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電話が鳴っている事に気付いて、体を起こした。日曜日とはいえ、10時過ぎまで眠っているとは壱自身驚きである。昨夜は色々な事を随分と考え込んでしまったために中々寝付けなかったのだ。
液晶画面には楡原薫子と表示されていた。慌てて、思わず居住まいを正し、応答する。
「もしもし」
「ああ、黒沢君。早くからごめんなさいね」
「いえとんでもない」
何故薫子がわざわざ連絡を寄越したのか考えながら、壱は布団をそっと剥ぎ取り、ベッドに腰掛ける。弾んだ声で、薫子は続けた。
「先日のコンクール、素晴らしかったわ」
「いらしてたんですか?」
「勿論。ぎりぎり、貴方達の演奏を聴くだけだったけれど」
「そうでしたか。有難う御座います」
「貴方の演奏も、鶴岡さんの演奏も勿論良かったけど、何より合奏としてレベルが高かったわ。1度ぐらいなら、貴方達をまとめて売り出しても良いかも知れないわね」
冗談めいた口調でそんな事を言いながら、薫子は更に言う。
「それで、コンクールの印象が余りにも強かったものでね。今一度、お返事を願いたいと」
「そうですか。俺は」
高校を出たら、と喉まで出掛かって、やめた。今は、それどころではないというのが正直な思いである。
言いよどんだ壱に気付いたのか、薫子はいくらか神妙な声になって言う。
「やはり決心には至らない?」
「ええ、まあ。図々しい事だとは思っているんですが」
「それは気にしてくれなくても結構よ。簡単に決められてしまっても、困るものね」
「すみません」
「いいえ。そう、もう1ついいかしら? これは出来れば会って話をしたいのだけど」
「会って、ですか」
即座に薫子の顔が浮かんで、いくらか狼狽しそうになったが、それでも薫子程の人間が「会って話したい」とまで言うのだから大切な話なのだろうという事は想像がついた。今日1日、可奈子について何かが出来るとも思えず、それ程時間も取られはしないだろうと考えて、壱は頷いた。
「解りました」
「ありがとう。今丁度、楠台の方へ来ているのよ。それで、折角だからと思って」
「はい。どこへ行ったらいいですか?」
「以前と同じように、駅で」
それで決まり、壱は手早く身支度を整えた。9月とはいえまだ暑苦しいが、多少は見苦しくないような物を選んで身を包み、外へ。駅まではそれ程の距離も無いが、薫子の口ぶりからすれば先に待っている事だろう。いくらか足早に歩道を進んだ。
駅前、タクシー待ちをする為の庇の下に、薫子は立っていた。日傘を手に、いくらか大きなサングラスをかけている。ブルーのノースリーブからは目を背けたくなるような色気があって、それをオフホワイトのスラックスが伸びやかに支えている。遠目にも、注目を集めているのが解った。派手な人ではある。
その後ろで、これもすらりと女性にしては背の高いスーツに身を包んだ才媛といった様子の人間が控えているのだから、セットでちょっとしたイベントのようになっている。この2人にこれから接触するのかと思うと多少の苦笑いも出るというものだった。
ふっとこちらを向いた薫子が、サングラス越しにも自分を見つけたのが解る。駆け寄った。
「お待たせしました」
「急に申し訳ないわね。それにしても、貴方は背が大きいから見つけ易いこと」
「まあ、そのぐらいしか外見の特徴はありませんしね」
手の甲を口に当てて、薫子は小さく笑った。それから、後ろに控えていた女性――夏海にちょっと目配せをしてから、歩き出す。
「穴場のカフェがあるのよ。そこでなら話もし易いわ」
頷いて壱も続いた。楠台は駅前ぐらいはそこそこに賑わっているが、少し民家街方面へ逸れると、すぐに人気も喧騒も大人しくなる。再開発に乗り遅れた町特有のものである。
そんな民家の立ち並ぶ中、昔は商店街として栄えたのであろう旧メインストリートを、薫子に付き従って進む。正直言って場違いにも程がある女性2人だったが、そんな事はお構いなしの様子で、それが却ってシュールでもあった。
時間にして5分も歩かずに、目的のカフェらしい建物の前に薫子は立ち止まる。折りたたんだ日傘を夏海が受け取り、先に店内へ。外見には随分とうらぶれた、雑に表現すれば古臭い建物なのだが、窓枠の装飾や手入れの施されたプランターからは言いようの無い気品のようなものが漂う。
「意外だったかしら?」
「ええ、まあ」
素直に頷くと、また小さく笑って、薫子も中へ。壱も、扉を開いたままにしている夏海に会釈をしながら追った。
店内はそれほど広くなく、2人がけがいくつかとカウンター席が数える程、というものだった。微かにひやりと体を撫でる空調にほっとしながら、店主らしい老境に差し掛かり始めた男性と目が合う。
「ようこそ」
そう言って、にこりと口髭を持ち上げながら笑った顔には好々爺というよりも上品な印象を受けた。本当に意外な場所もあったものだと思う。
薫子に促され、2人がけのテーブルへ腰を下ろした。他に客は無く、確かに話はし易いと言える。
「夏海は少し休憩していて」
「はい」
頷いて夏海はカウンターへ腰掛けると、内ポケットから文庫本を取り出し始めた。その目の前に珈琲が素早く出される。結構な頻度で来ているのだろう事が解った。
「私の弟……楡原康臣の、恩ある方のお店なのよ」
「そうなんですか」
「昔はこちらでアルバイトをされていましたよ」
壱の驚きに、店主がグラスに注がれた水を差し出しながら言う。どこまでも意外の一言に尽きる空間である。
「私はウィンナコーヒーを。黒沢君は?」
「あ、ええと。それじゃあアイスコーヒーで」
「かしこまりました」
足音も無く去って行く店主に見とれそうになりながら、居住まいを正して薫子に向き直る。サングラスを外すと、ぱっちりと大きな瞳とかちあった。
「お話というのは?」
「まあそう慌てないで。良い味の珈琲を出してくれるんだから」
サングラスをテーブルの傍らへやり、薫子は微笑ましげに壱を見る。居心地が悪いというのではないのだが、あまり美人に見つめられ続けても心臓に優しくないのは事実だった。また薫子は、そういう事を自覚してやっている節があるので苦笑いぐらいしか返せない。
折りよく、店主が2つの注文を手にやってきた。ただのアイスコーヒーなのだが、グラスはどこかレトロな、ガラスというよりもギヤマンと言った方が良さそうなもので、そこに黒々とした液体が波も立たずに鎮座している。
ストローを差し、口に含むと、言葉にし難い苦味と甘みが広がった。それ程珈琲などに詳しいわけではないが、これは手放しに美味いと言える。
「美味しいですね」
「だ、そうですよマスター」
「恐れ入ります」
また微笑み、店主は店内に流れていたBGMの音量を少し弄った。それに合わせて、薫子もカップに口をつけ、満足げに小さく溜息。
そして、漸く口を開いた。
「鶴岡可奈子さんの事でね」
言われて、思わず目を剥いた壱を、薫子は静かな表情で見、続ける。
「彼女、この所不在だと聞いたわ。学校へも姿を見せないと」
「どうして」
「新田先生の口利きで、私達は知り合ったでしょう?」
「でも、そんなことまで」
「可奈子さんもまた、私が目をつけている方だから。それでも口を割らせるのには時間がかかったものよ」
「……そうですか。はい、確かに今、彼女は学校には来てません。家には居ると思いますが」
「解るの?」
「丁度昨日、行ってきたんですよ」
言い差して壱もアイスコーヒーを啜り、それから昨日の顛末を話した。
可奈子が恐らく家には居るであろう事と、使用人をも巻き込んだ事態でもある事。流石に何故そんな状況なのかは伏せた方が良いだろうと思い口にはしなかったのだが、返って来た答えは壱のそういう思惑を上回るものだった。
「どうしてそんな事をするのか、一応私は知っているのよ」
「……」
「知った、という方が正確かしらね。鶴岡が、あの鶴岡だとは思わなかったから」
「どういう事ですか?」
「楡原の親戚なのよ、鶴岡は。まあ、血縁は殆ど無いと言って良い程に遠いけれど」
それも、やはり意外な話だった。今朝から意表を突かれてばかりだとなんとなく思う。
「黒沢君も、楡原と聞けば解る通り、あの家はとにかく体面を大切にするわ。そうでなければ今の栄華も無かったのでしょうけど」
「はい」
「だから、親戚筋からそういうおかしな人間が出てしまう事を恐れたのね。警察を使わずに、なんとか事を収めようとしてきたそうよ」
言われて、汗が噴出してくるのが解った。ひょっとすれば、壱は先日にでも警察に全てを曝け出してしまっていたかも知れないのである。そうすれば、いくらかでも薫子に迷惑がかかったかも知れないと思うとぞっとするしかない。
「可奈子さんが貰われた子であるという話を?」
「聞いています、本人から」
「そう。その辺りも極めて曖昧でね。ただ解ったのは、今現在も可奈子さんは鶴岡陽一……これは彼女の父にあたる人間だけど。その男に暴行を受けているわ」
「……そこまで解って、何もしないんですか? 体面というのが大切なあまりに?」
思わずそう言ってしまっていた。サックスのプロだとか、そんな話は既に壱の脳裏には無い。
薫子は壱の声に少しだけ目を丸くして、それから厳しい口調で返す。
「子供のように、感情のままに行動する事は許されない世界もあるのよ。別にこれは薄情であるという事ではなく、世間体を気にしての事でもない」
「じゃあ今すぐにでも」
「告発を?」
「……」
「いいでしょう。そうした時、あの家に勤めている人間、あの家と取引がある会社、そしてその社員。続いて家族。そういうものが一挙に被害を蒙ると、想像出来るかしら」
言われて、壱は黙るしかなかった。拓の「環境に目を配れ」という言葉がまた抜け落ちていた。特に可奈子に関わる事だけに、彼女しか見えなくなってしまっていると自覚する。
「すみません」
「いいえ。だからね、これは私達に任せては貰えないかと思って。新田先生も、貴方がいずれ無茶をする可能性があるかも知れないと漏らしていたの。それに、釘を刺したかったというのが今日のお話」
そこまで言って、薫子はちょっと店主を振り返った。程無く、ウィンナコーヒーの差し替えが出てくる。
「任せろ、と言っても、どうされるおつもりなんですか?」
「夏海」
壱を無視するように、薫子は夏海の名を呼んだ。素早く、夏海が傍に立つ。
「やっぱり、来須に謝っておいて」
「かしこまりました」
そのやり取りだけで、夏海は携帯電話を取り出しながら出て行った。状況が解らず、混乱する壱に、薫子は小さく微笑んだ。
「可奈子さんはあの家に居るから、現状から抜け出せないのよ。彼女自身の思惑も、或いはあるかも知れないけれど」
「というと?」
「私が事を耳に挟んだのは、彼女に会う前日だった。以来、私は可奈子さんとしか呼んでこなかった。直に、鶴岡ではなくなるから」
「……それは、戸籍を、という事ですか」
壱もドイツから日本への帰化も含め、戸籍の移動という事態は身近なものではある。また、児童養護施設から子供が出て行く折に、手続きに臨んで色々と兄に教えられた事もあった。
薫子は壱の言葉に頷く。
「極端な方法ではあるけれど、刑事事件にせず事を収めるには、これぐらいしか私の頭では思いつかなくてね」
「いえ、そんな」
生返事をしながら、しかし壱は現実的過ぎるこの方法を、また現実的であるが故に良いかも知れないと思い始めていた。可奈子の意思はそこに無いが、しかし今のままで居て良い筈が無いのだ。
電話を終えたのか、夏海が戻ってくる。そして何事か囁き、またカウンターへ戻った。店主はこういう事にも慣れているのか、意に介さないようにグラスを磨いている。
「かくして突然外に放り出された彼女を落ち着けてあげられるのは、黒沢君。貴方しか居ないとも、新田先生は仰ってたわよ」
「俺ですか」
「そのつもりは?」
「勿論」
反射的に、叫ぶような口調で壱はそう言ってしまっていた。薫子がまた微笑ましげに頬を緩め、気恥ずかしくなる。
「あ、でも、住む所なんかは」
「それは私達が当然用意するわ。ま、恩着せでもあるかも知れないわね」
今度は皮肉っぽく笑って、薫子はまたカップに口をつけた。
実際に可奈子が法的な裏づけを持って鶴岡家を出られるのであれば、確かに色々な面倒もあるだろう。そういう事態に彼女はひどく疲れるだろうと思えば、壱は自分が出来る限りの事をしてやりたいとも思う。吹奏楽部の部員達もまた、同じように協力してくれる筈だ。
考えれば考える程、今の自分よりも、薫子の話の方が実行力も説得力もあった。
「あの」
「はい」
「すみませんでした、さっき」
「いいのよ。黒沢君の言葉は、恐らく何よりも正しいものだから。それ故に、容れられないという類のものではあったけどね」
「青臭いんでしょうね、俺は」
「だとすれば、康臣も青臭いわね」
「楡原康臣……さんがですか」
「さっきまで、弟の部屋に行っていたのよ。仕事の打ち合わせでね。勿論あれも楡原だから、鶴岡さんの顛末は耳に挟んだのでしょうね。なんで今すぐ警察を呼ばないんだと怒鳴られたわ」
「そんな事が」
そう言われて、なんとなく嬉しいような気分になった。楡原康臣に何の意図も無いだろうが、彼と同じ言葉を口にしていたというのが喜びになる辺り、自分も普通のファンなのだと内心笑った。
「とりあえず、そういう事。ここは1度、汚い大人に任せて。ね?」
「あ、はい」
「ありがとう」
礼を言うのはこっちだ、と言いかけた所で、薫子は席を立った。夏海が腕時計を確認し、1つ頷く。
忙しい中、わざわざ説明をしに来てくれたのだと思うと、言葉も無かった。




