11
家まで戻る間、車内は無言で、それだけに随分と戻ってくるのが早かったような気がした。
車を降りる。
「黒沢は今日はどうするんだ?」
御堂教諭に言われ、可奈子をちょっと見て、首を振った。これから学校など考えられない。壱の反応を見て、特に咎めるでもなく、そうか、と御堂教諭は頷いて見せた。
「あんまり休んでばかりだとお前が大変だからな」
「御堂さん、可奈子の事は」
「解ってるよ、当然だろ。居場所も伏せておく。ただ、いつまでもという訳にはいかない事は忘れるなよ」
「助かります」
伏目がちで、ずっと顔を俯けていた可奈子が御堂教諭を見上げた。何か言おうとしているのか、口を微かに開いて、有難うございました、とだけ呟いた。それに小さく微笑んで、御堂教諭は車へ戻る。
「じゃあな」
「本当に助かりました」
「頼むぞ」
そう言い残して、御堂教諭の車は見えなくなった。暫く並んで突っ立っていたが、流石に日差しが強くなり始めている時間帯だけに、それも辛かった。可奈子を見ると、包帯と添え木で大きく膨らんだようになっている右手にじっと視線を落としている。
「入ろうか」
「うん」
やっと返事が聞けた、とそんな事を思いながら壱は部屋の鍵を開けた。今朝出たままになっていた室内は熱気が篭っているので、一旦空気の入れ替えのために窓を開ける。2階建てアパートの2階角部屋という事で申し訳程度のベランダもいくらか広く取られているが、民家の密集している地帯であるだけに、眺めも風の通りもそれ程良くはない。
可奈子は室内を少し見渡すようにして、それからベッドへ落ち着いた。スカートの皺を少し気にしつつ、じっと見詰めてくる。
「何か飲む?」
頷かれて、壱は冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。2つのグラスを同時に使うなど拓が来た時以来だな、となんとなく思う。同時に、あの兄にも時を見て相談したほうが良いだろうとも思った。
壱の差し出したグラスを左手で持ち右手を沿え、可奈子は窓の外に目をやった。何を見ているのか、と思うと向かいの民家の屋根を気だるげに歩く猫が居るだけである。
「私は」
「うん?」
「私は、何だったのかなって、ずっと考えてた」
「何だった……というと?」
急に口を開いて、可奈子は外を見ながら続ける。
「生まれてきて、拾われて、あの家で殴られたりした。楽器に出会えたのは、幸運だったのだろうけど、でも今はこうなってしまった」
剥離骨折というのが医師の診断だった。靭帯が骨から剥がれてしまう、という想像だに痛々しい症状だ。加えて、単純骨折の山。
可奈子の指は楽器をやるうちに体型に比べて長く、それ故に折れ方も複雑なものになってしまったのだという。御堂教諭のアドバイスで、自動ドアに挟んだ指を無理やり引き抜いたらこうなった、という説明を可奈子はしたらしいが、それにしてもここまで酷い折れ方は珍しいという感想が返ってきたと話してくれた。
そして可奈子の指は、完全に元通りにはならないだろうという診断も、出た。日常生活を今まで通り行うのに不安は無い程度までは回復するが、楽器を、という言葉には難色を示したのだった。関節は微かに膨らんだようになった状態で固着するだろうし、捩れた靭帯も元に戻すのは困難なのだという。折れてから時間が経ちすぎていたのが、やはり良くなかった。
「私は、これからどうすればいい?」
漸く振り向いた可奈子の双眸が涙に濡れていた。叫び出しそうになるのを堪えて、しかし壱は代わりの言葉も見つけられない。
「楽器も無く、家にも居られない。これまで生きてきたのは、このためだったの?」
「そんな事は」
もっと早く行動していれば、という壱の思いも、消えていた。可奈子は指を折られる時に、楡原の名を父から聞かされたのだという。つまり薫子のアクションが、可奈子の父を逆上させたという事なのだろう。物事が裏目に出るタイミングというのは、得てして成功が目に見えた瞬間である。
だからといって、悟り済まして「仕方の無いことだった」とは壱には決して思えない。
「黒沢君。私は、気付いたわ」
「……何に?」
「私は、父に愛されたかった、だけだったと思う。優しい言葉が欲しくて、逆らってこなかったのだと、思う」
「どうして。散々痛めつけられてきた相手じゃ」
言い差して、壱もまた実の父を憎んだことがないのを思い出した。確かに恐ろしかったし、痛みは明確に存在していたが、アインであった頃の壱はそれでも、父という存在が恐怖だけの対象ではなかった事ははっきりと言える。それは歪んだ愛情だったのかも知れないし、或いは恐怖心からくる依存を求める心だったのかも知れない。どちらも、正しいと言える。可奈子もまた、そういうものだったのだとすれば、言い分にも多少は頷けた。
黒沢の児童養護施設には、多くの子供が居る。生まれて間も無く捨てられた子も居れば、壱や可奈子のように精神的肉体的虐待を受けた子も多い。そして後者の子供の方が、不思議と両親を求めるのだった。子供にとって、苦痛や恐怖から逃げ出す先は、親しか居ないからだ。
「でも、貴方が来て、皆と色々な話をして、コンクールまでやって。きっと私は、吹奏楽部の皆には、少なからず、愛されたと思う」
「そうだね。誰もが、君の事を好きだと思う」
咲は言うに待たない程可奈子にべったりであるし、若菜はそもそも敵愾心というものを持ち辛い性格だ。ユキだけが最初は可奈子を敵視していたような所があったが、しかしそれも丸くなれば強力な味方になってくれていた。そんな単純な物に、可奈子は気付くようになって、結果父との関係が恐ろしいものであると理解した。
「皆、良くしてくれた。けど、もう吹奏楽部には、居られない。楽器も持てないフルート奏者なんて、認められないわ」
「そんな、フルートが出来なくなったからっていきなり冷たくなるような子らじゃないよ」
「そうかも知れない。けど、私にとってフルートは、言葉みたいなものだから。あれが無いと、私は居ないも同然だから。フルートが、一番最初に、私を認めさせるためのものだから」
人に話す言葉を多く持たない可奈子にとっては、演奏の巧みさが先ずもって挨拶のようなものだった。それは、壱にとってもよく解る感覚ではある。人付き合いを避けて、しかしサックスが上手いからと重宝されてきた所のある中学生時代にもしも楽器が出来なくなっていたら、再び壱は自分の殻に閉じこもっていただろう。それでも壱には優しい家族が居るから、それなりに立ち直る機会はあったかも知れないが、可奈子は今フルートまで失って、何も残っていない。
「どうしたらいいと思う?」
だからそういう言葉に答える方法が、壱には無い。自分は持っているものが多く、可奈子は今しがた全て無くなってしまった。その差は何かで埋められるほど浅くはない。
それでも、壱は口を開いた。
「昔アインと、物を示すように呼ばれてた子が居たんだ。ドイツ語で、数字の1の意味なんだけどね」
「……」
「その子は父親1人に育てられた。母親は出産に耐え切れず、死んでいたから。だから父親は、一生懸命になんとか働いて、自分が食うべきものを減らしてアインに食わせたりして、それはもう苦労をしてた」
突然喋り始めた壱を見て、可奈子は体ごと向き直る。
「まあ貧乏だったわけでさ。盗みをやるようになったんだよね、アイン君。親父は画家だったから、その画材なんかも盗んだ。その時は、凄く怒られもしたけど、アインは親父が好きだったから、なんとかして喜ばせたいと思った。食い物なんかは、苦々しい顔をして、それでも腹が減ってるもんだから食ってくれたし、酒なんかは特に好んでた」
「うん」
「そういう生活がアインが物心ついて2年ぐらい続いた頃かな。疑問に思ったんだよね、アインは自分に母親が居ない事に。だから聞いた。お母さんはどこなんだ、って。そしたら、親父はとうとうキレた」
「……」
「触れられたくない話題だった事もあったんだろうし、親父にしてみればアインが自分の妻を殺したようなもんだっていう被害妄想もあったんだろう。アインをベッドに縛り付けて、画材にあったペイントナイフで何度も腹を切り裂いた。お腹を痛めた妻の復讐だと言わんばかりにね」
言いながら、壱はシャツのボタンを下から3つ外して、前を開いた。可奈子の目が釘付けになるのが解る。
腹筋の上に、冗談で落書きをしたように、肌よりもいくらか薄い色の直線が、幾重にも並んでいた。時に垂直に交わり、斜めに交わりしながら、脇腹の手前辺りまで、縦横無尽にそれは広がっている。消えなくなった、アインの傷だった。
「怖かったし、痛かった。でもアイン君はそれでも、親父が好きだった」
「どうして?」
「それは君にも解るんじゃないかな」
「……」
「うん、親父なんだよね。どうしたって、何をされたって、子供にとっては親父は親父なんだ。お袋も同様。親だけが、子供にとっては無条件の存在なんだ」
可奈子は小さく頷いて、傷跡から目を離した。視線が交わる。
「黒沢君も」
「言ったろ、仲間意識みたいのもあったって。君の傷跡を見た時に、自分を見てるような気になったもんさ。逃げ出したくないのかと聞いて首を振ったのを見て、やっぱりそうだろうなとも思った」
「それでも、お父さんが、好きだったのね?」
「不思議とね。まあ、お蔭様でトラウマついちゃって、刃物見るとおかしくなるんだよね俺。ホラ、前に若菜嬢がケーキ買ってきたでしょ? で、ナイフが無いからって取りに行った。そこから逃げるように飲み物買いに行ったの、憶えてるかな」
「憶えてる」
珍しく可奈子がしつこく話を聞きだそうとした時の事だ。あの時の彼女の目ざとさには内心驚いたものである。
「うん、そういう病気も持っちゃった。けど、俺は今実の親父に会えたとして、やっぱり本気で憎めるとは思えないんだ。だから、可奈子が父親に愛されたかった、っていうのも解る様な気はする」
「そう」
「君が生まれてきたのは、やっぱり何かしら望まれたからなんじゃないかと思う。俺にしたってそうさ。でも色んな不運が積み重なってこの有様になった。アンラッキーだね」
「アンラッキーな、だけ?」
「勿論駄目人間の意図もある。どう考えても、血縁が無かろうが有ろうが、子供を無闇に引っ叩くのはクズのやる事だよ。それでも、そうしないと収まらない物を抱えた人だってやっぱ居る」
若い夫婦の離婚が多い昨今ではあるが、それは翻って子供を強制的に片親にしてしまうという事でもある。かつてはそれが許せないと思っていた時期もあるが、どうしても割り切れない事態というものも存在するのだ。だから容認するというのではなく、それはやはり、壱が口にしたように、不運の一言で表現するしかないのかも知れなかった。
「可奈子は今、父親が憎いかい?」
「……わからない。何をしたいとも、思わないし」
「ま、その曖昧さは多分正しいと思う。家族なんてそもそもが曖昧なものだし。形さえ整えば家族って言い張れるしね」
「黒沢君は?」
「俺は今目の前に実の父が出てきても、やっぱ憎めないんじゃないかなぁ。色々知恵がついてきちゃって、同情する余地も生まれたのが大きいんだろうけどさ。それに、俺には今、俺を拾って大切に育ててくれた家族が4人も居るし」
「……」
「可奈子は今どうしたらいいか解らないって言った。うん、それはそうだろう、俺も家族とサックスが無くなったら、下手すりゃ死ぬしかないと思うもん」
「うん」
「でも本当に何もかも無くなっちゃったかっていうと、そうじゃないと思う。今の可奈子には、人に愛されたり優しくされたりした経験があるじゃない。それを、他人に向けてあげる事は出来ると思う」
「どうして?」
「殴られた事のない人に、殴られる痛さは解らないから。今の君は、誰よりも優しいと思うよ」
そんな事で、今の可奈子の空虚な心が埋まるとも思えなかった。思えなかったが、彼女を繋ぎ止めるには何かが必要だった。壱にとってはそれは最初兄であり、次いで家族で、そしてサックスだった。
「だからこういう事を言うのは卑怯なんだろうけど、俺を好きになってもらう事は出来ないかね?」
「……」
「いや、今すっげえ恥ずかしい事言ってる自覚はあるからそんな驚いた顔しないで……」
「ごめんなさい」
「フラれた!?」
「あ、そうじゃなくて」
言いかけて、可奈子は黙った。
突拍子も無い事だと思いながら、反面、壱にとっては偽らざる気持ちでもあった。何もかも無くなってしまった、と思い込んでいる今の彼女に、自分がしてやれるのは、かつて黒沢の家族がしてくれたような無条件の愛情を注ぐことぐらいしかない。そしてその上には、相対する愛情もまた必要だった。一方通行だけでは、このやり取りは成り立たない。実の血縁者であれば無条件でやり取りされる愛情も、他人同士ではこうも壁が多いものになる。それは、桐田咲の顛末でも何度も思った事だった。
珍しく気持ちの良い風が室内を通った。可奈子の髪が緩く揺れる。
「家族に1度絶望したのは、俺も君も一緒だった。違うのは、俺には今黒沢っていうあったかい家族がある事で。だからそれを、君にもいつか味わって欲しいと思う」
「それが、私が黒沢君を、好きになる事?」
「俺だけ片思いじゃしょうがないじゃない。そう、もっと簡単に言えば、俺と家族になろう」
「……」
「勿論恥ずかしい事を言っている自覚はあるから目を丸くしないで頂きたい」
「ごめんなさい」
「フラれてないよね!?」
「あ、うん」
「もし本当に、自分には何も無いと思い込んでるなら、考え直して欲しいね。君には吹奏楽部に友達が沢山居るし、ベタ惚れしちゃってる俺も居るよ。鬱陶しいと思われたらアウトだけど」
「そんな事は」
「どうだね」
「……私は、貴方を頼りに思う、けど」
「それを続けてくれないかね? とりあえずは愚痴をこぼす相手だって、俺は喜んで引き受ける」
「私は」
言いかけてまた黙り、右手の包帯をそっと撫でて、可奈子は蚊の鳴くような声で、答えた。




