10
簡単に焼いたパンやストックしてあったカップスープを、座卓に向かい合って食べた。その間殆ど無言だったが、可奈子も壱も特別居心地が悪いというわけではなく、むしろ落ち着いた雰囲気だった。
「手は痛む?」
「うん」
「まあ、そうか。昨日の今日だしね」
左手だけで器用に食事をする可奈子の表情は特に動きはしなかったが、それでも言葉通り痛みはあるのだろう事が、額に薄っすらと浮かんだ汗で解る。
「あ、そうだ。保険証とか無いんだよね」
「そうね」
「参ったな。まさか家へは行けないし……」
「黒沢君、学校は?」
「馬鹿言っちゃイカンよ。君を置いて行っても2秒で帰ってきちゃう」
「2秒で」
「そうとも。カップスープより早いぞ」
「本当に、迷惑かけて」
「迷惑だと思ってたら、君が寝る前に追い出してるよ」
「……そう言ってくれると、多分解ってたから、来たのかもね」
「ま、便利に使っておくれ。俺はそれでも嬉しいから」
食事を終え、座卓を片付ける。その間、可奈子は見るともなしにテレビに目をやっていた。別段面白そうなニュースも流れていないが、気は紛れるのかも知れない。
どうしたものか考えて、思い浮かんだ事を口にしてみる。
「お鶴さん」
「うん」
「お鶴さんと呼ぶのは実は結構嫌なんだけど」
「どうして?」
「だって鶴岡だぜ?」
「そういうもの?」
「そういうもの。なので名前で呼んでもいいかしら」
「別に、呼び捨ててくれていいわ。その方が、言われ慣れてるし」
横座りでテレビに向けていた体はそのままに、首だけで振り返って可奈子はそんな事を言う。意外と勇気が要る事だなと思いながら、壱は頷いて続けた。
「じゃ、可奈子……うわ、なんだこれ、結構不自然かつ微妙に幸せ」
「そう」
「そうだ、ええとね。御堂さんを頼ろうと思うんだけどどうだろう?」
事ここに至って、今すぐに頼れる相手となれば御堂教諭くらいだろう。薫子に、というのも考えたが、どことなく反発が心中にあるのに気付いてそれは後回しにすると決めた。
壱の言葉に可奈子は1つ頷いて見せる。
「そっか。じゃあ俺は一旦学校に行ってくるけど、部屋からは出来れば出ないでね。人が来ても居留守を使って」
「どのぐらいで、戻る?」
「30分ぐらいかな。御堂さんなら話は通じると思うし」
「待ってる」
「うん」
そんなやり取りで、壱は部屋を出た。私服のまま月曜日の学校へ向かうのは中々冒険ではあったが、そんな事には構っていられない。走って裏門から校内に入り込み、人目を避けながら保健室へ。幸い、まだ朝の早い時間であっても御堂教諭は在室していた。
「失礼します」
「なんだ朝から……黒沢か。私服で何してるんだお前」
「ちょっとお願いしたい事が」
「何?」
壱が制服も着ないで来た事で、ある程度御堂教諭は異常を察知したようだった。とにかく入れと急かし、廊下に首を出して人通りを確認してから、鍵を閉める。
「なんだ」
「お鶴……ああ駄目だな、口癖になってる。可奈子が学校に来てない話は勿論ご存知ですよね?」
「それは知ってるが、可奈子と言ったか。どうした、何かあったか」
「まあそれは道すがら。ともあれ、助けて頂きたい事があるんです」
色々と疑問はありそうだったが、御堂教諭は頷いて先を促してくれた。
可奈子のこれまでの顛末を掻い摘み、結果逃げ出してきて今自分の部屋に居る事。同時に、最大の問題である彼女の右手の負傷を告げる。
「折れてから時間は?」
「昨日やられたと言ってました」
「……まずいぞ、折れた骨に肉が巻くには十分な時間だ。今はお前の部屋なんだな?」
「はい。あ、それで着替えなんか簡単なものでいいので、あれば」
「制服の余りがスカートだけはあるな。あとはまあ……私のシャツを着てもらうしかないか。よし」
言うなり、御堂教諭は白衣をベッドへ投げ捨てて、衣類や手荷物を強引に鞄へ詰め込んだ。ポケットから車のキーを取り出し、ついて来いとばかりに壱の肩を叩きながら廊下へ出て行く。慌てて、その後ろを追った。
御堂教諭の車は裏門に停めてあった。走りよって乗り込み、即座に発進。
「あの、御堂さん学校は」
「来月の査定が怖いね」
「……カッコいいなぁ」
「で、鶴岡とは?」
「俺が鶴岡とは呼びたくないと言ったら、名前で良いと言ってくれまして」
「とんだ仲良しカップル爆誕だなおい」
「そう思います?」
「ジェラシーだ。娘を取られた気分だ」
「娘て」
「それにしても、虐待はそこまで酷くなってたんだな」
クーラーを調節しながら、御堂教諭はぼそりと言った。事態を説明するに当たり隠すことは出来ないだろうと、可奈子が今に至るまでの多くを語らざるを得なかったが、流石に御堂教諭は彼女の置かれた立場を知っていたらしい。
「ご存知でしたか」
「汗なんかを拭いてやる時にな」
「そうですよね」
「責めるか?」
「いや、限界はあるんだと新田先生に言われたばかりですし。なんか、そういう事例の話を聞いたばかりでもありますし」
「そうか」
「あ、すいません今の所右です」
「おいしっかりナビしろよ」
言われるままに、改めて進行方向を告げる。思っていたより早く自宅へ戻る事が出来た。先に立って、部屋の扉を開く。
「ただいま」
声をかけると、中には下着一枚でベッドに座る可奈子と目が合った。救急箱を目の前に広げている辺り、他の傷の手当てでもしていたのか。
「うお、すいませんマジで!」
叫ぶように扉を閉める。痣や傷跡も多く目に入ったがそれ以外の白すぎる程に白い肌が、目に焼きついて離れない。
「どうした黒沢」
「や、お着替え中で御座いました」
「ラッキースケベとは、正に主人公だな」
「何の話っすか」
「とりあえず、悪いがそこで待ってろ」
入れ替わりに御堂教諭が入って行き、何事か話しているのが扉越しに伝わってきた。漸くやる気を出し始めた残暑の太陽が、じりじりと壱を責める。
暫くして、御堂教諭が可奈子と一緒に出てきた。にやにやと厭らしい笑みから来る視線と、やや咎めるような視線の2つに晒される。着替えを済ませたものの、スカートはまだしもだぶついたボタンシャツが少し可笑しかった。
「よし病院だ。保険証は、去年の旅行の時にコピーを提出して貰ったものがある」
「やっぱ御堂さんを頼って良かった」
「さてと」
壱の賛辞を無視して、御堂教諭は可奈子を先に後部座席へ押し込んだ。不思議に思っていると、反対側へ回れと言われる。
「鶴岡、右手を出せ」
「はい」
掲げられた右手を、眉間に思い切り皺を寄せてあちこちから眺め、1つ舌打ち。
「今から骨を伸ばす。痛むから、大声を上げてもいい」
「……」
「黒沢は鶴岡の体を押さえててやれ」
「あ、はい」
それでか、と納得しながら、壱は可奈子の背中側から、そっと肩に手を置いてみた。可奈子が、肩越しに振り返ってじっと見てくるので、なんとなく見詰め合ってしまった。罵声。
「そんなんで押さえてる事になるか。がっちり行けがっちり。甘い雰囲気出してんじゃない」
「すいませんつい」
慌てて、可奈子の鎖骨辺りに腕を回し、背後から抱きすくめるようにした。あまりにも細い線にぞっとしていると、可奈子の左手が頼りなさげに壱の袖を掴んだ。
「いくぞ」
可奈子がぎゅうと目を閉じ、同時に御堂教諭は2本の指を抜き取らんばかりに強引に引っ張った。可奈子の体が強張って逃げそうになるのをなんとか押さると、代わりに硬く引き結ばれた唇から小さな呻き声が漏れる。時に力を緩めて指先を確認し、再び引っ張るという事を何度か繰り返し、終わった時には壱までも汗をかいていた。
「とりあえずは、これでいいか」
鞄からプラスチックの添え木らしいものを取り出して包帯と一緒に結びつける。肩で息をしている可奈子を見て腕を離そうとすると、彼女の左手がそれを拒むように引っ張った。またにやにやとし始める御堂教諭。
「よし、病院へ行こうか。黒沢はそのまま抱いててやれ」
「はぁ」
「いいねえ全く」
笑いながら運転席へ回り、御堂教諭は車を出した。漸くクーラーが汗を引かせ始めた所で、可奈子から文句。
「痛かった」
「そりゃ、痛いだろうねえ……」
「貴方の腕の方が」
「マジで」
「苦しかった」
「すいません」
シート越しにも、御堂教諭が肩を震わせて笑っているのが解ったが、ともあれ大変な役得を有難うと内心礼は言っておいた。
病院へ到着し、診察室から可奈子が戻ってくるまで、御堂教諭と共に休憩所で待つ事になった。
「もう少し、詳しい状況を説明してくれないか?」
「はい。つっても、今朝話したことが殆どですよ。どういう訳かは別として、ここへ来て可奈子は逃げ出したいと思った」
「……多分それは、お前らの所為なんだろう。勿論、良い意味で」
「そんなような事は言ってましたね。人の気持ちがいくらか解る様になって、だから痛いという事も認識するようになって」
「結果はこうだったが、しかし、大したもんだなお前は」
「俺達は、ですよ。どっちかというと」
「真っ先にお前を頼ってきたじゃないか」
「他の家を知りませんしね、あの子」
「照れ隠しが好きだなぁ黒沢」
「うるさいやい」
からからと笑い、御堂教諭は缶コーヒーをぐいと呷った。
可奈子の感情や心情はさておき、今彼女は極めて大きな転機に差し掛かっているという事だけは解る。壱にとっての黒沢との出会いがそうであったし、続いてサックスとの出会いがそうであったように、鶴岡可奈子は今まで目を瞑ってきたものを漸く取り入れようとし始めている。
それが良いか悪いかは別だったが、少なくとも自分の好きな女が日々暴行を受けているぐらいなら余程良いというのだけは確かだった。
「黒沢」
「はい」
「舞い上がってる所わるいけどな。ある程度、覚悟はしとけよ」
「……指ですか」
「戻らんだろう、あれは」
それだけは、ひょっとすると生涯後悔する事になるのかも知れないと思えた。ほんの1日だけ早く動いていれば、何もかも上手くいったかも知れない。もし、と考える事にそれ程意味があるわけではなかったが、しかし忸怩たる思いは決してこの先消えないだろうという予感はあった。
「そうですね」
「お前が、傍に居てやらないとな。さっきの頼りっぷりを見て別人なんじゃないかと思ったよ」
「あれはとても嬉しかったです」
「感謝しろ」
「既に」
「よし」
可奈子が暗い表情で戻ってきたのは、それから30分程経ってからだった。




