息を吐き、部屋に戻る。

 いつから出ていたのか、バスタオルで体を巻き、いくらか湿ったままの髪を頭の後ろでまとめながら室内を見渡す可奈子が居た。

「キャー!」

「考えてみたら、着替えとか、全く無かったわね」

「可奈子さん駄目よ! 年頃の女の子がそんな! っていうか今の俺の悲鳴は君が出すべきだよね!」

「着替えを買いに」

「と、とりあえず俺ので悪いけど何か着て下さい。着替えを用意するにしたってまともに話も出来ないよ!」

「別に、恥ずかしいとは思わないけど」

「マジで!?」

「うん」

「いやいや、俺のなけなしの理性が容易く崩れ去る前に早くっ!」

 納得したのか、可奈子は脱衣所に戻って行った。扉の隙間から、とりあえずジャージとシャツを手渡しておく。

 可奈子は結局、このままここに居座る事になった。壱に対する感情についての明確な返答こそしなかったものの、傍に居たい、という気持ち事だけは教えてくれた。壱にとっては、それだけでも十分に満足出来る答えだったのだが、早速こうしたイベントが起きてしまうと堅い所に頭をぶつけたくなるような気分になる。

 暫くして、可奈子が存分に布地を余らせた服を身にまとって出て来た。実質30センチ以上の身長差がある上に、可奈子はそもそも線が細いので、最早着ているというよりも埋まっているような絵になっている。

「大きいわね、黒沢君は」

「ああ、まあ」

 言いながらベッドに腰を下ろし、緩過ぎる襟元を均等に引き伸ばしたりしながら、可奈子は窓の外に目をやった。やっと落ち着いて話が出来ると思いきや、即座に彼女が今下着の類を一切身につけていない事に気付いて、壱は己の活発かつ鋭敏な想像力を心底憎んだ。

 暫く1人で悶絶し、満足してから向き直る。克己の心である。

「ええと、そうだ。服だよね、とりあえず」

「うん」

「一応俺の方に多少の蓄えはあるし、実家に相談すれば妹のお古なんかくれると思うんだ。だからそれまでを凌ぐものを用意しよう」

「黒沢君が?」

「その格好で外には出れないじゃない」

「女性服売り場に?」

「彼女へプレゼントだと言い張ろうじゃないか」

「下着も?」

 再び活発化するニューロンとシナプスの超高速連結から生み出される壱の想像力であったが、それはやはり奥歯をかみ締めて抑え込んだ。薫子に対していた時よりも余程精神力を奪われる日々が始まったのかも知れない。

「ううむ、まあ、なんだ。下着も頑張るよ……」

「ごめんなさい」

「いやいいんだ。うん、君のためなら社会的に死ねる」

 壱の言葉に小さく頷いて、可奈子は湿っている髪をちょっと払い、目を泳がせた。照れ隠しなのかも知れない。

 とりあえずとばかりに、壱は預金通帳を引っ張り出した。仕送りを貰っている身で贅沢も出来ないと思い、その殆どを使わずに来ただけあって、半年程で額面はそこそこに大きなものになっていた。

「問題無さそうだ」

「いつかきっと、返すから」

「いらんいらん。ジュース奢る感覚と一緒だと思っておくれ」

「でも」

「今はとりあえず、ゆっくり手を治そう」

 頷いて、可奈子は右手をじっと見た。シャワーを浴びる際に壱がビニール袋を被せたものの、やはり多少は湿っているらしく、煩わしげに包帯を引っ張ったりする。

「黒沢君」

「うん?」

「フルートを、吹きたい」

「……そうだね」

 可奈子が家を出てくる時に唯一持ち出してきたのは、フルートだけだった。金でも宝石でもなく、ただ1つの、姉から譲り受けた楽器。それが、可奈子にとってどれだけ大きな存在であるか、最早想像の必要すらなかった。

「あれを持つとね。凄く心が落ち着いたわ。吹いていると、余計な事は、何も思い浮かばなかった」

「解るよ」

「頭の中が透明になって、音色しか聴こえなくて。あの瞬間は、どうしようもなく、幸せだった」

「よく、解る。俺も似たような経験をした事があるから」

「そうなの」

「気持ちいいんだよね、上手く楽器が出来ると。で、自分で出してる音が、とんでもなく良い物になっていくというか」

「……フルート、吹きたい」

「うん」

 ただ吹きたい、と言ったのではないということは理解している。それでも、壱は何かしたいと、彼女の心のどこかに触れたいと、心底から願った。

 思い立って、壱はフルートを取り出した。ライザーをつけて、ベッドに座る可奈子の後ろへ回る。不思議そうに振り返る彼女の肩越しに腕を出して、フルートを目の前に掲げた。

「何?」

「もうちょい俺に寄りかかってもらっていい?」

「ん」

 言われるままに、背中を寄せてくる可奈子の髪の匂いに惑わされつつ、彼女の左手を取った。フルートの下部を壱が、可奈子が上部を持つようにし、口元に添えてやる。

「俺が右手。可奈子が左手。遊びぐらいは、出来るかも知れない」

「……」

「まあ満足いく演奏は、無理だろうけど。一緒に練習したら、曲芸めいてるけど1曲ぐらい出来るようになるかもよ」

「黒沢君」

「うん」

 返事をした壱の腕の中で、可奈子は静かに、声も出さずに、涙を流して泣いた。

「きっと良くなる、なんて絶対言わないけどさ。君さえ良ければ、こんな程度だけど、俺にも出来る」

「うん」

「だから、あんまり暗くならないでさ」

「ありが、と」

「あんま泣くなよう、俺も貰い泣きしちゃうだろ」

「ほんとは、もっと沢山、聴いて欲しかったのに」

「うんうん」

「一緒にも、やりたくて」

 しゃくりあげながら、可奈子は訥々と、延々と、フルートをもっとやりたかったのだ、という事を語り続けた。それに壱は相槌を打ちながら、彼女がマウスピースに唇を添えるまで、聞き続けた。

 襤褸のようになった彼女の右手に左手を添えて、彼女の左手と共に右手でキーを押さえ、暫く珍妙な曲を演奏し続けた。指のタイミングが合わないと可奈子は後頭部を壱の胸にぶつけて抗議をする。それに謝りながら、今度は間を狭めたり広げたりしながら、彼女の望むように、右手を使い続けた。

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