8
手を洗って廊下へ戻ると、使用人と目が合った。即座に逸らされるそれにも、特に感慨は無い。
並んで自室まで戻り、可奈子が中に入ると、扉の向こうでがちゃりという重い音がした。勝手に部屋を出入りさせないためである。
中学校へ上がった最初の夏休みと、高校へ上がる直前にもあった。更に遡ると、小学生の頃にも1度あった。自宅からの出入りを完全に遮断され、日に父から何度も呼び出されては、暴力を受ける。この数日程で、随分と新しい傷が増えたものだった。袖をまくり、肘の辺りについた杖の擦り傷にガーゼを当てておく。化膿でもすれば、場所が場所だけに酷い事になるだろう。
時計を見ると、18時になろうとしている頃だった。そろそろ、食事が運ばれてくる。内容は普段と変わらない辺り、父は継続的にこれからも自分を生活させ、かつ暴行の対象にしようというつもりなのだろう。そんな事は、随分前に確信している。だから、それ程辛くない。
辛くない筈だったのだ。
吹奏楽コンクールは、上手く行ったと言っていいだろう。最後の最後でアドリブなどをしてしまったが、あれも思い返せば「つい」というやつで、当初はそのつもりも無かった。これで終いだと思えばそんな遊びもしてみたかったという所だろうか。
そして壱は目ざとくそれに気付くと、相槌を打つように乗ってくれた。そんな事が、たまらなく嬉しかったのだ。
だから、もう何も望む物は無い。壱にもそう伝えたし、事実そう考えていた。それでも、不意に思い出すのは、疲れたようなユキの、それでも楽しそうな笑顔であったり、不安げな顔をしながらもぴしりと背筋を伸ばす若菜であったり、全快こそしていなくても持ち前の明るさを見せ付ける咲であったりする。昨夜も、寝る前に部活中の出来事を1つ1つ思い返している自分を発見して、驚いたものだった。
父の様子がおかしくなったのは、壱が里帰りから戻ってきた翌日辺りからだった。自分を見る目にどこか今までに無い色を感じたのが最初で、次第に可奈子の不在を、それが例え部活動に時間であっても苛立つようになったのである。
そもそもが、狂人なのだと可奈子は考えていた。本当に、意識的に虐待という行為を行いたいのであれば、可奈子に部活動など認めはしない筈である。それを、半ば黙認のような形にしていたのは、既に父の脳が現実を理解できなくなりつつあるからに違いない。唯一の味方であった姉も、今では可奈子を認識する事も殆ど無く昏睡と起床、食事を繰り返すだけの存在と成り果てている。或いは、こうした自失の症状は、鶴岡の血統なのかも知れなかった。
しかして父は、鈍い頭で漸く可奈子が居ない時間の長さを認識したという所だろう。ひょっとしたらコンクールに参加できないかも知れないという言葉を壱は真っ向から否定してくれたが、それにしても間に合って良かったと今でも思う。父が玄関で待ち構えていたのは、コンクール終了後の夜だったのだ。
以来、厳重な監視の下、可奈子は気紛れの呼び出しに応じて父の元へ向かい、杖で叩かれたり足蹴にされたりする。
それに対して、不意に、可奈子は激甚と言っても良いような痛みを感じた。おかしな事だと何度も考え込んだのだが、しかし現実に、可奈子の体はあちこちが痛む。今までも痛いなりに痛い、というような曖昧な痛覚は存在していたが、それが露骨になってしまったという所なのか。
幸い年を経て父の膂力もそれ程ではない為に骨などには異常は無さそうだった。中学生の頃に背骨を破損し、以来背が伸びなくなった過去もあり、これだけは素直に喜んで良いだろう。そして、何が喜ばしいのか、と自嘲気味な気持ちと共に内心で混ぜっ返すのだった。
ノックがし、食事がワゴンで運ばれてきた。机の上にそれらを並べると、使用人は目を合わせずに出て行こうとして、たまりかねたように口を開いた。
「ご友人が、昨日お見えでしたよ」
「……」
昨日の事だったが、それでも教えてくれた事は、意外だった。これまで可奈子を訪ねてくる人間など居なかったというのもあるが、使用人が、父によって可奈子が出入りを禁じられている時期にこうした言葉を発したのは初めてではないかと思う。
「そうですか」
「男の方だったようで」
「……」
「失礼」
そして、出て行った。男というなら、壱しか居ないだろう。顔を思い浮かべて、込み上げてきそうになったものに、全力で蓋をした。
食事に手をつける。味は特にしない。味覚に障害があるわけではなく、そういう気分ではないというだけである。
19時を回り、20時を過ぎた辺りで再びノック。今度は声すらかけず、使用人は扉の向こうから体を半分に開いて見せた。また、癇癪のように「可奈子を呼べ」ときたのだろう。彼らの苦労も中々のものだと思う。
廊下を進み、建物の一番奥にある父の部屋へ入るなり、分厚い本が飛んできた。背を向けて、それを受ける。
「こっちへ来い」
叫ぶような声に黙って従った。珍しく椅子から立ち上がっている父は、杖を落ち着き無く床に何度も突き付けている。そして可奈子が杖の届く距離に入った瞬間、振り上げ、二の腕に叩き付けた。上腕がびりびりと痺れ、勢い余り足がもつれる。そこへ、今度は反対側から杖が来た。
痛い、と思った。言った所で何も変わらないのだから、黙って終わるのを待とうという心構えはまだ年齢が2桁にも達しない頃に身についたものだが、それにしても、痛かった。
杖で殴られる事が痛いし、曲がりなりにも父と目すべき男にこうされる事が痛い。会話の成立しない相手が果たして社会通念上の父と一致するのかどうかは別だが、辛い事には違いなかった。
杖が止んだ。顔を上げると、憤然とした表情で見下ろす父の顔。
「楡原に、何を話した」
言っている意味が解らなかった。楡原というのは、あの楡原薫子の事だろうか。であれば、可奈子は1度不意打ち気味にフルートをやらされて以来、会ってもいない。
「余計な事を」
苛立ちをそのまま声に出し、父は足を伸ばして腹を蹴り上げた。足が萎えたようになって久しい父の蹴りというのはちょっと押された程度の衝撃しかないのだが、それでも可奈子の軽い体を大きく揺さぶるには十分である。
「あのガキが、何を言ったと思う! お前がそう頼んだのか、恩知らずが!」
次々に意味の解らない言葉を発しながら、再び杖が振ってきた。肩から背中へ撒き付く様に痛みがくる。痛い筈など殆ど無かったのに、それでも今可奈子の体は悔しさのようなものと共に痛覚がはっきりと自己主張をし始めていた。
不意に、吐き気が競りあがってきた。そんな馬鹿な、と思う。父を男と認識していないからなのかこれまで恐怖症に根ざす症状が発症した事は1度として無かったのだ。それでも、しかいがぐらりと揺れるような錯覚に陥る。
父が1歩歩み寄ってきた。やめて、と喉まで出かかった。嘔吐を堪えるのに必死で、伸びてきた手に対して身構える事も出来ない。
気付くと、右手を握られていた。視界が白黒する。
「楽器なんかに」
そんな言葉が聞こえた。次に聞こえたのは、体の最も遠い部分でありながら、最も神経の集まっている指先からのみしみし、という湿った音だった。
吐き気が消え失せ、絶叫が喉の奥から弾ける様に出て行った。思わず腕を引き、床を転がるようにして部屋の隅へ走る。扉は開かない。振り向けば、父がにたりと笑う顔があった。
「久しぶりに、お前の声を聞いたな」
なんだというのか。この男は、自分の何なのか。ここまでする事に、どういう目的があるのか。
10年以上に渡って蓄積されてきた疑問が、壊れた蛇口から溢れる水のように次々に出てくる。そのどれも言葉にはならず、ただただ喉を切り裂くように叫ぶ事しか出来ない。言葉にしようとしても、言葉にならないのだ。
「そっちの手も出せ」
咄嗟に左手を背中へ回した。胸倉を掴まれ、無理矢理に立ち上がらせられる。揉み合う暇も無く、左手も取られた。親指以外の全てを、ざらついた手で握られる。
ついさっき堰き止めた吐き気が、今度は抑えきれずに、出て行った。食べたばかりの食事の混ざり合った異臭と、酸っぱい匂いが口腔に広がる。
父が舌打ちをした。興が冷めた、というような事を言い、内線を取る。
次に気付いた時は、自室のベッドの上だった。失神でもしていたのか、しかし全身は汗に塗れていて、思わず体を起こそうと右手をマットに突き、即座に引いた。痛い。
指先を、恐る恐る見てみる。人差し指と中指の関節が紫色になり、手の甲へ向かって反っている。握ろうとしても、その2本だけは一切動こうとしない。
どっと、涙が出て来た。涙が指先に落ち、鋭い痛みに変わる。
フルートが出来なくなった。これでは、キーを押さえる事も、そもそもフルートを構える事すら出来ない。
何故こんな事になったのか、思い返してみた。原因は父であるが、それならば何故自分はこの状況を脱しようと考えなかったのか。壱は「止めさせたいと思わないのか」と過去に1度だけ問うたが、何故それに頷けなかったのか。何を気取って、或いは何に同情して、現状に甘んじていたのか。
今すぐ外に放り出される事への不安。存在するだけで感じる父の恐怖。そういうものは確かにあったのに、慣れてしまった痛みと無気力な己がそれらを覆い隠してしまってはいなかったか。
今更になって気付いた事が可奈子にはあった。要するに、自分はただ何かに許容され、愛されたかっただけだった。
それが、父の慰み物という立場であっても良かった。楽器という新しい世界もまた、優しかった。それは感情の向かうベクトルが違うだけであって、可奈子にとってはどちらへの比重も変わりないものだった筈だ。
父の暴力を受け入れてきたのも、可奈子にとっては「会話」のようなもので、父からのそういう形での感情であろうと、享受したいという思いがあったからだ。自分が、自分に目を開かれるような思いで、可奈子は今の己を省みる。夢にあった、笑顔の人々というのも、或いは夢想した父なのではないのか。
しかし今は心底に思う。以前よりももっと、フルートを吹いていたかった。フルートを吹けば、誰もが称えてくれる。過去唯一と言って良い程敬愛した姉が手ずから教えてくれたものを褒められるのは嬉しかったのだ。だから吹奏楽部という輪に居る事も肯んじられたし、そこはまた可奈子を賞賛する声も多い場所であった。今の部員達もまた自分を受け入れてくれ、壱は少し鬱陶しいくらいに気を使ってくれたり、何くれとなく構ってくる。それは、心の奥では、本当は嬉しいものだった。そしてフルートを愛される事は、可奈子にとっては自分を愛されるのと、相違ない事だった。
だがそれも、叶わなくなった。フルートの無い自分に、今までと同じ環境はもう無い。これまで現状を変えようとしてこなかったその結果は、今出た。
もう自分には何も無いと、不意に確信した。今更とも思うが、父はこうして、自分から最後の喜悦も奪って行ったのである。憎しみなど無く、ただ現実だけが胸を埋める。
涙は止まっていた。どのぐらいじっとしていたのか、体を伸ばすと背中が軋む。窓の外は薄明るく暁を迎える準備をし始めていて、水の底に居るかのような不気味な明かりを灯し始めている。
また、暫く考え込んだ。考えに考えて、可奈子はフルートだけを抱えた。
払暁まではまだ少しある。
クローゼットからヘアバンドを引っ張り出し、強引に握り締めた右手に固く巻きつけた。あまりの痛みに視界がぼやけ、汗も噴出してくる。それをなんとか歯を食いしばって堪え、完遂した。息が少し上がっている。部屋に残されていた水差しに口をつけた。
部屋の扉をノック。返事は無い。
ドアノブを回し、押してみたが、やはり少し開いただけで停まってしまった。戻し、窓に寄ってみる。天井の高い作りになっているこの家の2階は、学校の3階にいくらか欠ける程の高さがあった。
だが躊躇わずに、可奈子は窓を開け放った。風が音を立てて入り込んでくる。視界をまだ暗い木々が埋め尽くし、或いは自分を止めようとしているかのように見えた。
大きく息を吸って、長く長く吐いた。
会いたい人間が、居る。助けを求めたいわけではなく、ただ今、無性に会いたいと思う。これで終わりだと決め付けていた部活動に、また参加する切欠を作った男だ。
何故、とは考えなかった。いつも自分の思いに目を配ってきてくれたのは、1人しか居ない。今彼に会えば、或いは同情くらいはしてくれるかも知れない。彼が好んでくれたフルートはもう吹けなくなったが、たった2日彼が居ないだけで心細かった日を思い出せば、こうして窓に身を乗り出しているのも、当然と言える。
また風が吹き、可奈子の姿は部屋から消えた。




