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呟きとメヌエット  作者: camel
襤褸のアクション
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 薫子との話を終えて、帰宅すると、壱はすぐに拓へ連絡をつけた。また忙しい時間帯を選んでしまっていたが、拓は多少の文句を吐き出しただけで応対してくれる。

「何か変わったか」

「うん、かなり良い感じかも知れない」

 言って、壱は薫子の話を全て伝えた。

 鶴岡が楡原と連なる所から、警察には任せられないという彼女の主張、同時に代替策とも言うべき大仰な開放策。

 流石に拓も面食らったようだったが、少しばかり沈思して、良しと返してきた。

「どこにどういう縁が転がってるか解ったもんじゃないな」

「本当に。でもこれ、凄く現実味があると思うんだ」

「そうだな。事を大きくしたくないという意図があるんなら、全て穏便に済ませられるだろうし。それはいつごろ?」

「なんか今日決めた、って感じだったよ」

「わざわざお前の耳に入れにきてくれたってか?」

「そうなるのかな」

「大したコマしっぷりじゃないか」

「いやいやいや、真面目な話の最中だからな今」

「ともあれ、条件は揃ったわけだ。お前はどうする?」

「勿論鶴岡……じゃないや。可奈子さんのフォローをするよ。何が出来るか、っていうか何も出来ないかも知れないけど」

「それでいい。思ったとおりにやれ。困ったら、いつでも言って来いよ」

「本当に有難うな、拓さん」

「なに、弟の女の為だ」

 軽くそう言って、拓は忙しげに電話を切った。携帯電話を放り出し、ベッドに横たわる。

 上手く行くだろう。そう思えば、眠りは早かった。それ故か、寝耳は冴えていたらしい。

 ふと、物音が気になって目を覚ました。カーテンの向こうはうっすらと明るく、もう1度寝なおそうと寝返りを打つ。しかしまた、物音が聞こえて、仕方なく体を起こした。更に物音。扉をノックしているのだと気付いた。

 時計を見ると、まだ早朝の5時にもなっていない。苛々を顔から消さず、大股に玄関へ。

「なんだよ」

 言いながら扉を開けると視界にはすぐに何も入らず、少し下げて、人の頭がようやく確認できた。

 黒い、ウェーブのかかったロングヘア。その下から、これも黒々とした双眸が、見上げてきていた。

 鶴岡可奈子。

「……お鶴さ」

 言いかけた所で、可奈子は片手を伸ばし、壱のシャツを引っ掴んだ。顔を俯け、肩を震わせ始める。

「今まで何を」

「ごめんなさい」

「え?」

「ごめんなさい……」

 そこまでで、可奈子の声は涙混じりになってしまう。何か、胸を抉り取られたような、手に負えない気持ちが競り上がってきて、壱は思わず体を屈めて彼女の背中を引き寄せた。

 扉を閉める。

「とにかく、上がって……って裸足?」

 改めて見てみると、可奈子は寝間着のような薄手の服を着ている。それはまだしも、裸足であり、またその足首や脛の辺りにはいくつも擦り傷のようなものが並んでいる。新しく出来たものだろうとすぐに解るそれで、可奈子がどういう経緯でここに居るのか、なんとなく理解出来たような気がした。

 玄関から上げようと腕を引くと、少し躊躇うような仕草を見せて、しかし可奈子は従った。転校してくる際に一緒に持たされた救急箱を探し出し、消毒液やら絆創膏やらを引っ張り出す。

「汚くて悪いけど、そこに座ってくれるかい」

 頷いて、可奈子は抱いていたフルートを傍らへやりながらベッドへ腰掛けた。右足を両手で軽く持ち上げると、びくりと体を縮めてから、ほっとしたように預けてくる。土がついている足の裏を拭い、消毒液を吹きかけ、大きなものにはガーゼと包帯を巻いていく。もう片方の足はそれ程でもなかったが、やはり土を落とす為に持ち上げ、そこで異常に気付いた。

「お鶴さん、足」

 右足首の方が、腫れている。翠が昔部活中に捻挫をしたのを見たことがあるが、それと同じ症状だった。

「どうしたんだよ、本当に」

「窓から、降りた時に」

 漸く開いた口からは、そんな言葉が出た。以前見た鶴岡の家は2階建てだったが、あそこから飛び降りてきたという事なのだろうか。普段の彼女からは想像も付かないものだったが、それだけに切羽詰った状況だったのだろうとも思う。

 足首には湿布を貼って、少しきつく固定した。

「これでいいかな。きちんとした手当ては学校に行ってからでも……って、駄目か」

「……」

「逃げてきたんだよね、あそこから?」

 頷かれる。安堵で、大きな溜息が出た。薫子の考えはこの後に遂行されるとして、それはそれで構わないだろう。今こうして目の前に彼女が居る事が、壱にとってはたまらなく嬉しいのである。

 だが、舞い上がっていられたのは、それまでだった。

「あれ、右手……」

「黒沢君」

「うん?」

「ごめんなさい」

「さっきも謝ってたけど」

「フルート、好きだと言ってくれたのに、出来なく」

 言いながら差し出された右手を見て、目の前が真っ赤になった。まるで、体中の血液が頭に全て集まってきたような気分だった。

 ヘアバンドを包帯のように巻き付けた指先は、中指と人差し指の中ほどが赤黒く変色していて、だらりと重力に従って曲がっている。一目見て、折れているのだと解った。

「こんな」

「……ごめんなさい」

「やったのか、父親が」

「昨日、ね」

 頬がびくびくと痙攣する。口の中がざらりと乾き、唾すら飲み込めなくなった舌が口腔に絡みついた。

 気付けば床に拳を叩きつけていた。可奈子が、小さく肩を竦め、それから申し訳無さそうな顔になってしまう。彼女にこんな顔をさせたくないと思っていたのに、それでも現実はこうだった。

 何か。何でも良かった。何もかも、破壊して回りたい凶暴な衝動を、壱は奥歯をかみ締めて殺した。

「病院に行こう。まだ、今日折れたのなら綺麗に治るかもしれない」

「そんな事をしたら、またあそこに戻されるわ」

「大丈夫。俺が、ずっと傍で守る。あの家から誰かが追ってきたら、全員くびり殺してやる。だから、開院時間になったら、すぐに行こう」

 嘘ではなかった。もし今、この部屋に可奈子を追って誰かが来でもすれば、自分は瞬時にその人間を殺すだろうと確信していた。苦しむ間も無く、ほんの一瞬でだ。むしろそうしたいとすら思い始めている。

 可奈子は、壱の言葉に驚いたような顔をし、また眉を顰めた。

「でも」

「このままじゃ楽器どころか普段生活するのも難しくなるじゃないか。悔しいだろ、そんなの」

「……」

「何があったかは、また後で聞くよ。俺のベッドだし、狭いし汚いしで申し訳ないけど、今は休んで」

「でも、私は」

「今まで良く解らなかったけど、俺は君が好きなんだよ。フルートもそうだけど、こっちへ来て知り合った、鶴岡可奈子という子が好きなんだ」

 思わず、そう言っていた。可奈子にとってそんな言葉は何の慰めにもならないだろうが、しかし口は勝手に思いの丈を発し続ける。

「最初は確かにフルートに惹かれたと思う。仲間意識みたいのも、あったかも知れない。でも今こんな風にされた君を見て、もうなんか、どうしようもなくなってきた」

「……」

「まあ、そんなのは今はどうでもいい事だけどさ。病院へはちゃんと行こう。頼むよ」

 折れて枯れ枝のようになってしまった指先を労わるように、壱は自分の手で包んだ。桐田咲が昔、自分と話をする時もこうしていたのをよく憶えている。

 暫く黙って、可奈子は左手を壱の手に重ねて、頷いた。両目を再び涙に滲ませながら、口を開く。

「ありがとう」

「今は湿布だけ貼っておくよ。痛むなら、頭痛止めが多少は効くと思う。疲れてるだろうし、もう眠って」

 壱の言葉に頷いて、可奈子はベッドに横たわった。首だけを向けて、また礼を口にし、そしてすぐに彼女は眠りに落ちる。

 寝息が規則正しいものになった頃、壱は携帯電話で近所の外科を探し、開院時間を調べ、メモをした。そしてすっかり冴えてしまった目で、可奈子の寝顔を見る。いくらかやつれたように見えるのは、気のせいではないのだろう。

 遅かった。ほんの少しだけ、遅かった。壱が思ったのはそこだった。ぐだぐだと無い知恵を絞っていないで、とっとと鶴岡の家の門なり塀なりを乗り越えて可奈子を奪ってくれば良かったのだ。そうしていれば、結果など後からついてくるに決まっていた。警察を入れられないという薫子の言は解るが、しかし大っぴらにしてしまえば彼女の解放などすぐに出来ていたのだ。

 しかし実際はこの有様だった。こうして目の前に居てくれる事がせめてもの幸いだったが、可奈子は今最もポジティブなものであるフルートを奪われてしまっている。病院へ行ってどうにかなるのなら良いが、あんな下手な折れ方をしてしまっているのでは、元通りにはならないかも知れないのだ。その時の可奈子の胸の内を想像するだけで、壱は涙が止まらなくなる。

 どうすればいいか、考え続けた。何も答えなど出て来ないうちに、太陽はすっかり昇り、安物のカーテンでは室内に入り込む明かりを遮断出来なくなり始めていた。

 可奈子の額と頬に薄っすらと汗が浮かんでいるのを見て、壱はまだ使っていなかったタオルで拭う。痛むのだろう、眠りながらも右手を庇う様に体を曲げて、眉間には小さく皺が寄っている。こういう子に、何故これ程までの事が出来てしまえるのか。

 人間は本来残酷な生き物なのだ、と拓が哲学的な話と共に口にした事がある。生きる為に不要でも人を傷つけたり殺したり出来る人間は、ともすれば地球上で最も残酷である。だから、理性があるのだと。

 その理性を、壱はしばしば失う。心の病だと言ってしまうのは簡単だった。だが何であろうと、壱はかつて敬愛する先輩を傷つけ、それより以前には自分を暖かく見守ってきてくれていた兄のその眼を奪った。理性など、何が切欠で無くなるか解らない。笑い話のように扱われる、「カッとなってやった」という表現がどれ程的を射ているか知っているのは、自分のような人間だけだろう。

 だから、そんな残酷さに突然牙を剥かれた人間は、所詮こんなものだ。拓程の運動神経を持つ者は目を失ったし、自分を無条件に信頼してくれていただけに桐田咲は危うく暴行を受ける所だった。そういうものに、可奈子もまた襲われた。理不尽以外の何物でもない。

 何より、壱もまた、会った事もないが可奈子の父が目の前に出てくれば、殺してやろうと思うだろう。実際にそうするかは別として、思いは今そこにある。

 言葉で、力で傷つけ合い過ぎるから、理性が感受性を持つのだとも拓は言い、だからお前のサックスは良いんだろうな、とも付け加えてくれた。

 可奈子のフルートがたまらなく壱の心を掴んで離さなかったのは、彼女にもまたきっと、表に出せない、しかし真摯で綺麗な気持ちがあるからだろう。そしてそれを覆い隠し続けてきた現実が、可奈子の右手を奪い、そんな彼女の感情を発露する機会も奪って行った。

 長く溜息が出る。同時に背筋を伸ばすと、背中が乾いた音を立てた。

「黒沢君」

 声に驚いて、可奈子を見る。枕に少し頬を埋めたような格好のまま、可奈子は左手を伸ばしてきた。

 思わず、握る。握ると、可奈子はふっと微笑んだ。

「私は、変わったわ」

「変わった?」

「今までは、他人に興味を、持たなかった。フルートで、時間が潰せれば良いと、思い込んでた。でも、部活がまた始まって、貴方に振り回されて、臼井さんや柴崎さん、菱沼さんとも話して」

「うん」

 途切れ途切れに、しかし懸命に何か伝えようとしてくる彼女の手が、微かに力を加えてくる。

「あれから。コンクールの後から、父の殴打が、痛いと感じるようになった。どうしてか、考えて、解ったわ」

「どうして?」

「今の私は、皆に、良くされてる。色んな形で、色んな気持ちを、向けて貰ってる。今までは自分を殺せば、痛いなんて感じなかったけど、今は皆の気持ちを察するように、なったから」

「それで、自分を殺してばかりも居られなくなった?」

 壱が言うと、満足げに可奈子は頷く。

 それは正しいだろう、と思えた。壱もまた、実の父によって腹を何度も切り裂かれている間、自分の感覚全てを閉ざしてしまうという人間離れした行為によってそれを凌いでいた。しかし今もし同じようにされたら泣き叫ぶだろう。壱の体は既に自分1人の物ではないし、多くの痛みも知ってしまったからだ。

 可奈子も部員達と触れ合う間に、徐々に自分を出してくるようになった。それは良い事だと、御堂教諭も口にしていた。そして、翻ってそれは、可奈子に非現実的な虐待という行為に対しての痛みと恐怖を呼び起こさせた筈だ。

「だから、ここに来たの。ごめんなさい」

「いやそれは全然いいんだ。むしろ、来てくれて本当に嬉しかった。誰よりも、俺を頼ってくれたって事だよね?」

「他の人の家を、知らないしね」

「……そこは素直に喜ばせておくれよ」

 不貞腐れたように壱が言うと、可奈子もまたくすくすと笑う。こういう笑顔を、ずっと見て居たかったと、壱は何かに教えられたような気分になる。

「ま、いいか。病院が開くまでまだ少し時間があるよ。眠ったら?」

「ううん」

「そっか。じゃあ、何か食べる?」

「ごめんなさい、本当に」

「好きな子に優しくするのは当然じゃないか。まあ、パンとかしか無いんだけど」

「黒沢君」

「なんだね」

「会いたかった」

 言われて、一気に顔が熱くなるのが解った。

「それは、うん。嬉しい事言ってくれるじゃないか」

 照れ隠しにそう言いながら立ち上がり、壱はキッチンに立った。目をやって、自分のベッドに寝間着で可奈子が座っているという現実に、漸く狼狽し始めた。

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